第7楽章

 一体どうしたんだろう、どうして来ないんだろう。

 旧音楽室で一人ぽつんと待っている間、柊二しゅうじはそればかりを考えていた。

 壁掛け時計が午後七時を指し、巡回の警備員に帰宅しろと言われてしぶしぶ帰路についても、考えるのは文奈ふみなのことばかりだった。

 どうして来なかったんだろう。何かあったんだろうか。

 そうだ、電話してみよう。と携帯電話を取り出して――そこで気がついた。

「俺……文奈の電話番号とか連絡先を知らないんですけど……」

 好きだの一緒にいてくれだのと言った相手と連絡を取る方法を知らないとは、うっかりさんにも程がある。何やってんだ俺は、と頭を抱えた。旧音楽室でいつでも会えるからと、連絡先を聞くということにこれっぽっちも気が回らなかったのだ。おそらく文奈も同様で、連絡先を交換するという発想がなかったのかもしれない。

「まぁ、いいか。明日にでも教えてもらえば……」

 そう思って、少し雨脚の弱まった帰路を急いだ。

 自宅の門をくぐり、玄関のドアの前で一旦立ち止まる。もうこれはクセのようなものだ。妹と母がリビングでピアノを弾いているところを想像し、それを無視する自分をイメージする。そうしてから家に入らないと、嫌悪感で押しつぶされそうになるからだ。

 小さく息をついて玄関を開ける。きぃ、と安い音が鳴るドアを引き、顔を上げると、予想外の光景がそこにあった。

「あ……おかえり、お兄ちゃん……」

 上がり口のところに妹が座り込んでいて、柊二を見るなり立ち上がって言った。偶然そこにいたのではなく、兄の帰宅を待っていたのは間違いなかった。おどおどしたように上目遣いで兄を見て、目が合った瞬間にどういう顔をすればいいかわからずに視線を逸らす。

 ――わたしがピアノを始めたころからお兄ちゃんが怖い顔をするようになって、ママと仲が悪くなった。その原因が自分にあるかも――と薄々感じていて、まだ十歳になって間もない少女は、自分が兄に嫌われていることを自覚していた。

 対する柊二は、悪いのは母であって妹ではないと思っている。しかし、ピアノを弾いて楽しそうにしている妹を見ていると、ざわざわと気持ちが落ち着かず、ささくれ立ってしまうのは抑えられない。未成熟な理性の暴走でその苛立ちをぶつけてしまわないように、なるべく妹と距離をとって避けるようにしていた。それが柊二なりの気遣いだった。

「どうかしたのか。レッスンは?」

 距離を取るように意識すると、自然と口調も冷たくなる。その態度が妹を威圧しているのはわかっているが、そうすることしかできなかった。

 妹は窺うように上目遣いで答える。

「う……うん。ママが夕方から町内会の集まりに行ってていないから……」

「そうか」

 素っ気なく返して、柊二は靴を脱いだ。母がいないと聞くと、なんとなく気負いが消えて無意識にほっとする。

 そのおかげで周囲に気を回す余裕が生まれ、ここにあるはずがない見慣れたローファーがきちんと揃えて置かれていることに気づいた。

「この靴……」

「あの……お兄ちゃんのお友達って人が来てて……」

「どこにいる? 俺の部屋か?」

 急き込んだせいか、妹が少し怯えたように表情を強張らせながらコクリとうなずいた。不安そうに兄を見上げて、小さな両手を胸の前でぎゅっと握る。

「それを教えようと思って、ここで待っててくれたのか」

 コクリ。

「そうか。ありがとうな」

 できる限りの優しい表情を作って妹のふわふわした頭を撫で、柊二は階段を駆けた。文奈と出会う前は絶対にそんなことをしなかったのにな、と内心で無意識にやってしまった行動を自嘲しながら。

 妹も兄のそんな表情と行為に驚いて、ぽかんと階段を見つめていた。

 二階へあがると、今朝閉めていったはずの自室のドアが少し開いているのが見えた。薄暗い廊下に室内の明かりが漏れ、鋭角な光がぼんやりと床板やくすんだ壁紙を照らしている。

