第5楽章 第2節

 自分のことでもないのにどうして断言できるんだと返そうとした柊二しゅうじだったが、ふみはそうさせまいと矢継ぎ早に言葉を続ける。


「初めてオリジナルの曲を聞いた時、なんというか……曲に込められた気持ちが音から溢れてるみたいで、すーっと心に入り込んできた。その時に思った。ああ、この人はピアノが好きなんやなぁ、って」

「…………」

がわくんはピアノが嫌いやて言うけど、嫌いなんは弾くのを強制されることで、ピアノそのものやないと思う。だってそうやろ? ホンマに嫌いやったらここに近づくこともなかったやろうし、オリジナルをあんなに気持ちよく弾くこともできへんはず。それに、私とあんなに上手く連弾できるはずがない。楽しくないのに連弾なんかできるはずないやんか。義務とか強制とか、連弾はそんなもんのためにするもんやないし」


 せやろ、と同意を求める文奈。

 しかし柊二は答えず、困った様子で押し黙ったままだった。

 パートナーから何も言ってもらえず、文奈は視線を落としてピアノの天板に映った自分の顔を見つめた。傷一つなく磨きこまれたピアノの天板はまるで黒い鏡のようで、覗き込んでいると周りの光が吸い込まれていくような錯覚を起こした。そのうち自分も吸い込まれるのかもしれないという気がして、知らず背が震えた。その怖さはきっと、今の自分が悲しい顔をしているから湧いてくるのだろう……そう思った。

 そんな嫌な感覚を振り払おうと頭を振り、話し続ける。


「それで、どうやったら樋川くんに楽しんでこの曲を弾いてもらえるか、いっぱい考えて……やっぱり、ノーミスで完璧に、思い通り弾けるようになったら楽しいやろうなって思って。そのためには苦手にしてる左手パートを集中して鍛えたらええんと違うかなって。でも、左手ばっかり練習するのは多分つまらんやろうから、二人で連弾しようって言い出したわけ。この曲はケガする前から弾いてたし、私は自由に動かせる右手のパートを弾けばよかったから、ちょうどええなって。その思惑が当たって、演奏会も成功したわけやし」


 先ほどの拍手の嵐を思い出しながらうなずいて、笑顔を取り戻して顔を上げる。


「今やったら、樋川くん一人できちんと最後まで弾けるはずやと思う。楽譜をなぞるだけやない、


 確信を声に乗せ、文奈ははっきりと言った。


「…………」


 柊二は自分を真っ直ぐに見つめる茶色の瞳を見つめ返して――眉根を寄せていた。

 彼女の確信も、そんなことをする理由も

 会って間もない見ず知らずの他人に対して、なぜそうまで執着しようと思ったのか。ただ自分が好きな曲だからという理由は、柊二にとって十分ではなかった。柊二が奏でる音色が気に入ったからという理由も、納得するには遠い。


「どうして俺なんだ。川代かわしろが理想だと思っている演奏が聴きたいなら、芸術科の上級者に弾かせりゃいいだろ。元芸術科なんだから知り合いの一人や二人くらいいるだろうし、そのほうが圧倒的に早いし確実だ。違うか?」

「……それ、本気で言うてるん?」


 その問いに、文奈は顔を強張らせた。

 酷く傷ついた表情で数瞬だけ柊二を見て、糸が切れた操り人形のようにカクンとうなだれる。否応なしに自分が映る黒い鏡を覗き込み、今にも泣きそうな自分を見て、先ほどよりも強い恐怖を感じた。その息苦しいほどの圧に押され、恐ろしくて涙が滲み始めた。

 だめだ、今は泣くときじゃない――と奥歯を噛みしめる。


「別に深い理由なんてあれへん。ただ、樋川くんがホンマはピアノが好きやのに、嫌いやて言うてるのが悲しいと思っただけやし」

「ウソつけ」


 言い訳だ、と柊二は直感した。文奈のその言葉には一片の真実も含まれていない。

 そう感じて何の感情もない視線を返すと、早々に「ごめん」と降参した。


「バレバレやね……。そう、今のはウソ。私は、好きな曲を好きな音で聴きたかっただけ。私には無理やから。……そう、ただのワガママやね」


 言って、できる限りの笑顔を作った。

 黒い鏡の向こうの自分も笑っていた。

 吸い込まれていく光を連れ戻すように。


「…………」


 柊二は沈黙していた。

 ただ文奈の横顔をじっと見つめ、それも本心の全てではないだろう、とおぼろげに感じ取っていた。

 浮かぶ笑みがどこか無理をしているように見えたから。


「樋川くん。一回、一人で弾いてみてくれる?」


 言って文奈は、ピアノの天板に両手を重ね、そこに顎を乗せた。思いがけず座っている柊二とほぼ同じ目線の高さになり、理由もなくほっと安心できた。無理した作り物ではなく、自然に浮かぶ笑顔になれた。


