第8楽章 第2節
市民音楽祭、当日。
自分と同じ制服を着た数十人の男女がステージで楽器を演奏しているのを、
彼らは芸術科音楽専攻クラスからゲストとして招かれた選りすぐりの演奏者たちで、予想以上に演奏レベルが高かった。
そんな連中と同じ舞台に立たなければいけない――そう思うと、今すぐ逃げ出したくなった。
「このプレッシャーは文化祭の比じゃねぇぞ……」
舞台袖から見る観客席は照明をやや落とし気味にしてあるせいか、後席に十分な明かりが届かず、やたらに広く延々と奥行きがあるように見える。
事前に聞いたところでは観客の人数は三百人程度だが、暗くて見えない席の奥に何千人もいるような気がしてならなかった。緊張を通り越して恐怖感すら覚える。
練習は必死にやった。可能な限りの時間を使って練習した。最後の一週間など学校を休んでまで練習した。無人の観客席を前にしたリハーサルも十分にできた。
だがそれでも不安は消えない。本番独特の雰囲気は、練習では絶対に体験できない何かを秘めている。それに飲まれて失敗したら。途中で叩く鍵盤を忘れたら。楽譜を思い出せなくなったら――そんなことを考えると、ピアノの前に座ることができなくなりそうだった。
――こういうとき、文奈だったら何と言うだろう?
「私らはプロやないんやから。失敗してもええねんて。失敗しても。うん、素人なんやから」
文化祭のとき、彼女が呪文のように呟いていたその言葉を思い出した。
そのあまりの緊張ぶりがおかしくて、お互いに笑い合って……気がつくと柊二自身の緊張が
しかし――
「今、ここに文奈はいないんだ。だから」
一人で乗り越えなくてはならない。
ざぁっ、と激しい雨のような拍手がホールに満ちた。
芸術科による演奏が終わり、ついに柊二の出番が間近に迫る。
楽器を携えた生徒が舞台袖から退出するのを見送り、そのあとに係員が椅子や譜面台を忙しなく片付けている姿を惰性的に目で追う。
耳の奥がぐわんぐわんと鳴って、制服を突き破ってしまうかと思うほどに心臓が強く速く動いていた。強烈な血圧に視界がぐらりと傾いだ気もする。もちろん錯覚とわかっているが、わかったからといって動悸がおさまるわけでもない。
目を閉じて大きく深呼吸を一回。
少し間をおいてもう一度。
それを何度か繰り返すと、文化祭ライブの前に文奈と同じことをしたのを思い出して、少しだけ落ち着けた気がした。
さらにそのときのことを鮮明に回想しながら、ほぅ……と長い息をつくと、椅子や譜面台を運ぶ係員のがちゃがちゃとした騒音も耳に入って来なくなった。
怖いのは聴衆ではなく、それを恐れる自分自身の心の弱さ。
自らに打ち克つために意識を自身の内側に向け、早鐘のような鼓動を落ち着かせ、恐怖心を削り落として集中力を高めていく。
片付けが終わり、しん、とホールが静まり返った。
続いて柊二の名前が呼ばれ、舞台の真ん中に置かれたピアノにスポットライトが当てられた。旧音楽室に置いてあるものよりも高級なピアノが、黒い宝石のように眩い光を照り返している。
柊二はゆっくりと舞台袖から中央へ歩き、ピアノの横で一礼した。期待に満ちた拍手を耳に、これから自身の両手が踊るモノクロの舞台と対峙する。
じゃあいくぞ、文奈。
心の中で隣に座る大切な人に声をかけ、椅子に腰を下ろし、構えた。
身体にまだ少しだけ
「…………」
演奏を始める直前、柊二はそれに気づいた。
その確かな感覚が、どうしても振り払えなかった緊張を全て吹き飛ばした。
無駄に入っていた肩の力が抜ける。
不安に揺らいでいた気持ちが凪いでいく。
気負いも恐怖も消えた。
いける。
完璧に弾ける。
何の根拠もなく、そう確信した。
ちらと客席のほうへ目をやり、改めて感じる視線を確かめて。
構えた手の指先にひんやりと触れる鍵盤を――押す。
柊二の――文奈の――二人の『ふたつのはんぶん』がホールに舞い、踊る。
原曲よりも未熟で荒削りな、この音楽祭の格には不釣合いな
芸術科でもない柊二が、ただ自分たちのためだけに弾くピアノ。
数百の聴衆にとって、そんな素人の演奏を聴くことにどれほどの意味があるのか。
それは柊二にはわからない。
――わからなくてもよかった。
有象無象の聴衆など、言葉通り『その他大勢』でしかない。
一人でも多くの聴衆に二人の旋律を聴いてもらいたいという文奈の夢を叶えてやるために
ただ一人のために。
その一人に聴かせるために。
彼は今、全身全霊をもって、想いを奏でている。
わずか三分。
たったそれだけの演奏。
それを届けた柊二に、満場から拍手が贈られた。
舞台袖に戻った柊二は、吹っ飛んだはずの緊張に再び襲われた。膝がガクガクと笑い出し、視界がぐるぐると回り始め、まっすぐ立っていられなくなる。倒れそうになりながらもなんとかパイプ椅子にたどり着き、腰を下ろすと一気に全身の力が抜けてしまった。