「お前、どうして今日、旧音楽室に……ってノォォォォォォォォッ!」

 と柊二はドアを開けて文句を言いかけ、視界に飛び込んできた光景に思わず頭を抱えてのけ反りながら悲鳴を上げた。

 部屋の真ん中に、健康な男子高校生なら一つや二つや三つ四つは所持しているという、柊二の年齢的にアウトな感じでお肌成分多めな女性が登場する、ちょっと公言しづらい書籍やゲームや映像作品のパッケージが、ニュース映像でよく目にする警察が押収した証拠物件のごとく整然と並べてあった。

「あ、おかえりー」

 それをやったと思しき人物がその向こうのベッドに腰掛けて足を組み、絶叫する部屋の主に意地の悪い笑みを向けつつ優雅に紅茶なんぞをすすっていた。

 学校で見る制服姿とは違い、パステルカラーでコーディネートされた私服はよく似合っていて新鮮だったが、残念ながら今の柊二にはそれを楽しむ余裕は一切なかった。

「アカンなー、隠し場所が王道ベタすぎてつまらんわ。もっと凝ったところに隠さんとママに見つかるで?」

「銀河の彼方まで超巨大なお世話だ!」

 焦りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、柊二は並べられたそれらを両手に抱え、とりあえずベッドの下に押し込んだ。天井裏に隠してある鍵のかかる箱に保管しておいた秘蔵中の秘蔵物件がそこにあることに疑問を抱く余裕すらない。とにかく今は目に付かないところへ退避させるのが精一杯だった。

「そんなん、私がおったら要らんのとちゃうん?」

「それとこれとは別問題だ! じゃなくてなんという爆弾発言!」

「あははは。相変わらずこのテのジョークに弱いんやなぁ」

「お前な……」

 ひとしきり醜態をさらして恥ずかしさも落ち着いた頃、柊二はようやっと文奈と向かい合う位置に腰を下ろした。

「で、どうしてここにいるんだよ、文奈。というか、なぜ俺の家を知ってる?」

「ん、ちょっと話したいことがあって。住所は例の古典教師に調べてもらった」

「個人情報漏洩してるじゃねーか、あのジャージ熊め……まあいいけど。んで、話ってなんだよ。あ、旧音楽室に来なかった言い訳なら聞かないからな」

 わざとらしい悪人面で牽制すると、文奈はぽりぽりと頬を掻いてだらしなく笑った。

「ははは。その程度やったらよかったんやけどね。もうちょっと深刻な話やねん」

 と言う本人は、あくまで気楽な表情を崩さなかった。柊二も無意味に張り合って悪人面を崩さなかった。

 しばし、二人はじっと睨み合う。永遠なのか刹那なのか――その境界が曖昧になって、感覚が少しずつ現実からズレ始めた、そのとき。

「じゃあ簡潔にね」

 文奈は小さく息をついて、冗談を口にするように言った。

「私、学校を辞めて地元に帰ることになったわけで」

「…………な」

 あまりにも軽い口調からの簡潔すぎる予想外の一言に、柊二は絶句した。作っていた意地悪な笑みが瞬時に吹っ飛ぶ。

 もうちょっと深刻だというのが、せいぜい今日学校をサボったのを怒られたとか、やっぱり音楽祭の参加は気が進まないとか、その程度だと思っていた。

 怒られたのなら慰めてやれるし、気が進まないなら乗り気になるまで説得すればいい。そのくらいならいくらでもできる。

 しかし、突きつけられた言葉の意味は、そんな些細でどうでもいいことではなく、何よりも重く強烈な一撃だった。

「それ、どういうことだよ……?」

「両親の仕事の都合で地元に帰らなあかんようになったんよ。で、私もそれについていくから学校を辞めることになるわけ。でもって、それが明日なわけで」

「明日⁉ 随分急な話だし一方的すぎ……って、おい……ひょっとして、もう……?」

「うん。

 柊二の言いたいことをその表情から察し、それでも文奈はあくまでもお気楽な笑みを崩さずに言った。そうしないと、これ以上話せなくなると直感していたから。

「な、んで……?」

「さっき言った、親の仕事の都合ってやつがきっかけで。文化祭の日に、仕事の関係で急に地元へ戻らなあかん事態が起こったらしくて。けど、両親は私を学校の寮に入れて、自分たちだけ地元の家に帰るつもりでおったみたい。文化祭の日の夜、私はそれを両親から聞かされた。で、その入寮手続きを取るために、翌日……昨日やね、私は両親と一緒に学校へ行った。……あとは言わんでもわかるよね」

