第5楽章 第1節
拍手の余韻がまだ聞こえそうな気配を残した旧音楽室。
今ここにいるのは、
しかし、ライブの最中にあった熱気は夏の暑さのようにまだ室内を満たしていた。
「やったな」
「うん。大成功やったね」
疲れ半分、達成感半分で互いに見つめ合う。
そして、どちらが言い出したわけでもなく、二人はおもむろに両手を上げた。
約束通りのハイタッチ。
ぱぁんっ!
と景気のいい音が部屋に響いた。
叩き合わせた手のひらがじんじんと痺れる。
それでも触れる肌の温かさは伝わって、確かな感触に自然と笑みがこぼれた。
文奈を見つめる柊二の瞳に文奈が映る。
柊二を見つめる文奈の瞳に柊二が映る。
そこに見える顔は、最上の笑顔だった。
「よっしゃ! ハイタッチの次は校歌斉唱や!
「弾けるかそんなもん。入学式で一回聴いただけだから校歌自体よく知らないし」
「えぇっ⁉ 君には愛校心がないんか! ……と言いつつ私も校歌の歌詞知らんかったわ」
「知らずに歌おうとしてたのか……」
呆れてがっくりと肩を落とし、しかし文奈らしい言い草だと苦笑する。
「そうそう、歌詞と言えば」
ハイタッチで合わせた手を離し、柊二はピアノの前に座って思い出したように言った。
文奈は不思議そうに首を傾げ、ピアノにもたれかかる。
「オリジナルのときは驚いたよ。本気で焦った。練習のときと歌詞が違うんだもんな。お前が俺の動揺に気づいてこっちを見なかったら演奏止めるところだった」
「あー、あれか。ごめんなー、ビックリしたやろ」
軽く謝ってからぽりぽりと頬を掻く。申し訳なさよりも照れくささが勝っているらしく、恥ずかしそうにうつむいてしまった。
「でも、あれが本当の歌やったから。樋川くんのオリジナル曲を聴いたそのときから、ずっと考え続けて書いた詞やから。大事な人のことを想って綴った、私の気持ちそのもの」
「そうか……やっぱりな」
その言葉を聞いて、柊二は心の中の
「お前、顔を合わせるずっと前から俺のピアノを聴いてたんだな。俺が弾いてるとき、いつも机の陰にいたんだろ」
「……ごめん」
今度は本当に申し訳なさそうに呟く。
柊二がそのことに気づいたのは、文奈のある一言からだった。
練習に詰まって遊びに行ったとき立ち寄った喫茶店で、彼女は言った。
「月光の第一楽章に感情がない」
と。
実のところ、柊二は彼女と出会ってから『月光』を弾いていなかったのだ。指慣らしのルーティンから『月光』を外して連弾の時間を増やすようにしていたし、ライブを決めてからは『ふたつのはんぶん』とオリジナル曲しか弾いていない。
それに、『ふたつのはんぶん』を初対面で文奈に弾いてくれと言われたとき、柊二が抱えるミスを彼女が全て聴き分けられるはずがなかったのだ。そのときはテンポを落として気負わず流したおかげで、偶然上手く弾けて四カ所しかミスをしなかった。
それなのに文奈が『六カ所』と言い切れたのは、それ以前に何度も柊二のピアノを聴いていたからに他ならない。
文奈はくるりと振り向いて、ピアノに背中を預けて天井を仰いだ。
「……授業サボって、何もやる気がなくて、ずっと
いつも寝床にしていた辺りの机を横目で見て、退屈そうに表情を緩める。
「けど、ある日、いつものように机の陰で昼寝してたら、ピアノの音が聞こえて来た。放課後は誰も
「それにまったく気づかなかったんだよな……俺」
自嘲気味に笑って、柊二はかりかりとこめかみを掻いた。私のステルス性能をなめたらアカンで、と文奈がおどけ、二人で笑い合う。
柊二がエアコンの件で室内を見回りでもしていればすぐに気づいただろうが、誰かが切り忘れただけだろうし、涼しいならそれでいいやと深く考えなかったことで、互いに顔を合わせないまま同じ時間を過ごすことになったのだ。
