第7楽章 第2節

 あまりにも軽い口調の簡潔すぎる予想外の一言に、柊二しゅうじは絶句した。作っていた意地悪な笑みが瞬時に吹っ飛ぶ。

 もうちょっと深刻だというのが、せいぜい今日学校をサボったことを怒られたとか、やっぱり音楽祭の参加は気が進まないとか、その程度だと思っていた。

 怒られたのなら慰めてやれるし、気が進まないなら乗り気になるまで説得すればいい。そのくらいならいくらでもできる。

 しかし、突きつけられた言葉の意味は、そんな些細でどうでもいいことではなく、何よりも重く強烈な一撃だった。


「それ、どういうことだよ……?」

「両親の仕事の都合で地元に帰らなあかんようになったんよ。で、私もそれについていくから学校を辞めることになるわけ。でもって、それが明日なわけで」

「明日⁉ 随分急な話だし一方的すぎ……って、おい……ひょっとして、もう……?」

「うん。


 柊二の言いたいことをその表情から察し、それでもふみはあくまでお気楽な笑みを崩さずに言った。そうしないと、これ以上話せなくなると直感していたから。


「な、んで……?」

「さっき言った、親の仕事の都合ってやつがきっかけで。文化祭の日に、仕事の関係で急に地元へ戻らなあかん事態が起こったらしくて。けど、両親は私を学校の寮に入れて、自分たちだけ地元の家に帰るつもりでおったみたい。文化祭の日の夜、私はそれを両親から聞かされた。で、その入寮手続きを取るために、翌日……昨日やね、私は両親と一緒に学校へ行った。……あとは言わんでもわかるよね」

「…………」


 へへへ、と笑って文奈は頬を掻く。

 そこで柊二は、彼女の左頬に打撲の痕があることに気づいた。病的に白い肌がうっすらと赤く腫れていて、どうしてそんなことになっているのかは考えるまでもなかった。

 文奈の両親は入寮手続きを取るために担任や学年主任と面談し、そこで文奈が一学期からほとんど授業に出ていないことを知った。定期テストも全科目赤点で出席日数も少なく、現状で留年がほぼ決定だということも知ってしまった。

 それを聞き、卒業だけはと言う彼女の意思を尊重して普通科への移籍を許したのにと父は激怒し、学年主任や母が見ている前で娘を殴り飛ばした――

 まるで現場にいたかのように、柊二の脳内でその場面が再現された。


「あんなに怒ったお父さんを見たの、初めてやった。ものすごく怖かった……。殴られた痛みより、怒ったあの顔が怖くて……思い出すだけでも震えが止まらんようになる」


 冗談めかして言う文奈の表情は引きつり、縮こまった細い肩が震えていた。それだけで彼女がどれほどの衝撃を受けたかが容易に見て取れる。


「逆らえんかった。親が地元に帰るって話を聞いて、私を寮に入れるって言われて……それで学校に連絡したら留年がバレて怒られるのは予想できたし、そのときにする言い訳を一晩かかって考えた。連れて帰られるのは避けられへんけど、なんとか柊二くんと一緒に音楽祭に出るまでこっちに居られるようにするための言い訳を徹夜で考えた。それで、七つ――それっぽいことを思いついた。それだけあったら、一つくらい通用する言い訳もあるやろうと思った」

「…………」

「けど、お父さんに殴られた瞬間、私の身体ごと七つの言い訳が全部吹っ飛んだ。もう何も言えんようになった。どう考えても私が悪いし、親を騙して裏切ってた事実は変わらへんから、何を言う資格もないって気づいてしまった。せやから、これ以上欺けんと……欺いたらあかんて思った。だから……」