「…………」

 へへへ、と笑って文奈は頬を掻く。そこで柊二は、彼女の左頬に打撲の痕があることに気づいた。病的に白い肌がうっすらと赤く腫れていて、どうしてそんなことになっているのかは考えるまでもなかった。

 文奈の両親は入寮手続きを取るために学年主任と面談し、そこで文奈が一学期からほとんど授業に出ていないことを知った。定期テストも全科目赤点で出席日数も少なく、現状で留年がほぼ決定だということも知ってしまった。

 それを聞き、卒業だけはと言う彼女の意思を尊重して普通科への移籍を許したのにと父は激怒し、学年主任や母が見ている前で娘を殴り飛ばした――

 まるで現場にいたかのように、柊二の脳内でその場面が再現された。

「あんなに怒ったお父さんを見たの、初めてやった。ものすごく怖かった……。殴られた痛みより、怒ったあの顔が怖くて……思い出すだけでも震えが止まらんようになる」

 冗談めかして言う文奈の表情は引きつり、縮こまった細い肩が震えていた。それだけで彼女がどれほどの衝撃を受けたかが容易に見て取れる。

「逆らえんかった。親が地元に帰るって話を聞いて、私を寮に入れるって言われて……それで学校に連絡したら留年がバレて怒られるのは予想できたし、そのときにする言い訳を一晩かかって考えた。連れて帰られるのは避けられへんけど、なんとか柊二くんと一緒に音楽祭に出るまでこっちに居られるようにするための言い訳を徹夜で考えた。それで、七つ――それっぽいことを思いついた。それだけあったら、一つくらい通用する言い訳もあるやろうと思った」

「…………」

「けど、お父さんに殴られた瞬間、私の身体ごと七つの言い訳が全部吹っ飛んだ。もう何も言えんようになった。どう考えても私が悪いし、親を騙して裏切ってた事実は変わらへんから、何を言う資格もないって気づいてしまった。せやから、これ以上欺けんと……欺いたらあかんて思った。だから……」

 と真剣な面持ちで一旦言葉を切り、文奈はベッドから立ち上がると、柊二の正面で正座し額を床へこすりつけるように頭を下げた。彼女のそういった所作など今まで見たことがなかった柊二は、戸惑うよりも先に意識のざわつきに思考を支配された。

「申し訳ございません。私は、音楽祭であなたと一緒にピアノを弾くという約束を……果たせなくなりました」

「…………」

 神妙に謝る文奈を、柊二は能面のような無表情で見つめていた。ざわつく気持ちと凍りそうなほど冷静な意識が同居して、考えること全てが不鮮明にかき混ぜられて、感情が上手く表に出せないような感覚に陥った。

 そんな混濁した中でも、文奈が学校を辞めて地元に帰る、ということだけははっきりと理解した。それはつまり、彼女とはもう会えないということだ。来月の音楽祭にも、一緒に出ることはできないということだ。お互いの気持ちをわかり合って、お互いを必要として、お互いに好きだと確かめ合ったその矢先、無情にも引き裂かれることになったということだ。

 しかし、柊二の心は凪の海のごとく静かだった。強烈なショックを受けているのに、意識はどこまでも平坦で起伏がなく、いつも以上に落ち着いていた。

 ――。長くても春休みまでで、その時点で文奈の留年が彼女の親に知られ、学校を去ることになると気づいていた。

 そうと知った上で、柊二は想いを伝え、彼女の想いを受け止めた。短い時間であっても、彼女と一緒にいたい、二人でピアノを弾いていたいと思ったから。

 柊二は、

 だが、それはもう少し未来の話だと思っていた。少なくとも音楽祭までは大丈夫だろうと、何の根拠もなく楽観視していた。こんなに早くそのときが訪れるなんて、微塵も思っていなかった。

「やっぱり、怒ってる……よね」

 一言もしゃべらなくなった柊二を上目で窺い、文奈は申し訳なさそうに呟いた。自分のせいで柊二に迷惑をかけたという自責の念が津波のように心へ押し寄せてくる。潰されまいと抵抗するには、言葉を紡ぐしかなかった。心からの謝罪の言葉を。

