第8楽章 第1節

「一体、何があったのかしら……」


 柊二しゅうじの母は戸惑いながらそう呟いた。

 今、自宅のリビングに置いてあるアップライトピアノを弾いているのは、柊二の妹ではなく彼自身だった。

 やめたいと言って離れていったピアノに、離れてからは一切近づかなかった場所に、彼は自ら戻って行った。


「母さん。これからしばらくの間、リビングのピアノを使わせてくれ。妹のレッスンを中断してくれ」


 そう息子が言ってきたときは耳を疑った。

 あんなに嫌がったピアノを今になって弾きたがるなどと、想像もしないことだった。

 ただ、息子の目があまりにも真剣で、冗談で言っているのではないことに驚いただけだった。

 しかし――落ち着くにつれて、柊二の身勝手な振る舞いに苛立ちを覚えるようになった。理由を訊いても、「言えない」「答えられない」と返すばかりで話にならず、それどころか干渉は一切するなと言われる始末だった。

 柊二がどうしてそんなことをするのか、まったく想像もつかない母がそれに対して怒りを覚えるのは自然なことだった。


「何のつもりか知らないけど、今になっていきなりピアノを独占して、妹のレッスンの邪魔をするなんて……」

「いいの。わたしなら、いいの」


 いきどおり、身勝手な息子を問い詰めようとした母の手を引いて止めたのは、まだ幼い娘だった。

 家族の中で、彼女だけが柊二の態度が変わった理由を知っていた。


 あの日――ふみが柊二を訪ねてきた日、妹は兄の帰りを待つ彼女とたくさん話をしていた。

 柊二が学校でピアノを弾いていること、それがきっかけで出会ったこと、文化祭でライブをやるために必死に練習したこと、十二月の市民音楽祭にゲストで招待されて出演することなど。

 自分の知らない兄の姿を、文奈はとても嬉しそうに話してくれた。仏頂面ばかりでいつも怒っているような兄しか知らない身には、その話はとても新鮮だった。

 そして、幼くして人の機微に敏感にならざるを得なかった少女は、その話し振りと表情から、目の前にいる変な言葉遣いのお姉ちゃんは兄のことが好きで、兄もこのお姉ちゃんが好きなんだ、ということを感じ取った。まだ恋愛というものがよくわからない年頃でも、それだけはわかった。

 だから今、兄が真剣にリビングのピアノを弾くのはそのお姉ちゃんのためだ、とおぼろげに感じていた。


「お兄ちゃんにとって、今ピアノを弾くのは、とっても『たいせつ』なことなんだと思うから。邪魔しちゃ、ダメ」


 そう言って、とりつかれたように集中してピアノを弾き続ける兄をじっと見つめた。


「……?」


 文奈の存在を知らない母は、娘の言葉を理解できずに困惑するしかなかった。



 一刻の猶予もない。とにかく練習するしかない。

 文奈との約束を守るために、一人で音楽祭に出る。

 そしての演奏を多くの人に聴いてもらう。

 二人の想いを乗せた音を、一人でも多くの人に。

 ただ、そのためにはひたすら自身の気持ちを曲に込め、表現できるようにならなければならなかった。

 しかし、現状ではまったくと言っていいほどできていない。技術面も精神面も、両方で。

 まだ、文奈が隣にいないということが心の枷になっていて、想いはうまく旋律に乗らない。文奈にお願いされて吹っ切れて、消え去ったと思っていた別れに対する迷いと困惑が意識のどこかに残ってしまっている。そんなことではライブで連弾したときよりもずっと、くすんで光らない演奏になってしまうのは明らかだった。

 それを取り去るには、ただひたすらに練習するしかない。文奈が隣にいなくても、曲を通してその存在をはっきりと感じられるようにならなければいけなかった。

 そのためには放課後の旧音楽室で数時間練習するだけではまったく足りない。とてもではないが間に合わない。

 だから、二度と近づきたくないと思っていた自宅のピアノを使うと決めた。

 過去の嫌な記憶になんてこだわっている場合ではなかった。

 そんなものは文奈との約束の前では些細でどうでもいいことだった。

 今はただ、文奈の演奏を、彼女の音を、大切な人が紡ぐ旋律を、自分が奏でられるようになることだけを考えて。

 柊二はピアノと向き合い続ける。



          ・



「じゃ、またね」


 そう言って、文奈は街灯から落ちる濡れた光の輪の中で笑った。

 音楽祭でピアノを弾く約束を交わし、彼女を家の近くまで送ったその別れ際のことだった。

 辺りは真っ暗で人通りもなく、しんと静まって冷えた空気が辺りに満ちていた。昼間はあれほど強く降り続いていた雨はすっかり止んで、満天の星空が見えている。誰もがこの夜気と暗さにうつむく中、文奈と柊二は繋いだ互いの手の温かさを感じながらそれを見上げていた。住宅街が郊外にあるからか、雨が空気を洗い流してくれたからか、散らばる星々がやけに鮮明に見えた。


