第5楽章 第3節

 連弾とふみの歌。

 演奏会で見せた彼女の微笑み。

 そして、彼女と共に一人で弾いた『ふたつのはんぶん』。

 それだけで、彼女の気持ちは十分に伝わっていた。

 言葉にされなくても、彼女の想いは全部わかった。


「知ってたよ。俺は……」


 その気持ちに応えようと、柊二しゅうじは胸に回された文奈の華奢な腕に手を添えて――


「そこまで。何も言わんとって、。それと、ごめん。今私が言うたことは冗談やから忘れて。私なんかの言うことを本気にするような人はおらんけど、一応な」


 へへっとだらしなく笑う文奈の白くて細い手が、するりと柊二から離れた。

 いつもの冗談のようにさらっと流して、すぐ忘れてしまいそうなほどあっさりと遠ざかっていった。

 一瞬、柊二には何が起こったのかわからなかった。触れたはずの手の中が空っぽだということにすぐ気づけなかった。

 しかし身体は無意識に動き、離れて行く手を追いかけて掴んでいた。その確かな感触と体温が意識に伝わると同時に、椅子から立ち上がって振り返る。

 文奈は、弱々しく笑っていた。

 雨に打たれ、頼るものもなく、しかし自分では何もできずに、ただ誰かの助けを待つしかない捨てられた子犬にも似た痛々しさを含んだ表情だった。言葉とは裏腹に、冗談にしたくないと強く願っている顔だった。

 それを見た途端、柊二の頭の芯に熱が入った。無性に悲しくて、無性に腹が立った。まったく彼女らしくない態度に、感情が加熱して燃えてしまいそうだった。


「ふざけんな。いいか、よく聞けよ」


 こちらもいつもの様子とは違う、燃えさかるほどの熱を持ちながら、逆に心の奥に凍てつくほど冷たく響く柊二の低い静かな怒声。

 本気で怒らせた――と文奈は思った。

 自分を睨みつけるその表情も、今まで見たことのない鋭さで心に突き刺さる。

 震えが止まらない。

 出会って以来、初めて柊二を心底怖いと思った。

 ――でも。

 怒って、呆れて、と思った。

 そうなることを強く願った。

 

 


 それだけは絶対に、守り通さなくてはならない。抑えきれずに溢れてしまった本心を冗談で覆い隠して、それ以上立ち入らせないようにしなければならない。


「…………」


 柊二の目を見ているとその意志が大地震のように揺らぐ気がして、文奈は咄嗟に顔を伏せて足元に視線を落とした。

 その先で、柊二の足が一歩踏み込んできた。

 やめて、来ないで、と心の中で絶叫する。それ以上は取り返しがつかなくなるから引き返して、と声なき懇願をした。


「俺はな、お前が言うこと全部を冗談に受け取るほど楽天家でもないし、好きだなんてこっずかしい言葉を本気以外の何でもない調子で言われて、それをあっさり忘れられるほどバカでもねぇんだよ。異性慣れしてねぇんだから、そんなこと言われたらバッチリ記憶するし、踊り出しそうなくらい舞い上がるに決まってんだろうが。非モテ男をなめんな」

「……っ」


 しかし柊二は、その願いを粉々に砕いた。

 これ以上聞きたくないとばかりに文奈は頭を横に振り、空いた手で耳を塞ぐ。だが片腕を掴まれていては両耳を閉じることができない。柊二の言葉は否応にも聞こえてしまう。


「前に、お前を好きになれって俺に言ったよな? よくもまぁ、俺の気も知らずにそんなことが言えたもんだと思ったね」

「やめて。それ以上言わんといて」

「いいや、言ってやる。何度だって言ってやるさ、壊れたレコードみたいにな」


 冗談めかした口調にはっきりと含まれる怒気。

 柊二は文奈が感じたとおり、本気で彼女の態度に腹を立てていた。

 今までどんなやつらと接して、どれだけの真剣な会話を笑い話にしてきたかは知らない。知りたくもない。これまで文奈が付き合ってきた連中のことなんか知ったことか。

 そんな連中よりもずっと、文奈の心の中をよく知っているつもりだった。わずかとは言え、まったくズレのない一体感を覚えるほど共に過ごした時間の中で、彼女のことは少なからず理解できるようになっていた。

 そのおかげで、とわかった。

 なぜ俺なんかを選んだ、と先ほど問いかけた時に酷く傷ついた顔をしたのも、その気持ちが強かったからだ。意図せず試すような真似をしてしまったが、それで文奈の気持ちがしっかり理解できた。

 それゆえに。

 