「ごめんなさい。私が上手く親を説得できたら、もう少しだけでも一緒にいられたかもしれんのに……」

「いや、別に怒ってるわけじゃないんだ。ただ……急すぎて、どうしていいのか……」

 表情を作ることもできず、どういう顔で文奈を見ればいいのかわからず、柊二は戸惑いすらも忘れて心の声を吐き出した。

 高校生にもなれば大人とほとんど変わらない、だからガキ扱いするな。と普段から考えていた自分が、いかに虚勢を張っているだけの子供であったかを痛感する。必ず来る別れを覚悟していたはずなのに、いざとなるとこのざまか、と罵られても何も言えない。

 不安そうに自分を見つめてくる大切な人が、目の前にいる。

 大丈夫と微笑みかければいいのか。

 震える小さな身体を、黙って抱き寄せればいいのか。

 虚勢でも何でもいい、言葉をかけ続ければいいのか。

 その方法を知っているのが大人なのだろう。

 だが、俺はそうじゃない。大人じゃない。ただのガキだ。

 そんな俺に、何ができる?

 できることが何かあるのか……?

「文奈。俺は、どうすればいい?」

 気がつくと、柊二はそんなことを口にしていた。格好悪い質問だとわかっていても、それしか言えなかった。彼女が引くほど格好悪い姿をさらすしかなかった。

「俺はどうすればいいと思う?」

「……それに答える権利は、私にはあれへん。私のせいでこんなことになったのに、その私にどうしたらいいか訊くのは間違ってる。そう思わん?」

「そうかもしれないけど、本当にわかんねぇんだよ……。いつか、そう遠くない未来にお前と別れなければいけないっていうのは決まっていて、それを覆すことはできないとわかっていた。俺にはその力がないから。だから、受け入れる覚悟を決めた。――決めたはずなのに……今それを目の前にした途端、それが吹っ飛んだ。何が何でもこの事態をぶち壊してやりたい。けど、そのために何をすればいいのかわからないんだ。何も思い浮かばないんだ。お前のために俺ができる事は一体何だ? 何ができる?」

 弱気とも泣き言とも取れる言葉を吐き出し、柊二はうなだれていた。言葉や感情とは裏腹に落ち着き払った表情からこぼれる本音は、異常なまでの重みを持って文奈の耳朶を叩いた。

「…………」

 そんな弱気でどうするの、と柊二に言ってやりたかった。

 宣言どおり格好悪いところを本当に見せてどうするの、と笑ってやりたかった。

 けれど、自分の行いが原因である以上、何を言う資格もない。笑うこともできない。

 文奈には沈黙を守ることしか許されていない。こうして欲しいと願えば、それが彼の求める答えとなるとわかっていても、それを伝える権利はないのだ。

 ないが――

「あるよ。柊二くんにできること。ううん、

 言って、文奈は柊二の手を握った。

 権利なんて関係ない。資格なんてなくてもいい。

 柊二が文奈の言葉を求めているのなら、伝えることを躊躇う理由がどこにあるというのだろう。柊二にはさんざんワガママを通してきたのだ。いまさら一つや二つ、ワガママが増えたところで気にするようなことか。

 今すべきことは、かつて気持ちを押し殺して自ら離れようとした文奈の手を取って優しく抱き寄せてくれた柊二のように、権利だ資格だと無意味な自縛をやめて彼にして欲しいことを包み隠さず伝えること。ただそれだけのことだ。

 だから、はっきりと言葉にする。彼に求める全てを。

。あの曲をみんなに聴いてもらうこと。それが、今の柊二くんにできること」

 その一言で、柊二はうなだれていた顔をゆっくりと上げた。その表情は先ほどまでとは違い、どんよりと曇り、憔悴し、濁っていた。

 彼が求めたのはだった。そのために何をすべきかを訊いたつもりだった。

 しかし、返ってきた答えは彼の希望を打ち砕くものだった。文奈の願いは現実を突きつける残酷なもので、それを理解した柊二に絶望が湧き上がり、じわじわと意識を侵食していく。

「それに何の意味があるんだ……? 俺はお前と一緒に弾きたいんだ。お前が隣にいないんなら……一人でなら弾く意味なんて、どこにもない」

「意味ならあるよ。ここに、ちゃんと」

 文奈は自分の胸に両手を当て、小さくうなずいた。私の心の中にあるよ、と。

「言ったよね? 私が連弾しようって言い出した理由は、柊二くんにあの曲を弾いてもらいたかったからやって。それは今も全然変わってへんから。隣に私がいてもいなくても、あの曲を弾いていてほしい。ただ、それだけ。理由と言えるほど立派でもない、単なるワガママ。でもそれは、私にとってはものすごく意味のあることやから」