「まぁ、私も誰かさんが毎日来るってわかったから、その時間だけ別の場所に行けばよかったんやけどね。でも授業中と違って放課後は校内のどこに行っても人がおるし、芸術科の知った顔に会ったら嫌やったから、ここで誰かさんの演奏を聴くことにした。子守唄にするにはちょっと下手やったから寝られはせんかったけど、少しずつ上手くなっていくさまを聴いてるんは暇つぶしにちょうど良かったし」
「人の必死な練習を暇つぶしとのたまうとは随分な言い草ですな、お嬢さん?」
「何言うてんの。自分も暇つぶしで弾いてるて言うたやん。ミスしても直そうとせぇへんし、必死にやってるようにも見えんかったで」
う、と反論に言葉を失う柊二。
その引きつり顔を見て、文奈はたまらず噴き出した。
「でも、あるとき、その人は私の一番好きな曲を弾き出した。『ふたつのはんぶん』。なんでこの人が知ってるんや、ってビックリした」
「それはこっちのセリフだ。あんな超マイナーな曲を知ってるやつがいるなんて思わなかった」
「マイナーでも名曲には違いないやん?」
「それは同意だ」
うなずいてグッと親指を立てる柊二。
文奈もウインクしながら応えた。
「……で、弾き出したはええけど、なんやそれってぶちキレそうなくらい下手やった」
「当然だろ。最初は誰でも下手なんだよ」
怒らんといてな、と媚びるように柊二を上目遣いで見ると、苦笑とともにそんな言葉が返ってきた。
それに安心したか、文奈の
「そんなレベルやなかったやん。手のひら裏返しで弾いてるんかと思った」
「そこまでか。そこまで酷かったか。……いや、そうかもな」
散々な言われように反論するが、初めて弾いたときのボロボロっぷりを思い出すと、下手と言われても仕方ない気がした。ド素人ならまだしも、ある程度ピアノを弾ける人間の演奏ではなかったから。
「下手やったけど、それでも毎日続けて練習して、ちょっとずつ弾けるようになっていった。でもそれと同時に、どうしてもうまく行かへんトコに焦れて、苛立って、気持ち悪い音になっていくのもわかった。……わかるねん。私も左手が思うように動かんで、今まで弾けてた曲が全然弾かれへんようになって苛立って、ちゃんと動いてるはずの右手まで気持ち悪い音を鳴らすようになったから」
文奈は白くて小さな右手を握ったり開いたりしながら薄笑った。
それを柊二がじっと見ていることに気づくと、あんまり見んとって、とおどける。
「誰かさんが弾いてたのが他の曲やったら、別にどうでもよかった。弾けないからって投げ出して、違う曲を弾き始めても気にせぇへんかったと思う。けど、弾いてたんが私の一番好きな曲やったから、投げ出して欲しくなかった。楽しんで弾いて欲しかった。でも上手く弾けなくて、弾くことが楽しいと思ってないなって。本当に暇つぶしで適当にやってるだけやてわかって。それは嫌やったから……我慢できんで声をかけることにした」
唐突に笑みを引っ込め、文奈は顔だけを柊二に向けた。
表情のない白い顔から覗く半眼で薄茶色をした瞳の奥には、微かに悲しみの色が浮かんでいる。初めて会い、柊二からピアノが嫌いだと言われたときと同じ、憂いに満ちた色。
「……好きな曲だから、いい加減な気持ちで弾いてほしくなかった、てことか」
「まあ、そんなとこ。今思ったら、上から目線で偉そうなこと言うてるね」
「その気持ちはわからなくもないぞ。俺だって好きなものをいい加減に扱われるのはやっぱり嫌だと思うだろうし。けど、それほど大事なものを俺みたいな素人にどうにかできると思ったのか? 俺がやる気のあるやつだったらともかく、ピアノ嫌いなんだぞ」
「思ったよ」
疑問を呈する柊二に、文奈は揺らぐことなく即答した。
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