「弾いてみて?」

「……ああ、別にいいけど」


 まだ答えを聞いていない。納得できる言葉を貰っていない。

 そう言って突っぱねることもできた。

 だが柊二は、文奈の言うとおり弾くことでその答えが見つかると思った。幾千の言葉を重ねるよりも、たった一度の演奏のほうが雄弁だと感じた。

 無意識のうちに鍵盤の上に乗っていた両手に視線を落とす。


「けど、ずっと右手パートを弾いてなかったからな……上手く弾けるかどうかわからんぞ」

「大丈夫。やから」

「了解」


 無茶な軽い一言にうなずいて、柊二は深く息を吸い、吐いた。

 自信たっぷりな文奈の言葉にも、柊二のあっさりとした納得にも、一切の根拠はない。

 二人の間には明確な技量の差が存在し、柊二が。それは二人ともが認めている事実だった。

 しかし、不思議と柊二にはそれが越えられない壁だとは思えなかった。

 今ならやれる。大きな拍手を得た連弾と同じ旋律を一人で奏でられる。

 そんな確信めいたものが、少し潤んだ薄茶色の瞳に映り込んだ自身の中にこんこんと湧き上がってくる。


「頑張って」


 文奈はこれから演奏を始める柊二の後ろに立って、右肩に手を置いた。自分の気持ちを注ぎ込むように、そっと。

 そして――柊二の指が、モノクロの舞台で踊り始めた。


 ブランクがあることを感じさせないほど滑らかに右手が動く。

 文奈の癖や感情の込め方も自然に再現していた。

 いつも左手が少し遅れてしまう箇所も変わらずだが、文奈がフォローしてくれていた通りに右手でテンポを合わせてカバーできている。まるで柊二の右半身が文奈になったかのような一体感――肩に触れる温かい手の感触を伝って、二人の全てが繋がっていく気がした。

 作曲者がこの曲に込めた想いとはまた違う、文奈の気持ち。

 右手だけで織り成してきた半分の想い。

 それが柊二の中に流れ込み、彼の半分の想いと同化して二人だけの旋律を奏でる。


(そういうことか……)


 溶け合う想いの中、柊二は理解した。

 なぜ文奈が他の誰でもなく、自分にこだわったのか。


 わずか三分程度の短い曲。

 しかし、二人にとってその時間は永遠に似たものに感じられた。いつまでも終わらない物語のように。


「……やっぱり、もたつくところは直ってないな」


 最後の音を響かせた手を舞台から下ろし、柊二は苦笑した。

 しかし、その表情の奥には悔しさも焦りもない。

 あるのは純粋な想いと、充実した気持ち。


「けど、そのほうが俺たちらしい感じがしないか。まだまだ未熟で、完成度も低くて、ミスもいっぱいあって。けど、なぜか納得できてしまう音」

「そう……かもね」


 応えるように文奈も笑った。潤んだ瞳から今にも雫がこぼれ落ちそうな、感情に溢れた微笑みで満ちている。


「樋川くんが言うとおり、原曲に比べたら下手で、プロからしたら聴いてられへんものかもしれんけど、この形が本当に私たちらしい『音』やと思う。作曲者が込めた想いとは違う、私たちの想いがいっぱい詰まった演奏やと思う」

「だな。原曲を聴いているより、自分たちの演奏のほうが気持ちいい気がする」

「私もそう思うよ。樋川くんの音……すごくいい。心の奥底にふわりと入り込んで、広がっていって、気持ちが温かくなっていく感じがする」


 こくりとうなずいた文奈は、柊二の肩に置いた右手に左手を重ね、両手に抱えた想いが全て伝わるようにと自身の手を見つめた。

 他の誰にも真似できない音。深く沈んだ心を浮かび上がらせてくれる音色。それを奏でられるのは唯一、柊二だけだった。

 それが彼にこだわった一番の理由だ。


「こんなに嬉しくなる演奏が聴けたのは……みんな樋川くんのおかげやね」

「そんなことはない。川代がいたからできたんじゃないか。お前が俺と連弾すると言わなかったら、こうはならなかった」


 そうだろ、と柊二は振り向いた。

 後ろに立っている文奈は小さく笑いながらゆっくりとかぶりを振っていた。その目から、透明な想いが一滴、こぼれ落ちる。


「ううん……。諦めてたこの曲を弾けたのも、私の思い描いた通りの旋律になったのも、全部樋川くんのおかげ。私だけじゃ何もできへんかった」


 瞳を涙で濡らし、精一杯微笑んで、柊二の後ろに回って抱き締めた。泣いている顔を見せたくないと、その背に顔を押し当てる。


「他の誰でもない、樋川くんの音に出会えて、本当によかった……」


 こぼれ落ちる雫が、真っ白な柊二のシャツの背に落ちて広がる。

 止まらない。

 涙も、想いも、止まらない。


「私……が好き。初めて顔を合わせたあのときよりずっと前から、私は柊二くんが好きやった」


 あまりにも急すぎる告白。

 雰囲気もタイミングも何もない、大きすぎる想いの唐突なオーバーフロー。


「知ってる」


 柊二はそれに驚くことなく、しっかりと受け止めた。

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