 ふわり、と文奈は眩しそうに柊二を見つめて、柔らかに笑った。

 それはさながら、淡い光の中に咲く真っ白で小さな花のようだった。そよ風にさえその花びらを散らし飛ばされそうな繊細なそれは、何よりも強くその姿を美しく誇っていた。地に根を下ろした細い茎は容易に手折たおることができそうでも、決して折れることのない、

「どうしてだよ……」

 その笑顔に、柊二は苦々しく呟いた。いつまでも見つめていたいと思える柔らかな表情を、今は直視できなかった。

「どうして、そんなふうに笑えるんだよ? 俺と会えなくなるんだぞ? それが悲しかったりしないのか? お前は俺のことを大切に思ってるって言ったよな。それが奪われようとしてるんだぞ? ケガでピアノが弾けなくなったときみたいに、失くそうとしてるんだ。なのに、どうしてそんなふうに笑えるんだよ……?」

 言葉を吐き出すにつれて湧き上がる黒い感情に背中の辺りがざわつく。言ってはいけないと思っていても止まらなかった。確かめずにはいられなかった。

「なあ文奈。一緒にいられなくなることが悲しいって思っているのは俺だけなのか? お前はそうじゃないのか? そうじゃないんなら、どうして笑えるんだよ。どうしてそんなに……強いんだよ……?」

 声が震えていた。不安と焦燥で押しつぶされそうになっている柊二には、文奈がこの避けようのない唐突な別れに何も感じていないように見えていた。それが悲しくて――自分だけが悲しんでいるように思えて、情けなくて、寂しくて、大声で泣き出したくなった。

 いや、柊二が気付いていないだけで、涙はすでに頬を流れ落ちていた。顎の先から落ちる雫がフローリングに一滴、二滴と水溜りを作る。

「……強くない。全然、強くなんかないよ」

 囁くように言って、文奈は笑顔のままゆっくりと頭を振る。

「泣いたよ。昨日の夜、一度は失ったピアノを取り戻して、それだけやなくて私を好きって言ってくれるかけがえのない大切な人もできたのに、それを一気に失くすことになって……悔しくて悲しくて、涙が涸れても泣き続けた。柊二くんとピアノ以外の全部のものに呪詛の言葉を投げつけて泣いた。私がもっとちゃんとしてたらこんなことにならんかったって思うと、後悔やら嫌悪感やらで死にたくなった。本気で手首を切ろうと思ってカッターナイフを握った」

 つい、と憂いの混じる文奈の視線が左手首に向く。柊二はギクリとしてその視線を追った。しかし、淡い色の袖口から見える白い肌に、傷はなかった。

「でも、それ以上は無理やった。そんなことしたら、もっと取り返しのつかんことになるって思った。手首を切って私が死んでも、それは逃げることにしかならへんって気づいた。柊二くんを悲しませるだけやって」

 せやろ? と文奈。

「だから、逃げんと現実をしっかり見ようって決めた」

 立ち上がり、文奈は苦しげに唇をかみしめる柊二の頬にそっと手を当てた。

「私らは死に別れるわけでも、二度と会えん場所に引き離されるわけでもない。会おうと思えばいくらでも方法はあるし、気持ちが繋がってるなら、どれだけ離れてても大丈夫やて思うことにした。会いたいときにすぐ会えるほうがいいけど、それが叶わないなら、気持ちだけでも繋がってるって思える何かがあればそれでいいって、そう考えることにした」

「…………」

「それが『ふたつのはんぶん』。二人の想いを込めた、私たちだけが奏でられるあの旋律がある限り、私は柊二くんを身近に感じられる」

「…………」

「柊二くんは、私と離れたらあの曲が嫌いになる? 私のことを忘れる?」

 無言に沈む柊二に、文奈が問う。答えはわかりきっていて、それ以外にないと知りながら。だがこれは、柊二を試しているわけでも疑っているわけでもない。大切な人からはっきりと答えてもらって自身を安心させたいだけの、とんでもなくワガママで意地の悪い質問だった。

