第一条

第一項「同棲契約」 side神里悠人

「よし、それじゃあ遅くなったけど家に向かおうか」


 帰る意志を言葉にして水瀬みなせさんに伝える。

 飛び降りようとしていたことを考えれば当たり前なのかもしれないが、水瀬さんは自転車で来たわけではないらしい。

 

 階段を降りたところにある自分の自転車を回収して、ブレーキを効かせながらゆっくり裏山を歩いて下る。


 

 

「……それで、あなたのお家はどこなの?」


 数分間の沈黙を先に破ったのは水瀬さんだった。


「徒歩だと山を下りてから十数分っていったところかな」


「そう。なら早く行きましょう」


 家へ帰る途中、水瀬さんに『なんで自殺しようとしたのか』とか『何にそんなに追い詰められているのか』とか聞きたいことは山ほどあった。

 しかしもちろん軽く質問していい内容ではないし、何より彼女のまと悲壮ひそうな雰囲気が一声も許してくれない。

 

 

 それから黙ったまま歩き続けたが、隣を歩く水瀬さんの存在により何分経過したかわからなかった。


「あの、目の前のアパートに住んでいるんだけど、自転車置いてくるからここで待ってもらえる?」


「わかったわ。それと気になったのだけど、あなた……その、ご両親は?」


 どこかおびえるようにおずおずと聞いてくる。


「ああ、俺は一人暮らしだよ」


「……そう」


 質問が終わったことを肌で感じ取ると、目の前に見えてきた自転車置き場の方へ足を向ける。

 長く待たせまいと手早く自転車を決まった所に置き、かちゃりと鍵を抜いて戻ればエントランス前で待つ水瀬さんが見えた。


「……えっと、入ってもいい?」


 いたたまれなくなり水瀬さんに声をかける。


「? それはこっちのセリフでしょう?」


「ではお言葉に甘えまして」


 もちろんそうであることは分かっていたが、雰囲気が暗いからとは口が裂けても言えず黙って暗証番号を入力する。


 まだ慣れない電子ロックの解除をつつがなく終え、304とタグのついている鍵を前もって取り出す。

 ロックの解除と同時に空いた自動ドアを抜けて、他の階にいるエレベーターを1階に呼ぶ。

 

 後ろを振り返ると、水瀬さんも流石にロック解除の一連のシステムは知っているようでしっかり付いてきていた。

 

 

 道すがら、他の住民と会うことはなく特段会話もせず家の前にたどり着いた。


「た、ただいま」


 誰かがいるわけではないのだが、無言で家に入るような雰囲気ではなかったのでたまらず声を上げた。


「お邪魔します」


 遅れて水瀬さんも玄関に足を踏み入れる。


「そこの洗面所で手を洗ったらリビングでくつろいでいていいから。俺は先に望遠鏡を片付けてくるよ」


 洗面所の方向を指し、施錠せじょうのために玄関の鍵に手をかける。


「わかったわ」


「あ、ちょっと待って」


 1つ言い忘れていたことを思い出し、洗面所に行こうとする水瀬さんを呼び止める。


「何かしら?」


 疑問符が頭に浮かぶようにこてんと首をかしげる水瀬さん。


「この玄関の鍵の開錠かいじょうの仕方なんだけど、この取っ手みたいなものを左に90度回せば開くから」


 何度か鍵を開けたり閉めたりして開錠かいじょう施錠せじょうの様子を見せる。


「……なんでそんなことを教わる必要があるのよ」


 如何いかにも訳が分からないといった表情をする水瀬さん。


「いや……その、万が一おそわれたときとかに?」


「そういうことをするつもりなの?」


 じとーという音が聞こえてきそうな目を向ける。


「いやしないからね!?」


「まあ、言いたいことはわかったわ。あと鍵のことも」


 そう言って水瀬さんは靴を脱ぐときっちり揃えて洗面所に消えていった。


「はあ……」


 何はともあれ家に帰ってきたという事実が心を一気に落ち着かせる。


「まずは望遠鏡の状態を確認っと」


 水瀬さんを助けるため咄嗟とっさに放り投げた望遠鏡だったが、専用の袋が機能したのか幸いにも傷は1つも見当たらなった。

 そんな望遠鏡を元の場所に戻し、リビングに水瀬さんがいるのを確認してから手を洗うため洗面所に向かう。

 

