第7楽章 第1節

 小雨のぱらつく帰路につく柊二しゅうじは、ふみに会えない寂しさと不安を抱えたまま放心したように歩いていた。広大な空白の中を彷徨さまようような心地で、ただ足が習慣をなぞって勝手に家に向かって進んでいるだけといった足取りだった。

 そうして到着した自宅の門をくぐって玄関のドアに手を伸ばし――はたと柊二の動きが止まり、真っ白だった意識が棘だらけの黒い何かに置き換わる。

 もうこれは癖のようなもの、あるいはだった。

 帰宅して玄関のドアを開ける前に妹と母がリビングでピアノを弾いているところを想像し、それを無視する自分をイメージする。

 事前に嫌な想像で心構えをしてから家に入らないと、嫌悪感で押しつぶされそうになるからだ。


「…………」


 いつも通りにしっかりとイメージを固めて玄関を開ける。

 きぃ、と安い音が鳴るドアを引き、顔を上げると――予想外の光景がそこにあった。


「あ……おかえり、お兄ちゃん……」


 上がり口のところに妹が座り込んでいて、柊二を見るなり立ち上がって迎えた。


「ああ」


 短く応え、なぜこんなところにいるんだと言いたげに柊二は強い視線を向けた。

 それをおどおどしたように受ける妹。しかし目が合った瞬間、どういう顔をすればいいかわからないとばかりにうつむいた。

 妹は自分がピアノを始めた頃から兄と母の仲が悪くなったことに気づいていて、その原因が自分にあるのだろうということを薄々感じていた。だから、まだ十歳になって間もない少女は自分が兄に嫌われていることを自覚していた。

 対する柊二は、悪いのは母であって妹ではないと思っている。

 しかし、ピアノを弾いて楽しそうにしている妹を見ていると、ざわざわと気持ちが落ち着かず、ささくれ立ってしまうのは抑えられない。未成熟な感情の暴走でその苛立ちをぶつけてしまわないように、なるべく妹と距離をとって避けるようにしていた。それが柊二なりの気遣いだった。


「どうかしたのか。レッスンは?」


 距離を取るように意識すると、自然と口調も冷たくなる。その態度が妹を威圧しているのはわかっているが、そうすることしかできなかった。そんな自分に嫌気がさして物言いが乱暴になり、余計に怖がらせるようなことをしているとわかっていても止められなかった。


「う……うん。ママが夕方から町内会の集まりに行ってていないから……」

「そうか」


 必死に答えようと声を震わせる妹になく返して、柊二は靴を脱いだ。母がいないと聞いて安心したのか、ほう、と無意識に息をつく。

 そのおかげで周囲に気を回す余裕が生まれ、ここにあるはずがない見慣れたローファーがきちんと揃えて置かれていることに気づいた。


「この靴……」

「あの……お兄ちゃんのお友達って人が来てて……」

「どこにいる? 俺の部屋か?」


 急き込んで問い詰められる勢いに怯え、妹は表情を強張らせながらもコクリとうなずいた。不安そうに兄を見上げて、小さな両手を胸の前でぎゅっと握る。


「それを教えようと思って、ここで待っててくれたのか」


 コクリ。


「そうか。ありがとうな」


 できる限りの優しい表情を作って妹のふわふわした頭を撫で、柊二は階段を駆けた。文奈と出会う前は絶対にそんなことをしなかったのにな、と内心で無意識にやってしまった行動を自嘲しながら。

 妹も初めて見る兄の表情と行為に驚いて、ぽかんと階段を見つめていた。



 二階へあがると、今朝閉めていったはずの自室のドアが少し開いているのが見えた。薄暗い廊下に室内の明かりが漏れ、鋭角な光がぼんやりと床板やくすんだ壁紙を照らしている。


「お前、どうして今日、旧音楽室に……ってノォォォォォォォォッ!」


 と柊二はドアを開けて文句を言いかけ、視界に飛び込んできた光景に思わず頭を抱えてのけ反りながら悲鳴を上げた。

 部屋の真ん中に、健康な男子高校生なら一つや二つや三つ四つは所持しているという、柊二の年齢的にアウトな感じでお肌成分多めな女性が登場する、ちょっと公言しづらい書籍やゲームや映像作品のパッケージが、ニュース映像でよく目にする警察が押収した証拠物件のごとく整然と並べてあった。


「あ、おかえりー」


 それをやったと思しき人物がその向こうのベッドに腰掛けて足を組み、絶叫する部屋の主に意地の悪い笑みを向けつつ優雅に紅茶なんぞをすすっていた。

 学校で見る制服姿とは違い、パステルカラーでコーディネートされた私服はよく似合っていて新鮮だったが、残念ながら今の柊二にはそれを楽しむ余裕は一切なかった。


「アカンなー、隠し場所が王道ベタすぎてつまらんわ。もっと凝ったところに隠さんとママに見つかるで?」

「銀河の彼方かなたまで超巨大なお世話だ!」


 焦りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、柊二は並べられたそれらを搔き集めて両手に抱え、とりあえずベッドの下に押し込んだ。天井裏に隠してある鍵のかかる箱に保管しておいた秘蔵中の秘蔵物件がそこにあることに疑問を抱く余裕すらない。とにかく今は目に付かないところへ退避させるのが精一杯だった。


「そんなん、私がおったら要らんのとちゃうん?」

「それとこれとは別問題だ! じゃなくてなんという爆弾発言!」

「あははは。相変わらずこのテのジョークに弱いんやなぁ」

「お前な……」


 ひとしきり醜態をさらして恥ずかしさも落ち着いた頃、柊二はようやっと文奈と向かい合う位置に腰を下ろした。


「で、どうしてここにいるんだよ、文奈。というか、なぜ俺の家を知ってる?」

「ん、ちょっと話したいことがあって。住所は例の古典教師に調べてもらった」

「個人情報漏洩してるじゃねーか、あのジャージ熊め……まあいいけど。んで、話ってなんだよ。あ、旧音楽室に来なかった言い訳なら聞かないからな」


 わざとらしい悪人面で牽制すると、文奈はぽりぽりと頬を掻いてだらしなく笑った。


「ははは。その程度やったらよかったんやけどね。もうちょっと深刻な話やねん」


 と言う本人は、あくまで気楽な表情を崩さなかった。

 柊二も無意味に張り合って悪人面を崩さなかった。

 しばし、二人はじっと睨み合う。

 永遠なのか刹那なのか――その境界が曖昧になって、感覚が少しずつ現実からズレ始めた、そのとき。


「じゃあ簡潔にね」


 文奈は小さく息をついて、冗談を口にするように言った。


「私、学校を辞めて地元に帰ることになったわけで」


 その瞬間、柊二の中の時間が止まった。

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