 それは――とても辛いことだった。

 互いを想う気持ちが強くなるほど、そのとわかっているのだ。

 彼女がを恐れるのも仕方のないことかもしれない。

 柊二自身も、を考えるとこれ以上は何も言わないほうがいいと頭では理解している。

 けれど。

 わかっていても止められないものもある。

 文奈が本心を抑えきれずに溢れさせたように、相手を想う気持ちは理性で抑えておけるようなものではない。いくら抑えても溢れ出してしまう――それほどに強い気持ちというものが確かにあるのだ。


「これだけは言っておく」


 真っ直ぐに文奈の目を見つめる。逸らそうとする顔を強引に自分に向けさせる。少し涙が滲んで潤む茶色の瞳が自分を見ていることを確かめ――柊二は言った。


「俺もお前が好きだ。


 これ以上なく、真剣に。

 愚かしいほど、純粋に。

 今の気持ちを、想いを、言葉に乗せた。

 文奈はどうしていいのかわからないと言うように、いつも笑顔でいる顔をくしゃくしゃにしていた。

 嬉しさ、悲しさ、後悔――いろんなものが心の中を駆け巡る。


「……ウソつき」


 掠れた声でそう言い返すのがやっとだった。震える唇が上手く動いてくれない。


「心にもないこと……言わんといて」

「こういうときにウソをつくのは嫌いだし趣味じゃねぇ。俺は本気で川代かわしろ文奈が好きだ」


 改めてはっきりと言い切って、掴んでいた文奈の手を強引に引いた。今にも折れてしまいそうな華奢で小さな身体が柊二の胸に飛び込んでくる。


「お前がどうして自分の気持ちを冗談にしたがるのかはわかってる。ちゃんと理解してる。けど、それでも俺はお前とピアノを弾きたいんだ。それが一番楽しいんだよ。だからさ」


 驚いた顔で見つめてくる文奈を抱き締めて。

 離さないように、しっかりと。

 でも、強すぎないように。

 大切に。

 なくさないように。


「一緒に――二人で、ピアノ弾こうぜ」


 真っ直ぐに、何一つ偽りのない気持ちで文奈を見つめた。

 冗談など入る余地のない真剣な眼差しを受けた文奈の心が揺らぐ。うるさいほど頭の中に響いていた『彼を受け入れてはいけない』と警告する声が薄れていく。


「……ええの? ホンマにそれで? 辛い思いをするってわかってるのに?」

「いいんだよ。今がよけりゃ、それで。先のことなんかそのとき考えりゃいい」


 戸惑う文奈の不安を一蹴するように柊二は答えた。

 それでも文奈の表情からかげりは消えない。


「多分、そのときが来たらめっちゃキツいで……?」

「だろうな。正直、耐えられるかわからんし、平静でいられる自信は全然ない。引くほどカッコ悪いところを見せる自信なら売るほどある」

「えぇ……? 頼りないことこの上ないんやけど……」

「すまん。けど、それでもよかったら一緒にいてほしい。俺はお前と一緒がいい」

「…………」


 力強い言葉。

 彼の音色から感じていた安心感。

 それが、文奈の不安を覆い隠した。

 もう、何も考えられない。考えなくていい。

 この先に待つものが何であろうと、そのために膝を折るようなことになろうと、彼がそこにいれば大丈夫。彼となら乗り越えられる。

 文奈はそう思うことにした。


「うん……ありがとう……。私も、柊二くんと一緒にいたい」


 温かく包み込んでくれる大切な人の腕の中で、嬉しさのあまり涙が溢れて止まらなかった。



          ・



 見つめ合う二人の鼻と鼻がくっつきそうな距離。

 ほんの少し、顔を突き出すだけで唇が触れてしまいそうな距離。

 微かな吐息さえも感じられる距離。

 今なら、その距離を縮めてしまえる気がした。


「川代……」

「あのな、柊二くん。こういうときは名前で呼ぶもんや。さっきみたいに」

「すまん川……文奈。慣れてないもんで」

「知ってる」


 笑って、文奈はそっと目を閉じた。

 柊二もそれに応えようと、少しずつ、ゆっくりと距離を縮めていった。

 緊張のせいか、文奈は人形になったかのように身体を強張らせ、きゅっと桜色の唇を結んでいた。柊二の腕の中で、その小さな肩が少し震えていた。

 小さくて、華奢で――でも、とても強くて、温かくて。

 何よりも大切にしたいと思うものが、今、自分の手の中にあって。

 絶対に離したくないと、離さないと決めた。

 その決意の証を、文奈の唇に――

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