そこへ、ドドドドッとけたたましく駆けつける人影。視線だけそちらに向けた柊二が目にしたのは、ジャージを身に着けた熊……もとい、芸術科嫌いの古典教師だった。
「よくやった、
「先生、俺は
何度言えば俺の名前を覚えるんだこの熱血古典マッチョメンは、とげんなりしながら、賞賛の言葉を浴びせ続ける教師を眺める。
確かにこの暑苦しいテンションは、クールでエリート志向の強い芸術科には合わない気がした。
「実のところ、
「別に、俺は先生のために弾いたわけじゃないんですけど。それと俺の名前」
「わかってる! わかってるさ! だが、俺の心に強く響いたんだ! それが例えようもなく、この上なく嬉しいんだよ!」
「…………」
ダメだこいつ。
手放しで褒めちぎられているのにまったく嬉しくないどころか逆に疲れてしまい、ゾウリムシを見るような目で教師を見つめ、柊二は相手になるのを諦めた。
熱血古典マッチョメンは、その後もたっぷり二十分ほどかけて言いたいことを全て吐き出してスッキリしたらしく、とにかくお前はすごい、と締めくくってどこかへ去っていった。
「賞賛されてこんなに疲れるって一体……」
演奏の疲労や観客からのプレッシャー以上に消耗させられ、ぐったりと椅子に伸びる。
その様子を見ていたのか、くすくすと笑う人影が一つ、柊二に歩み寄った。
「あの人は特殊なんよ。気に入った生徒はとことん褒めるクセがあるみたいやねん。私のクラスの担当のときからそうやった」
「やっぱりか。だったらお前も苦労したんじゃないのか?」
「せやね。私は芸術科っぽくない生徒やったからね。暑苦しかったわ。でも、ええ先生やで。私が学校を辞めるとなったとき、必死になって親を説得しようとしてくれたし。まあ、なんか必死すぎてドン引きやったけど」
と彼女は苦笑した。
そして小さく手を振り、ちょこんと小首を傾げる。
「やっほ。久しぶりやね、柊二くん」
「ああ。一ヶ月ぶりか。元気そうだな、文奈」
「まぁね。いつまでも落ち込んでられへんし。……あ、再会の涙は必要やったかな?」
とわざとらしく泣き真似をする文奈。
高校の制服でも家にやってきたときの私服でもない、妙に大人びて見えるフォーマルなスーツ姿にもかかわらず、その子供っぽい仕草がまったく以前と変わっておらず、柊二は妙な安堵感を覚えた。
「再会に泣くってキャラじゃないだろ、お前」
「
言葉とは真逆に肩を震わせながら笑い、べしっと柊二の背中を叩く。
「ところで柊二くん、全然驚いてへんね。私が来てるって知ってたん?」
「いいや、全然。けど、演奏直前にお前が観客席のどこかにいるって気づいた。気配でわかった。そのおかげで緊張が解けたしな」
「ほほう」
そう言うと、文奈はいやらしい笑みを浮かべ、芝居がかった仕草で大きく天を仰いだ。
「なんと、姿の見えない私の存在に気づいたとな。それはもはや愛の力というべきものなのでは?」
「そうだな。愛の力だ」
「…………」
きっぱり! と擬音が鳴りそうなくらいに言い切られ、文奈は意表を突かれたように笑みを引きつらせて硬直した。
「……なんやの……? そこは『何を恥ずかしいこと言ってんだ』とかってツッコミを入れるところやろ。そしたら私が『照れなくてもいいじゃない、もう、可愛いんだからぁ』って柊二くんをイジる予定やったのに」
「それが予見できたからそう言わなかったんだよ」
「う……読まれてたんか……。何で?」
心底ヘコんだというような顔で聞き返す。
柊二はさわやかな好青年を彷彿させる笑みを浮かべて。
「当たり前だ。この一ヶ月、お前の気持ちと一つになることだけを考えてピアノを弾いてたんだからな。文奈が考えていること、仕草、表情、視線、声……その全部を感じられるようになるまで想い続けたんだ。それくらい見抜けなくてどうする」
「な……」
眩しすぎて直視できないほどのまっすぐな言葉に、文奈は絶句して固まった。
ん、どうした、と柊二が真顔で覗き込んでくる。その無邪気な視線に頬から耳たぶから全部紅潮し、文奈は思わず顔をそらしてしまった。
「な、何を恥ずかしいことを……」
「照れなくてもいいだろ。可愛いやつだな」
「…………ぅう」
――艦長! 左舷機関部に直撃弾です! 装甲が大破し浸水を食い止められません! このままでは艦は沈みます!
と、文奈の脳内水兵が損害報告し、レッドアラートが鳴り響く
それはもう、完璧なる撃沈だった。自分がやろうとしていたネタをぐうの音も出ないほど鮮やかに返され、文奈は心から敗北したことを悟った。
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