 と真剣なおもちで一旦言葉を切り、文奈はベッドから立ち上がると、柊二の正面で正座し額を床へこすりつけるように頭を下げた。

 彼女のそういった所作など今まで見たことがなかった柊二は、戸惑うよりも先に意識のざわつきに思考を支配された。


「申し訳ございません。私は、音楽祭であなたと一緒にピアノを弾くという約束を……果たせなくなりました」

「…………」


 神妙に謝る文奈を、柊二は能面のうめんのような無表情で見つめていた。

 ざわつく気持ちと凍りそうなほど冷静な意識が同居して、考えること全てが不鮮明にかき混ぜられて、感情が上手く表に出せないような感覚に陥った。

 そんな混濁した中でも、文奈が学校を辞めて地元に帰るということだけは、はっきりと理解した。

 それはつまり、ということだ。

 来月の音楽祭にも、一緒に出ることはできないということだ。

 お互いの気持ちをわかり合って、お互いを必要として、お互いに好きだと確かめ合ったその矢先、無情にも引き裂かれることになったということだ。

 しかし、柊二の心は凪の海のごとく静かだった。強烈なショックを受けているのに、意識はどこまでも平坦で起伏がなく、いつも以上に落ち着いていた。


 文奈と一緒にいられる時間は短いとわかっていた。

 長くても春休みまでで、その時点で文奈の留年が彼女の親に知られ、学校を去ることになると気づいていた。

 そうと知った上で、柊二は想いを伝え、彼女の想いを受け止めた。短い時間であっても、彼女と一緒にいたい、二人でピアノを弾いていたいと思ったから。

 柊二は、


 だが、それはもう少し未来さきの話だと思っていた。

 少なくとも音楽祭までは大丈夫だろうと、何の根拠もなく楽観視していた。

 こんなに早くそのときが訪れるなんて、微塵も思っていなかった。


「やっぱり、怒ってる……よね」


 一言もしゃべらなくなった柊二を上目で窺い、文奈は申し訳なさそうに呟いた。自分のせいで柊二に迷惑をかけたという自責の念が津波のように心へ押し寄せてくる。

 それに潰されまいと抵抗するには、言葉を紡ぐしかなかった。

 心からの謝罪の言葉を。


「ごめんなさい。私が上手く親を説得できたら、もう少しだけでも一緒にいられたかもしれんのに……」

「いや、別に怒ってるわけじゃないんだ。ただ……急すぎて、どうしていいのか……」


 表情を作ることもできず、どういう顔で文奈を見ればいいのかわからず、柊二は戸惑いすらも忘れて心の声を吐き出した。

 高校生にもなれば大人とほとんど変わらない、だからガキ扱いするな。と普段から考えていた自分が、いかに虚勢を張っているだけの子供ガキであったかを痛感する。必ず来る別れを覚悟していたはずなのに、いざとなるとこのざまか、と罵られても何も言えない。


 不安そうに自分を見つめてくる大切な人が目の前にいる。

 大丈夫と微笑みかければいいのか。

 震える小さな身体を黙って抱き寄せればいいのか。

 虚勢でも何でもいい、言葉をかけ続ければいいのか。

 その方法を知っているのが大人なのだろう。

 だが、俺はそうじゃない。大人じゃない。ただのガキだ。

 そんな俺に、何ができる?

 できることが何かあるのか……?


「文奈。俺は、どうすればいい?」


 気がつくと、柊二はそんなことを口にしていた。

 格好悪い質問だとわかっていても、それしか言えなかった。いつか文奈に言ったとおり、彼女が引くほど格好悪い姿をさらすしかなかった。


「俺はどうすればいいと思う?」

「……それに答える権利は、私にはあれへん。私のせいでこんなことになったのに、その私にどうしたらいいか訊くのは間違ってる。そう思わん?」

「そうかもしれないけど、本当にわかんねぇんだよ……。いつか、そう遠くない未来にお前と別れなければいけないっていうのは決まっていて、それを覆すことはできないとわかっていた。俺にはその力がないから。だから、受け入れる覚悟を決めた。――決めたはずなのに……今それを目の前にした途端、それが吹っ飛んだ。何が何でもこの事態をぶち壊してやりたい。けど、そのために何をすればいいのかわからないんだ。何も思い浮かばないんだ。お前のために俺ができる事は一体何だ? 何ができる?」


 もはや泣き言でしかない言葉を吐き出し、柊二はうなだれていた。言葉や感情とは裏腹に落ち着き払った表情からこぼれる本音は、異常なまでの重みを持って文奈の耳朶を叩く。


「…………」


 そんな弱気でどうするの、と柊二に言ってやりたかった。

 宣言どおり格好悪いところを本当に見せてどうするの、と笑ってやりたかった。

 けれど、自分の行いが原因である以上、何を言う資格もない。笑うこともできない。

 文奈には沈黙を守ることしか許されていない。

 こうして欲しいと願えば、それが彼の求める答えとなるとわかっていても、それを伝える権利はないのだ。

 ないが――


「あるよ。柊二くんにできること。ううん、


 言って、文奈は柊二の手を握った。

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