記憶喪失





何日かしてえらのママが新聞を取りに外に出た。

かなり寒い朝だ。


ふとそばの歩道を彼女が見るとぼろぼろの服を着た

一人の男がうずくまっていた。

驚いた彼女は一瞬腰を抜かしそうになった。


だがその時、男が顔をあげた。


「えっ、し、正ちゃん?!」


えらのママが男に駆け寄ると彼は山田正一だった。

あの気取った貴族の顔でなく元の顔だ。

彼はどことなくうつろだった。


体がすっかり冷え切っていた正一をママは慌てて店に引き入れた。

警察を呼び保護してもらう。

彼には10年前に失踪届が出ていたのをママは知っていたが、

その母親は残念ながら彼が見つかる前に亡くなっていた。


ママは何度か正一を病院に見舞った。

彼の記憶は八名商店で働き出した頃から今までのものが無くなっていた。

今の状況を理解するのにしばらく時間がかかったが、

自分の容姿が歳を取っていた事と、母親の死を知って悟ったようだった。


彼には親戚は他にもおらず、天涯孤独の身になっていたのだ。


「えーと、どうしようかねぇ。」


ママは警察からの電話で少しばかり迷っていた。

それは山田正一の身元引受人の話だった。


「知り合いは私しかいないんだね。」


病室で母親の死を知って泣き崩れていた正一を見て、

若い時に虐められこの店で泣いていた彼を彼女は思い出した。


彼女には息子が一人いる。

夫を早くに亡くし女手一人で育てた息子は

彼女に反抗して家を飛び出していた。


だが彼は結婚後しばらくしてその嫁と一緒に店に来た。

穏やかな顔をした嫁は気の強い二人の間に立ち、

呑気な様子でにこにこと笑っていた。


それを見ていたえらのママも息子も

昔からのわだかまりなど知らぬうちに消えてしまった。

今では何の心配もないのだ。


だからこそ正一の事が心配になった。

一人息子を探しに来た母親の姿を思い出す。

あの人も苦労して子どもを育てたのだ。

その子が行方不明になってしまって心労が祟った結果

命を縮めてしまったのかもしれない。


ママは決心した。


「分かりました。私が身元引受人になります。」


退院した正一はしばらくぼんやりとしていたが、

ママは容赦なく仕事を与えた。

家の事から店の事まで。

不思議な事にその頃から客足が戻って来た。

街の様子が変わって来たのだ。


知らないうちにえらんてぃすが昭和レトロの店と

ネットで話題になっていた。


「一緒に写真を撮ってもらえますか?」


と若い娘に言われてポーズも取った。

何が何だか分からないが、

毎日が急に忙しく華やかになって来たのだ。


それにつられてなのか正一もよく動くようになった。

そして色々と思い出したのか服を作りだした。

彼好みの貴族の様な格好だ。

それもなぜか「コスプレマスター」と話題になり、

彼を見に来る客も出て来た。


「正ちゃん、お疲れ。」

「ママもお疲れ様です。」


今日の営業時間も終えて二人は椅子に座った。

正一は八名商店で虐められた頃の記憶はなく、

昔は母一人子一人の生活だったからだろうか、

心の優しい素直な性格になっていた。


「何だか忙しいねえ。」

「ですね。」

「ところであんた、体の具合どうだい。記憶は戻った?」


正一が難しい顔をした。

彼が見つかった時には額に穴の様な大きな傷があった。

脳に異常はなかったが、

その傷が元で記憶が無くなったのかもと言われていた。

今では跡は残っているが縫い合わされて塞がれている。


「やっぱりどうしても戻らなくて。」

「そうかい、しばらくは病院通いも続けなきゃならんね。」

「そうですね……。」


正一が一瞬俯きすぐに顔を上げた。


「でももう思い出さなくても良い気がします。

今どうするかが大事なような。」

「……そうかい。それも生き方の一つだな。」

「はい、いつまでも迷っていても仕方ないです。

無い物は無いから。」


ママが正一の顔を見た。

その顔には曇りは無かった。


「正ちゃん、あんた母さんの墓参りに行きたいと言っていたね。」

「はい、一度行きたいのでお休みが欲しいです。」

「そうだね、近々お休みを取ろうか。

それとは別にちょっと相談があるんだけど。」

「はい、なんでしょう。」


ママが正一に話をする。

そして彼の顔が驚きに代わった。








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