遠い約束  1 





空襲はますます激しくなっていった。


だがここは町はずれにあり人気ひとけもない。

以前は夜になれば不夜城の様に明かりが灯ったが、

今はひっそりとしている。

明かりをつけてはいけないのだ。

だから幸いにも未だに空襲には遭っていない。


それでも客は来る。


しかも、すぐにでも戦場に行く若い男ばかりだ。

彼等はここで想いをぶつけて旅立っていく。

戦地から帰って来られるかどうかは分からない旅にだ。


「なんか疲れた。」


ヒサが薄暗い明かりの元で鏡を見ながら髪を梳いていた。

そして大きくため息をつく。


今日は客が来るかどうかは分からない。

最近は自分と同じぐらいの年の若い男性ばかりだ。

皆は帰りに礼を言い敬礼をして帰って行く。


彼女がこの仕事について2年程になる。

貧しい農家生まれの彼女は口減らしのために売られて来た。

抵抗もしたがそんなものは無駄だった。

そして無理矢理この街に連れて来られたのだ。


この街は巨大な牢屋だ。

出られるとしたら身請けされるか死ぬ時だ。


「借金を返したら出られるよ。」


おかみが言う。

だが戦争が激しくなり、そのあてもなくなった。

今では米や野菜などがお金の代わりだ。

着ているものも古い着物を縫い直したモンペだ。


少し前まではそれなりに綺麗な着物が着られた。

自分で縫う楽しみもあったのだ。


ヒサは縫物が得意だった。

それで身を立てたいと常々思っていたが、

その前に彼女はここに連れて来られた。


ここでも着物を何枚か仕立て直したが、ただ便利に使われているだけだ。

おかみに着物の仕立ての腕を生かしたいと言っても

全く聞き耳を持たなかった。


「お前達が働かなきゃおまんまが喰えないんだよ。」


おかみは冷たく言う。

ここも空襲で焼かれてしまえば良いのにとヒサは思った。


「ヒサ、客だよ。」

「……はあい。」


今日の客は誰だろう、

芋でもこっそりと持って来てくれればいいのにと思った時だ。

襖が開く。

薄暗いそこからのっそりと男が入って来た。


久子ひさこ。」


聞いた事のある声がする。

ヒサは思わず後ろに下がった。


「俺だ、三郎だ。」


『ヒサ』は本当は久子という名だった。




三郎は久子より5歳年上だった。


村の子どもたちはいつも集まって遊んでいた。

当然年上の子は小さな子の面倒を見る。


小さな頃から三郎は体が大きかった。

その上愛想もなくむっつりとしている。

そのせいか小さな子は怖がってあまり近寄って来なかった。


だが久子は違った。


三歳の久子は三郎の近くにいつもいた。

なぜなら彼に抱かれると遠くが見えるからだ。

口下手な三郎だが本当はとても優しい子だと

久子は分かっていた。


彼を見上げて目が合うと三郎は時々抱き上げてくれた。

時には高い高いをしてくれる。

その時の浮遊感が久子は好きだった。


彼が久子を抱いていると村人が言う。


「弁慶と牛若丸みたいだな。」

「うしわかまる?」


久子がたどたどしく聞いた。


「ああ、京の五条橋で刀を奪い取っていた弁慶を、

牛若丸が懲らしめたのさ。

ひらりひらりと欄干飛び越え、弁慶打ち取ったりいいい。」


村人が手を広げてふざけた。

それを見て久子が笑う。

三郎も少し笑っているような顔をしていた。




「三郎、どうしてここに。」


体の大きな男が静かに中に入って来た。


「探したぞ。」


久子の顔が歪む。


「笑いに来たんか。」

「い、いや、違う、俺は、」


三郎が口ごもる。


「俺、戦争に行くことになった。」

「戦争……。」


三郎は農家の三男坊だ。


「だから俺、どうしてもお前に会いたくて……。」


三郎はそこに座り込み背を丸くして言った。


久子はどうしていいのか分からなかった。

彼に今のこの姿を見られたのは正直嫌だった。

久子は三郎のことが好きだったからだ。


だが、親の借金で自分は売られた。

彼にさよならを言う事も出来ず身を堕としたのだ。


「どうしてここが分かったの。」