 柊二は頬に触れた柔らかい手の感触で落ち着きを取り戻し、その言葉の意図を造作もなく見抜いた。文奈が不安を感じていないわけではなかったとわかって、少し安心したのだろう。身体中を満たしていたネガティブな感情がわずかに溶け始めた。

「そんなわけないだろ。俺はお前を大切に思ってるし、好きだ。あの曲も、お前との大事な絆だから嫌いになったりしないし、忘れない」

 顔を上げ、文奈がくれた安心をそれ以上にして返してやろうと、はっきりと答えた。文化祭のライブの前に、彼女が緊張を解いてくれたときのように。

 うん、と文奈はその力強い言葉に嬉しそうにうなずく。

「なら、弾いて。私は柊二くんがあの曲を弾いてくれてるっていうだけで……それだけでいいから。それがあれば柊二くんを好きやと思う気持ちもなくならへんし、きっと寂しさも忘れられる。だから、弾いて欲しい。あの曲を」

「ああ。わかった」

「ありがと。約束やからね」

 小さく微笑み、右手の小指を差し出す。柊二はそれに小指を絡ませた。

「……にしても、柊二くんってチョロいなー。私のせいでこんなことになってるのにワガママきいてくれるって、聖人君子もほどほどにせなアカンで。心配になるわ」

 急におどけて、文奈はケラケラと笑った。真面目な話をしていたかと思えばこの軽薄な態度。柊二はこの変わり身に苦笑するしかなかった。

 だが、それが川代かわしろ文奈という女の子だということを柊二は知っている。冗談っぽくおちゃらけていても、言葉や仕草とは裏腹に、小さく震える絡ませた小指や強がったその笑顔は、芝居でもなんでもないありのままの彼女のものだと知っている。そして、自身の不安を隠してそういう物言いをして、柊二の暗い気持ちを晴らそうとしていることも知っている。

 ああ、――

 そんな文奈を見つめていて、唐突に思い出した。

 初めて一緒にピアノを弾いた、あのとき。

 肩が触れるその隣にあった、彼女の笑顔。

 強引な連弾に付き合う気になったのは、その表情があまりにも綺麗だったからだ。

 文奈のルックスが良かったからでも、強引さに負けたからでもない。

 

 それが、柊二にはとても眩しく見えた。もっと彼女の笑顔を見ていたいと思った。

 自分がピアノを弾くと、文奈は本当に嬉しそうに微笑んでくれる。

 その笑顔をくれる彼女のためにピアノを弾こう。

 そう決めた。

 隣に彼女がいるかいないかなんて、関係なかった。

 気持ちが隣にあれば、それで十分。

 迷いも戸惑いも、それに気づいた今、全て消え去った。

 そう悟った柊二のやることは一つしかない。

「お前のワガママ、叶えてやるよ」

 不安に震える文奈の手を握り、力強くうなずく。

「音楽祭で、俺は……

「柊二くん……」

 手のひらに伝わる柊二の体温と意志のこもった言葉。それが何よりも嬉しくて、温かくて、文奈は笑顔でいられなくなった。抑えたくても抑え切れない感情の奔流が涙になって溢れ出した。

「なんやの急に偉そうなこと……さっきまで捨て犬みたいな顔してたクセに……」

「お前の強さを見ていたら、こっちまで強くなれた気がした。ありがとうな」

「……ホンマに……なんやの……。もう、涸れたと思った涙がまだ残ってたわ……」

 涙でぐしゃぐしゃになったところを柊二に見せたくなくて、ふざけてみせながら顔を覆ってうつむいた。何もできなくても、せめて別れるときは笑っていようと決めたのに、どうしてもできそうになかった。嬉しくて溢れる涙を止めることができなかった。

 柊二はやれやれとため息をつく。

「泣くなよ……俺はお前を泣かせたくて音楽祭に出るって言ったんじゃないぞ」

「そん、な、こと、言わ、れても……嬉しいんやもん……勝手に涙が出るんやもん」

「じゃあ笑えよ。嬉しかったら笑顔になるもんだ。そうだろ?」

「……うん」

 ぐす、と鼻をすすって袖で涙を拭い、文奈は顔を上げた。泣いてぐしゃぐしゃになっていながらも、柊二が好きになった笑顔がそこにあった。

「いい顔だ」

 柊二も嬉しそうに笑い、うなずいた。

 目の前に迫った厳しい未来を受け入れるために、笑いあった。

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