第6楽章 第3節

 文化祭から二日が過ぎた。

 日曜登校の代休だった月曜日を丸一日フルに使ってみんむさぼり倒し、気力体力とも十分に回復させた柊二は、来月に向けての練習に意気込んでいた。

 明け方から降り続く、ここ最近にはなかった強い雨の鬱陶うっとうしさもなんのその、くだんの古典マッチョ教師にも似た暑苦しいほどの気合を入れ、放課後になるとダッシュで旧音楽室に向かった。

 芸術科であれば音楽祭に参加する生徒には特例の授業免除もあるが、普通科にはそういった配慮がないので放課後のわずかな時間に全てを賭けるしかない。一秒でも早く来て、無駄なく練習しなければならなかった。


「あれ……?」


 扉を開けた瞬間、柊二を迎えてくれたのは文奈ではなく、湿度の高い室内に溜まったぬるい空気だった。見上げた天井のエアコンが停止していて、照明も消えたまま。どうやら自称部屋の主は不在らしいと柊二は思った。

 待っていればそのうち来るだろう、とピアノの前を陣取って恒例の指慣らしを始める。今までにも何度か文奈が外出していたこともあるので、気にするほどでもないのだ。

 しかし。

 

「遅いな……」


 手持ち無沙汰でルーティンを二周したところで時計を見ると、旧音楽室に来てからすでに三十分が過ぎていた。どこかに出掛けているにしては遅すぎる。


「……まさかとは思うけど」


 ふと思い当たって室内をぐるりと一周した。

 ひょっとしたら文奈が留守にしているのではなく、机の陰で爆睡して起きてこないのかもと思ったからだ。

 部屋に熱がこもると言っても酷い残暑だった九月とは違い、今はエアコンなしでも十分昼寝ができる程度の室温である。まして今日は降り続く雨のせいでそれほど気温も高くない。エアコンが動いていないから文奈が不在だと考えるのは早計だった。


「…………」


 だがその思惑は外れだったらしく、探し人は部屋の中にいなかった。

 いつも彼女が寝床にしている長椅子に、枕にしているアニメキャラがプリントされたクッションと水色のタオルケットがぽつんと置いてあるだけだった。触れてみてもひんやりとした感触があるのみで、体温の欠片すらない。


「まぁ、そのうち来るだろ」


 なんとなく文奈のクッションを手に取って、真上に放り投げてはキャッチするという無意味な行為を繰り返しつつ持ち主が現れるのを待った。

 時折焦れたように入口のドアを開けて校舎のほうを眺め見るが、グラウンドに人影はなく、強まる雨が茶色の川を作っている以外に見えるものはなかった。

 落胆のため息をついてドアを閉める。

 防音工事された部屋には雨音は入ってこない。壁掛け時計も秒針のカチカチ音がしないタイプなので、柊二の呼吸とかすかなきぬれ以外は耳が痛くなるほど無音だった。


「遅い……」


 じりじりと這うように時を刻んでいく時計の長針を目で追ううちに、妙な不安が湧き始めた。

 それも仕方のないことだろう。短針はすでに午後六時を過ぎていたのだから。

 文化祭前なら練習を切り上げて帰宅している頃で、そんな時間になっても姿を見せない文奈に何かあったのではと思わずにはいられない。

 たまらなくなって、柊二はもう一度扉を開けて外を覗き見た。

 先ほどとは違って周囲はもう真っ暗で、校舎も窓から漏れる光がぽつぽつとあるだけで黒く大きなシルエットを見せるだけだった。


(どうしたんだよ、文奈……)


 ピアノの前に座り、白黒の鍵盤に視線を落とす。

 なんとなく左手を構えると、文奈の細く白い右手が鍵盤の上に乗った。初めの一音を同時に出すために互いの呼吸を合わせて、合図もなしにピタリとシンクロした手の動きから『ふたつのはんぶん』が始まる――というのがいつもの光景だった。

 しかし、柊二が見つめる文奈の手はまったく動き出そうとしなかった。まるで彫刻にでもなったかのように。

 もちろんそれは柊二の幻視で、実際には何もない。隣に文奈がいないということを意識すると、鍵盤の上の手も空気に滲むようにして消えてしまった。

 小さく息をつき、時計に目をやる。

 秒針は容赦なく回り続け、長針と短針を追い立て、やがて追い越し、再び回り込んで追いかけ、追い抜いていく。


「……?」


 そんな忙しなく果てしない追いかけっこをじっと見つめていると、無音の部屋に小さなノイズが走った。

 その正体がスマートフォンの着信だと気がついて、柊二は足元のカバンからそれを取り出した。ホーム画面の天気予報アプリに通知があり、雨はもうすぐやむだろうというメッセージが入っていた。

 それを確かめると、柊二は落胆で肩を落とした。

 ひょっとしたら文奈からの着信ではないかと思ったのだ。

 だが、とすぐに首を振る。


「よく考えたら俺……文奈の電話番号とか連絡先を知らないんだよな……」


 手にしたスマートフォンをじっと睨みつけ、自嘲気味に呟く。

 好きだの一緒にいてくれだのと言った相手の連絡先を知らないとは、いったい何をしているんだと頭を抱えた。

 旧音楽室でいつでも会えるからと、連絡先を聞くということにこれっぽっちも気が回らなかったのだ。おそらく文奈も同様で、連絡先を交換するという発想がなかったのかもしれない。

 二人でピアノを弾くうちに互いを身近に感じるようになって、相手が目の前にいなくても、連絡を取り合わなくても、その存在をすぐそばに感じられるところまで行きついてしまった弊害と言えるだろう。

 それがこんなところで障害になるなどと、柊二の想像のらちがいだった。


「ああ、もう、本当に何やってんだ俺は……!」


 間抜けな自分に苛立ち、思わず声が出た。


「それはこっちの言うことだよ」

「っ⁉」


 独り言に返事があり、柊二ははじかれたように顔を上げた。声は入口のほうからで、そちらに鋭く目を向ける。


「明かりが点いていたから来てみたんだが、まだ残っていたのかね。もうすぐ七時だよ。早く帰りなさい」


 そこにいたのは、柊二の想像とは違う人物だった。

 紺色の制服に帽子、手に懐中電灯を持った初老の男性――巡回の警備員だった。


「ここで待ち合わせしているんです。もう少しだけ」

「校内にもう生徒はいないよ。先生も帰り始めている。明日にしなさい」

「……はい」


 誰もいないと言われては食い下がる意味がない。

 柊二は素直に諦め、ピアノにカバーをかけてカバンを背負い、旧音楽室を後にした。

 警備員が言うように、明日またここで文奈と会えばいいのだからと。

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