「お前の親父から聞いた。」


ここに来てから久子は家族には会っていない。


「妹達や母ちゃんはどうしてる?」


三郎はしばらく沈黙していた。

そして静かに言う。


「……空襲で死んだ。」


久子は息を飲んだ。


「うそ……。」

「お前の父ちゃんだけ生き残った。」


久子は三郎に縋り付いた。


「それを言いにあんたは来たのか。」

「そ、それもある、が……その、」


三郎は喋るのが苦手だった。

気持ちを上手に言葉にできない。

だが今日は以前の彼とは違うように久子は感じた。

しばらくして意を決したように三郎は言った。


「……俺は多分南方に送られる。

新聞じゃ景気のいい話をしているが、あんなもの嘘だ。

南方に送られたら生きて帰れないらしい。

だからお前に会いに来た。」


薄暗い中でひたと三郎が久子を見た。


「お前に会わなかったら死んでも死に切れん。」


彼は久子に抱きつき押し倒した。


突然の彼の荒い行為だ。

彼女は今まで何人ものこれから戦地に赴く若者と出会った。

皆どのような生活を過ごして来たのかは分からない。

だが全員が決意を持っていた。

それが良い事か悪い事かは分からない。

ただ、その前に彼らは自分に癒しを求めているのだ。

食べ物と引き換えの行為だが、

彼等の必死の想いに応えるのは

自分の仕事なのかもしれないとの思いはあった。


そして三郎もその彼らと同じだった。

久子の身内の死を告げた後にそのような行為は

あまりにも身勝手かもしれない。

だが悲しい心を感じながら三郎の気持ちも久子は分かった。

三郎に会いたかったのは久子も一緒だったからだ。

何年かの想いは二人は同じだったのだ。


明け方近く、三郎のそばに久子は寄り添い静かに泣いた。

三郎は彼女を包み込むように抱いた。

言葉よりなにより優しい抱擁だった。


「……俺はもう帰れんかもしれん。

でもまたどこかで必ずお前と会う。

その時はすぐ分かるようにする。」


それは一体どんな事なのか久子には良く分からなかった。

だがそれは何かの約束なのだ。


「帰れんって言わんで帰って来て……。」


久子は囁くように言った。


「お前も約束してくれ。」


青白い夜明け前のほのかな光の中で三郎が久子を見た。


「私も分かるようにする。

絶対に見つけて。私も絶対見つける。」


それは叶うかどうか分からない儚い約束だ。

だがそれでも二人には希望に見えた。

二人は再び固く抱き合う。

まだ夜は明けていないと言うように。


そして彼は朝日の中、敬礼をして帰って行った。

その姿を見て久子は彼はもう二度と戻って来ない事を悟った。




それから数か月した頃か。

久子は妊娠をしていた。

あの三郎の子かもしれないと彼女は思った。


「家に帰りたいって。何言ってんだい。

あんたの親父が来てまた借金して行ったよ。

家が焼けちまったらしいね。その間分働いてもらわないと。」


久子は愕然とした。

そしてしばらくして遠くから轟音が聞こえる真っ暗な夜中に

狭い部屋を抜け出した。


遠くでは空襲の光が見える。

サーチライトが空を照らし上からも下からも小さな光が行きかっていた。

上に行く光はすうと消えてしまう。

だが地上の光は赤く禍々しく激しくなるばかりだ。

あの赤い光の中でどれだけの人が苦しんでいるのだろうか。


上空を通り過ぎる飛行機の恐ろしい音がする。

久子は必死に走った。

お腹が痛くなったがそれでも走った。

だが景色は変わらない。


なぜなのか、必死の彼女には何も分からなかった。

そして男に腕を掴まれる。

気が付くと彼女は同じところに戻っていた。


その後彼女は座敷牢に閉じ込められた。

子どもは流れてしまった。


そして彼女は食事も水も飲まず横たわったまま、

数日して亡くなってしまった。


やがて夏の暑い日に戦争が終わった。


三郎も日本に帰る事は無かった。

だがその知らせを受ける人は誰もいなかった。







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