前提

『ライトノベルとは』の議論を始める前に、まず2つの前提を挙げておきたい。客観的な事実というよりも、本エッセイが何をアプリオリとして置いているか、そういう前提の話だ。

 このページの前提が受けつけない場合にはその先を読まずブラウザを閉じるのが吉だろう。アプリオリとはそういうものだからだ。


・小説は読者の人生を支えるためにある。


 ここで言う読者とは、読者数の多寡、全ての読者が作品に傾ける熱量の積分値を意味しておらず、あくまで一人の読者にとってという意味だ。作者自身が読者であっても構わないが、その場合は客観的価値やその位置づけを議論する意味合いは薄れるだろう。

 とにかく、読者という人間は、現実の人生を生きている。その人生で上手くいくこともあれば、上手くいかないこともあって、自分の現実の人生とは異なる体験を小説に求めている。それが「同種の体験をしたことがあるが、個別事例としては異なる体験」を意味しているか、「全く別種の体験」を意味しているかは場合によりけりだが、その読者の希望に答えることが小説の使命である。


・最終的な価値判断は個々の読者に委ねられている。


 一つ混同されがちな話として、純粋な読者の立場としては「ライトノベルはクソ」「純文学は退屈すぎて読めない」みたいな雑な議論をしても許されるということだ。なぜなら、それは個人の感想であり、個人の嗜好であり、個人の人生だからだ。嫌いなものを嫌いと言えない人生は、好きなものを好きと言えない人生と同様に苦痛だ。そして、特定の小説がその読者の好みに合わないと言うのは、上で言った、読者の人生を支えるという使命を、その個人にとってはその小説が果たしていないという意味では絶対的に真実だ。


 だがこれは、必ずしも客観的価値の優劣を意味しない。ライトノベルに限らずありとあらゆる物事について、個人としての好き嫌いと、論理的・規範的前提を混同して、どちらがどちらに比べてより優れているかを証明しようとする論客は数多いるが、そこには必ず客観的とは言えないアプリオリが混じっている。

 少し脱線した話をすると、論理的命題とは「空は青いか青くないかのどちらかである」というような、絶対に正しい命題だ。絶対に正しい命題はしかし、驚くほど情報量が少ない。内容のある話をしようとすると、必ず前提を数多く並べなければならない。

 何が言いたいかというと「ライトノベルを好きな人に向かって、こういう理由でライトノベルは劣っていると説得する論理的な文章」は書けないのだ。当然逆も然りである。置いている前提が違う論者の間で見解の一致を見ることはできないし、論理で殴り倒すこともできない。そして、その根幹に必ず存在しているのは個々の好き嫌いであり、それ自体は個々にとっての真実だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る