「頑張ってな、音楽祭。遠い空の下で応援してるから。私も頑張るし」

「……ああ」


 文奈のエールに、柊二は生返事しただけだった。ぼんやりと天を仰ぐだけで、どこか放心しているようにも見えた。

 その腑抜けた返事と表情に文奈は眉間にシワを寄せた。


「なんやの、その気合の入らん返事は? やる気あんの?」

「ああ、すまん。ちょっと、自分が情けなくてな……」

「どういうこと?」


 問い詰めるようにずいっと睨んでくる文奈に横顔を向けたまま、柊二はため息をついた。


「結局お前に励まされてやっと立ち直る始末だし、立ち直ったと言っておきながらやっぱり離れるのが辛いと思ってんだよ。気持ちが通じ合ってて、間違いなく繋がってるってわかってるけど、やっぱり文奈が隣にいないってのは寂しいから……どうしてもこの手を離したくないんだ。離せそうにないんだよ。いや、こんなことでどうすんだって自分でも思うけどな……」


 はぁ、と自分の不甲斐なさに再びため息が漏れる。別れ際になってこんなことを言い出すなんて、と自己嫌悪に襲われた。

 そうやね、と文奈はその弱気を肯定した。


「わからんでもないよ、その気持ちは。私も一緒やし。せやから、ちょっとしたおまじないを掛けとこうかなって思ったりするわけで」

「おまじない……? 何だそれ?」

「さて、効果のほどはどうやろうね?」


 と文奈は悪戯っぽく笑って繋いでいた手を振り払うように離し、自由になった華奢な両腕を柊二の首に回して抱きついた。

 そして少し背伸びし、目を閉じて――


「ん……」


 桜色の小さな唇を、柊二のそれに重ねた。

 唐突なことに意識をぶっ飛ばされた柊二は、その温かく柔らかい感触に抵抗できず、二人を照らす街灯を支える電柱のように硬直し、立ち尽くしていた。

 ふわりと漂う甘い匂いも、額をくすぐる茶色がかった前髪も、見開いた目に映る長い睫毛や白い顔も、それら全てがスクリーンの向こうの映像になったかのような、ひどく現実感に乏しいものに見えていた。

 ただ一点――彼女と触れ合う一点だけが圧倒的な存在感を持ち、焼けるように熱くなっていた。


「…………これでどう? 気持ちだけやなくて、身体も一つになった気がしたやろ?」

「え、いや、その」

「ん? 足らんの? もっと、これ以上のことしたいん? 私は別にええんやけど……ここは路上やし旧音楽室みたいに防音やないで? ご近所さんの目もあるし」

「お前……ッ! そういうことを大声で……!」


 とんでもない発言に焦り、柊二は慌てて周囲を見回した。

 幸い誰もおらず、聞かれていないらしいと安堵する。

 その様子を見ていた文奈はこらえきれずに笑い声を上げた。


「あははは。で、やっぱり足りへん?」

「十分です! バッチリです!」

「そっか、よかった。おまじないの効果、あったみたいやね」


 長いような短いような時を刻み、街灯の明かりでもはっきりわかるくらいに赤面しながら笑う文奈。同じく顔を真っ赤にしながらうつむく柊二。ぽりぽりと所在なげな柊二の右手が後頭部を掻く音が妙に大きく響き渡っているような気がした。

 しばし柊二は沈黙し、小さく息を吸って顔を上げた。十分と言ったわりにはその表情に不満げな色が浮かんでいる。


「ただな……こういうのは俺のほうからすべきなんじゃないかと……」

「ええやん、どっちからでも」

「よくない。こういうのは男の役目だと思うんだよ。それに、俺からしないと確かなものが残せない気がする」


 ぶつぶつと文句を垂れる柊二カレシをジト目で見て、文奈カノジョは盛大に呆れながら頭を掻いた。


「あー、もう、男って面倒やね……。もう一回キスしたいって直球で言うたらええのに……」

「男はロマンチストなんだよ。あと、お前はもう少し恥じらいってものをだな」

「わかったわかった。じゃあ、ほら、ちゃんとエスコートして。私は待ってるだけにするから」


 と、文奈は一歩離れて目を閉じた。

 しかしその様子にしおらしさはまったく感じられず、仁王立ちで両手を腰に当てて胸を反らすという、いろいろとぶち壊しな姿だった。

 もちろんそれは嫌がらせのつもりでわざとやっていて、それをわかっている柊二から思わず苦笑が漏れる。


「ムードの欠片もないな……」

「私はそういう女やもん」

「知ってる」


 くくっと小さく笑って文奈を抱き寄せる。さあ来いと構えているわりにその身体は簡単に腕の中におさまり、少し震えていた。言葉とは裏腹に緊張しているようだった。


「なんだ、震えてるぞ。されるのは怖いのか」

「そんなんちゃう。寒いからや」

「だったらとびきりアツいやつにしてやる」

「受けて立……んっ……」


 虚勢を最後まで聞かず、柊二は減らず口の多いそれを唇で塞いでやった。



 いつだって、柊二は文奈から強さと勇気を貰っていた。

 連弾を始めるとき。

 練習で詰まったとき。

 ライブの直前。

 別れが決まったとき。

 たくさんの強い気持ちと勇気を、彼女から貰っていた。

 それを今、少しでも返してやろう。

 柊二は、その想いを長い長いキスに込めた。


「じゃ、またね」

「ああ、またな」


 二人は笑顔のまま、光の輪の中で別れた。

 サヨナラは言わなかった。

 その必要がないから。

 ピアノを弾けば、そこにお互いがいると感じられるから。

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