第7楽章 第3節
権利なんて関係ない。資格なんてなくてもいい。
柊二にはさんざんワガママを通してきたのだ。
いまさら一つや二つ、ワガママが増えたところで気にするようなことか。
今すべきことは、かつて気持ちを押し殺して自ら離れようとした文奈の手を取って、優しく抱き寄せてくれた柊二のように、権利だ資格だと無意味な自縛をやめて彼にして欲しいことを包み隠さず伝えること。
ただそれだけのことだ。
だから、はっきりと言葉にする。
彼に求める全てを。
「音楽祭でピアノを一人で弾いて、あの曲をみんなに聴いてもらうこと。それが、今の柊二くんにできること」
その一言で、柊二はうなだれていた顔をゆっくりと上げた。その表情は先ほどまでとは違い、どんよりと曇り、
「何だそれ……」
柊二は呻くように言葉を返す。
彼が求めたのは二人でいられる方法だった。そのために何をすべきかを訊いたつもりだった。
しかし、返ってきた答えは彼の希望を打ち砕くものだった。
文奈の願いは現実を突きつける残酷なもので、それを理解した柊二に絶望が湧き上がり、じわじわと意識を侵食していく。
「それに何の意味があるんだ……? 俺はお前と一緒に弾きたいんだ。お前が隣にいないんなら……一人でなら弾く意味なんて、どこにもない」
「意味ならあるよ。ここに、ちゃんと」
文奈は自分の胸に両手を当て、小さくうなずいた。私の心の中にあるよ、と。
「言ったよね? 私が連弾しようって言い出した理由は、柊二くんにあの曲を弾いてもらいたかったからやって。それは今も全然変わってへんから。隣に私がいてもいなくても、あの曲を弾いててほしい。ただ、それだけ。理由と言えるほど立派でもない、単なるワガママ。でもそれは、私にとってはものすごく意味のあることやから」
ふわり、と文奈は眩しそうに柊二を見つめて、柔らかに笑った。
それはさながら、淡い光の中に咲く真っ白で小さな花のようだった。そよ風にさえその花びらを散らし飛ばされそうな繊細なそれは、何よりも強くその姿を美しく誇っていた。地に根を下ろした細い茎は容易に
「どうしてだよ……」
その笑顔に、柊二は苦々しく呟いた。いつまでも見つめていたいと思える柔らかな表情を、今は直視できなかった。
「どうして、そんなふうに笑えるんだよ? 俺と会えなくなるんだぞ? それが悲しかったりしないのか? お前は俺のことを大切に思ってるって言ったよな。それが奪われようとしてるんだぞ? ケガでピアノが弾けなくなったときみたいに、失くそうとしてるんだ。なのに、どうしてそんなふうに笑えるんだよ……?」
言葉を吐き出すにつれて湧き上がる黒い感情に背中の辺りがざわつく。
それを言ってはいけないと思っていても止まらなかった。
確かめずにはいられなかった。
「なあ文奈。一緒にいられなくなることが悲しいって思っているのは俺だけなのか? お前はそうじゃないのか? そうじゃないんなら、どうして笑えるんだよ。どうしてそんなに……強いんだよ……?」
声がみっともなく震える。
不安と焦燥で押しつぶされそうになっている柊二には、文奈がこの避けようのない唐突な別れに何も感じていないように見えていた。
それが悲しくて――自分だけが悲しんでいるように思えて、情けなくて、寂しくて、大声で泣き出したくなった。
いや、柊二が気付いていないだけで、涙はすでに頬を流れ落ちていた。顎の先から落ちる雫がフローリングに一滴、二滴と水溜りを作る。
「……強くない。全然、強くなんかないよ」
囁くように言って、文奈は笑顔のままゆっくりと頭を振る。
「泣いたよ。昨日の夜、一度は失ったピアノを取り戻して、それだけやなくて私を好きって言ってくれるかけがえのない大切な人もできたのに、それを一気に失くすことになって……悔しくて悲しくて、涙が涸れても泣き続けた。柊二くんとピアノ以外の全部のものに呪詛の言葉を投げつけて泣いた。私がもっとちゃんとしてたらこんなことにならんかったって思うと、後悔やら嫌悪感やらで死にたくなった。本気で手首を切ろうと思ってカッターナイフを握った」
つい、と憂いの混じる文奈の視線が左手首に向く。
柊二はギクリとしてその視線を追った。
しかし、淡い色の袖口から見える白い肌に、傷はなかった。
「でも、それ以上は無理やった。そんなことしたら、もっと取り返しのつかんことになるって思った。手首を切って私が死んでも、それは逃げることにしかならへんって気づいた。柊二くんを悲しませるだけやって」
せやろ? と文奈。
「だから、逃げんと現実をしっかり見ようって決めた」
立ち上がり、文奈は苦しげに唇をかみしめる柊二の頬にそっと手を当てた。
「私らは死に別れるわけでも、二度と会えん場所に引き離されるわけでもない。会おうと思えばいくらでも方法はあるし、気持ちが繋がってるなら、どれだけ離れてても大丈夫やて思うことにした。会いたいときにすぐ会えるほうがいいけど、それが叶わないなら、気持ちだけでも繋がってるって思える何かがあればそれでいいって、そう考えることにした」