 想像より冷たかった水は、先ほどまでの出来事が現実であると改めて自覚させた。


 

 

「……えっと、落ち着きました?」


 リビングに戻ったはいいものの、なかなか話し始めるタイミングが見つからない。

 とはいえ、家に行って落ち着こうと提案したのは自分なので苦し紛れながら丁寧に様子をうかがう。


「私は落ち着いているけど」


 平然と言葉を返す水瀬さん。


「そういうことではなくてですね……」


 表面上は落ち着いているように見えるが、目は心ここに在らずといった様子を示している。

 その数秒後、言いたいことを理解してくれたのか、水瀬さんは一度溜息ためいきをついてぽつぽつと話し始めた。


「……私、親に出て行ってくれって言われたの」


「……」


 悲しむわけでもなく事実を淡々たんたんと述べるような水瀬さんの話し方に圧倒させられる。

 口はおもしが乗せられたかのように重く、開くことはなかった。


「今言えるのはこれだけよ」


 それでも精一杯伝えきった様子が水瀬さんの顔から分かる。


「……いや、話してくれてありがとう」


 少しでも水瀬さんの辛さが軽減できますようにと、なるべく優しい声で話しかけることしか自分にはできなかった。


「もうこんな時間になったのね」


 水瀬さんが見ている方向に視線を向けると、時計の針は1時を指す直前だった。


「明日も休日だから気持ちが落ち着くまでゆっくりしていいよ。細かな説明は明日するとして、今は部屋だけ紹介するね」


「お願いするわ」


 一人暮らしではあるが、来客用兼妹がお泊り訪問できるよう自分の部屋以外にもう1つ部屋がある。

 そのようなアパートを自分ではなく妹たっての希望で選んだのだ。


 従って、クローゼットの中には来客用の寝具やその他までしっかり用意してある。


「水瀬さんはこの部屋を使って。寝間着とタオルはクローゼットの中で、コップや歯ブラシはさっきの洗面所においてあるから」


「ありがとう、助かるわ」


 そう言って水瀬さんはクローゼットを開ける。


「……どうして女性用を持っているのかしら?」


 やっぱりという目線を向けられたので慌てて弁明をする。


「妹! 妹がいるんだって。いつか兄さんのところへ泊りに行くからってこれを置いて行ったんだ」


「あら、妹がいるのね」


 必死な弁明はさらりと流されることになった。


あおいって言うんだ。まだ中学生だけどね」


「妹さん、兄思いなのね」


「いつもうるさいよ?」


 何時ぞやか、笑顔で飛びついてきた葵の姿が脳裏に浮かぶ。


「明るくていいじゃない」


 何気ない会話だったが、一瞬水瀬さんの顔がくもったのを見逃さなかった。

 このあたりの話題も地雷を踏みかねないと注意しておこうと心に留める。


「もう遅いからシャワーは明日の朝使ってもいいかしら?」


「もちろん。俺も歯を磨いたら寝るから。」


「ええ。おやすみなさい」


「おやすみ」


 

 片付けなどを全て終え、布団にもぐって目を閉じると今日のハイライトが浮かんできた。

 

 一生に一度レベルの体験をして、あまつさえ少女を家に招くとは。


「それにしてもあの制服、どこかで……」


 水瀬さんの着ている制服に見覚えがあったような気もしたが、思い出す前に意識は闇の中へと旅立った。




「ん……?」


 生活習慣は崩してないので目覚ましも必要なく7時きっかりに起きることができるのだが、今日は違った要因で起きることとなった。


 じゅうじゅうとリビングから何かを調理している音が聞こえるのである。

 

 そうだこの家には水瀬さんもいるんだと思い出し、軽く身だしなみを整えてからリビングに顔を出す。


「あら、おはよう。よく眠れたかしら?」


「おはよう。水瀬さんの方こそちゃんと眠れたの?」


 キッチンに立つ水瀬さんは昨日の制服姿でありながら髪を後ろに束ね、その上しっかりエプロンを着こなしている。


「ええ、お陰様で。あとごめんなさい。シャワーを勝手に借りた上にエプロンと卵、食パンを使わせてもらったわ」


 先ほどの音は目玉焼きを作っている音だったらしい。

 テーブルには2人分の朝食が用意されている途中だった。


「むしろ俺の分まで作ってもらって申し訳ない」


「気にすることはないわ。契約通りだもの」


 そういえばそんなことを言っていたような気がする。


「それでも嬉しいよ。いつもは1人だからね」


「そ。朝食ができる前にシャワー浴びてきなさい」


 エプロンを揺らしながら水瀬さんは急かすように手で合図する。


「わかった。ありがとう」



 

 シャワーを浴び終えてリビングに戻ると、朝食を作り終えた水瀬さんが待っていた。


「もうできてるわよ」


「待たせてごめん!」


 急いで席に着き、手を合わせる。


「「いただきます」」


 始めに焼きたてのトーストにかじりつく。

 孤独な食事ではないということもあり、その温かさが体に伝わってより活力がみなぎってくる気がした。

 目玉焼きもしっかり半熟になっているため、目玉焼き半熟派の自分にとっては嬉しい限りである。


「うん。美味しいよ、ありがとう」


 こういう時に美味しいという言葉しか出てこないあたり食レポには向いてないんだろうなあと思いつつも、感想を伝え水瀬さんに目を向ける。

 すると水瀬さんは居心地が悪そうに視線をずらしていた。


「目玉焼きとトーストよ? 小学生でも頑張ればできるわ」


「それでも母さん以外の人の手料理なんて食べたことないから」


「そ、そう……」


 これから水瀬さんはどうするのかということについて話そうと思ったが、食べながら話す内容ではないと断念することにした。


「片付けは俺がやっておくから」


 食べ終わった水瀬さんにそう話しかけ、食器を運んで洗い始める。


「私も手伝うわよ」


 水瀬さんに反発されたがそこまでお世話されるわけにもいかない。

 ここは俺に任せてよと言おうと思ったが、他人の家にいる水瀬さんの立場も考えると簡単なことをやってもらった方がいいことに気づいた。


「じゃあ、洗った食器を拭いてもらえる? そのあとの片付けは俺がやるよ」


「任せてちょうだい」


 何か話そうと思って隣を見ると集中している水瀬さんの姿が目に入ったので、邪魔するのも悪いだろうとここでの会話も諦めざるを得なかった。


 最後の皿を食器棚にしまい片付けを終える。

 時計を見ると時刻は8時30分となっていた。


 そろそろ今後について話さなければならないと思い、椅子に座っている水瀬さんに声をかけた。


「あの、水瀬さん。今後についてなんだけど……どうするつもりでいるの?」


「今考えているわ」


 そう簡単に終わる話ではないだろうと思い、水瀬さんと反対側の椅子に腰を下ろす。


「まず確認なんだけど、ご両親の元に帰るつもりは今も無いの?」


「ええ、もちろんないわ」


 一晩たってもはっきり答えられるのを聞いて、二度と戻らないという気迫きはくを改めて感じた。


「じゃあまず泊まるところからだよね」


「家を借りればいいでしょう」


 学生だけで借りるのは流石に無理だとわかる。

 そういえば水瀬さんの年齢を聞いていないことに気づいた。


「あの、水瀬さんって今いくつ?」


「15だけど」


 あれ、というと。


「もしかして高校1年生?」


「その通りよ」


 つまり水瀬さんと自分はタメということになる。


「まじか、同い年なのか」


「あなたも15なのね」


 そして確信したことはもう1つ。