「…………」
「それが『ふたつのはんぶん』。二人の想いを込めた、私たちだけが奏でられるあの旋律がある限り、私は柊二くんを身近に感じられる」
「…………」
「柊二くんは、私と離れたらあの曲が嫌いになる? 私のことを忘れる?」
無言に沈む柊二に、文奈が問う。
答えはわかりきっていて、それ以外にないと知りながら。
だがこれは、柊二を試しているわけでも疑っているわけでもない。大切な人からはっきりと答えてもらって自身を安心させたいだけの、とんでもなくワガママで意地の悪い質問だった。
柊二は頬に触れた柔らかい手の感触で落ち着きを取り戻し、その言葉の意図を造作もなく見抜いた。文奈が不安を感じていないわけではなかったとわかって、少し安心したのだろう。身体中を満たしていたネガティブな感情が溶け始めた。
「そんなわけないだろ。俺はお前を大切に思ってるし、好きだ。あの曲も、お前との大事な絆だから嫌いになったりしないし、忘れない」
顔を上げ、文奈がくれた安心をそれ以上にして返してやろうと、はっきりと答えた。文化祭のライブの前に、彼女が緊張を解いてくれたときのように。
うん、と文奈はその力強い言葉に嬉しそうにうなずく。
「なら、弾いて。私は柊二くんがあの曲を弾いてくれてるっていうだけで……それだけでいいから。それがあれば柊二くんを好きやと思う気持ちもなくならへんし、きっと寂しさも忘れられる。だから、弾いて欲しい。あの曲を」
「ああ。わかった」
「ありがと。約束やからね」
小さく微笑み、右手の小指を差し出す。柊二はそれに小指を絡ませた。
ゆびきりげんまん、と声を合わせて歌って、互いに見つめ合う。
……と、急に文奈がケラケラと笑い出した。
「いやしかし、柊二くんってチョロいなー。私のせいでこんなことになってるのに、怒りもせんとワガママきいてくれるって、聖人君子もほどほどにせなアカンで。心配になるわ」
「うるせー。誰のせいだ」
真面目な話をしていたかと思えば、この軽薄な態度。
柊二はこの変わり身に苦笑するしかなかった。
それが
冗談っぽくおちゃらけた言葉や仕草とは裏腹に、小さく震える絡ませた小指や強がったその笑顔は、芝居でもなんでもないありのままの彼女のものだと知っている。
そして、自身の不安を隠してそういう物言いをして、柊二の暗い気持ちを晴らそうとしていることも知っている。
ああ、これだ――
そんな文奈を見つめていて、唐突に思い出した。
初めて一緒にピアノを弾いた、あのとき。
肩が触れるその隣にあった、彼女の笑顔。
強引な連弾に付き合う気になったのは、その表情があまりにも綺麗だったからだ。
文奈のルックスが良かったからでも、強引さに負けたからでもない。
心から嬉しそうに彼女は笑っていたから。
それが、柊二にはとても眩しく見えた。
もっと彼女の笑顔を見ていたいと思った。
自分がピアノを弾くと、文奈は本当に嬉しそうに微笑んでくれる。
だから、その笑顔をくれる彼女のためにピアノを弾こう。
そう決めた。
隣に彼女がいるかいないかなんて、関係なかった。
気持ちが隣にあれば、それで十分。
それに気づいた今、迷いも戸惑いも全て消え去った。
そう悟った柊二のやることは一つしかない。
「お前のワガママ、叶えてやるよ」
不安に震える文奈の手を握り、力強くうなずく。
「音楽祭で、俺は……俺たちの曲を弾く」
「柊二くん……」
手のひらに伝わる柊二の体温と意志のこもった言葉。
それが何よりも嬉しくて、温かくて、文奈は笑顔でいられなくなった。
抑えたくても抑え切れない感情の
「なんやの急に偉そうなこと……さっきまで捨て犬みたいな顔してたクセに……」
「お前の強さを見ていたら、こっちまで強くなれた気がした。ありがとうな」
「……ホンマに……なんやの……。もう、涸れたと思った涙がまだ残ってたわ……」
涙でぐしゃぐしゃになったところを柊二に見せたくなくて、ふざけてみせながら顔を覆ってうつむいた。何もできなくても、せめて別れるときは笑っていようと決めたのに、どうしてもできそうになかった。
嬉しくて溢れる涙を止めることができなかった。
柊二はやれやれとため息をつく。
「泣くなよ……俺はお前を泣かせたくて音楽祭に出るって言ったんじゃないぞ」
「そん、な、こと、言わ、れても……嬉しいんやもん……勝手に涙が出るんやもん」
「じゃあ笑えよ。嬉しかったら笑顔になるもんだ。そうだろ?」
「……うん」
ぐす、と鼻をすすって袖で涙を拭い、文奈は顔を上げた。
泣いてぐしゃぐしゃになっていながらも、柊二が好きになった笑顔がそこにあった。
「いい顔だ」
柊二も嬉しそうに笑い、うなずいた。
目の前に迫った厳しい未来を受け入れるために、笑いあった。
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