「そしたら家は借りられないね」


「……難しいわね」


 知っていて発言したのかは分からないが、先日と言い水瀬さんの行動力には目を見張るものがある。

 しかし、それは良くない方向にも当てはまってしまうようだが。


「おばあちゃんの家とかは?」


「あの2人の息がかかったところにはお世話になりたくないわ」


 それ以外の手段もホテル暮らしは金銭的に厳しいだろうし、漫画喫茶は水瀬さんの性に合わないだろう。

 このままでは四方八方手詰まり、四面楚歌しめんそかというやつである。


 その事実に水瀬さんも気づいているのか、2人の間に沈黙が流れる。

 



 1つ閃いた。

 いや、閃いてしまった、という方が正しいだろう。

 もしこの案を行動に移してしまったら、おそらく社会的には娘さんをさらった誘拐犯ゆうかいはんになってしまう。

 それに水瀬さんがこの案を良しとするのか。


 聞こえる全ての雑音がまるで冷却ファンの音のように、頭をフル回転させていく。


 浮かんでは消えてを繰り返すアイデアが堂々巡りになる直前、心が脳内の稼働かどうを止めた。


 現実的かどうかとかそういうことじゃないんだ。


 水瀬さんは確かに困っている。


 1つの解決策は自分が持っている。


 自分は水瀬さんにどうなって欲しいのか。


 そして、自分はどうしたいのか。


 ――俺は、水瀬さんを笑顔にしたい――


 直観的かつ短絡的な善意からなるものであったが、数学の証明問題のように明らかにされた自分の気持ちを押し留めることはできなかった。


「あの、水瀬さん。1つ考えがあるんだけど」


「なにかしら?」


 顔を上げた水瀬さんと目を合わせる。


「俺の部屋を借りるということで『契約』するのはどうかな」


 思い浮かんだ考えというのは部屋を貸すということである。

 つまりなるべく近くにいて、水瀬さんを笑顔にしようと尽力じんりょくする魂胆こんたんだ。

 

 厳密に言えば、支払いを親に頼っている自分が部屋を貸すというのは違うのだがそこは言葉のあやである。


「つまり私があなたの部屋を借りる代わりに何か対価を支払うと」


 一晩の信用があるのか、今回はあらぬ疑いをかけられることはなかった。


「個人的には、対価としてご飯を作ってくれるとありがたいな」


 昨晩、水瀬さんが『契約』にご飯を対価として差し出したあたり炊事すいじには自信があるのだろう。

 自分も自炊じすいできないことはないのだが、やはり美味しいものが食べたい。


「少し、考えさせて」


 水瀬さんはあごに手を当てて再び考え始める。


「もちろん。ゆっくり考えて欲しい」


 この考えは水瀬さんを笑顔にしたいという単なる独りがりな思いの元、発言されたものである。


 心中の思いを知られたら傲慢ごうまんで偽善すぎると言われるかもしれない。


 それでもあの時手を伸ばしたように、今度は水瀬さんが笑って過ごせるよう手を差し伸べたい。


 そう覚悟を決めて、永遠にも感じられる時の中、水瀬さんの返事を待った。


「……納得はしたわ。確かに合理的ね。うん、あなたが構わないというのならその方向で『契約』したい」


「では部屋を貸す代わりにご飯を作ると」


「ええ、承諾したわ」


 水瀬さんが提案を認めたことがわかると、体は勝手に握手を求めていた。


 伸ばされた手を見て水瀬さんは一瞬驚いたような表情を見せたが、握手の意思をくみ取るとしっかり握り返してくれた。


 

 握手の瞬間、水瀬さんが笑っていたように見えたのは気のせいだろうか。



「生活に関する細かいルールは後で決めるとして。まずは、これからよろしく。水瀬さん」


「私からも。これからよろしくね、神里君」



 かくして『同棲契約』は結ばれ、水瀬さんを加えた新生活が始まるのであった。

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