第6楽章 第1節

 がちゃっ。ぎぃ。


「おおい、まだ残ってるかー」

『っ⁉』


 お互いの唇が触れるその瞬間、何の前触れもなく入口のドアが開き、無意味にデカい声の男性教師が無遠慮に旧音楽室に入ってきた。

 いつもジャージ姿で筋骨隆々ゴリマッチョ、身長も一九〇センチを越える大男で、日に焼けたむやみに濃い顔には豪快な笑みが浮かんでいる。さながら獲物を見つけて歓喜している熊のような容貌ではあるが、そんな立派な体格にも関わらず、体育ではなく芸術科で古典を教えており、書道部と茶道部の顧問を掛け持ちしているというから世の中はかくも不思議なものである。

 ついでに言うと、学生時代は古典音楽研究部という珍しい部の所属で音楽に造詣ぞうけいが深いらしく、先ほどの二人の演奏会にも顔を出していた。まったくもって似合わない。

 ふみは教師の声と姿を目にするやいなや、即座に自分の肩を抱いている柊二しゅうじを結構な勢いで突き飛ばし、「もー、いややわー。がわくんってばー」と棒読みセリフを放ってからケラケラと笑った。


「ぬあっ⁉」


 入口に背を向けていた柊二は誰かの声に振り返る暇もなく身体を押され、抵抗すらできずに後ろに傾いだ。

 反射的に体勢を立て直そうと身体を反転させたまではよかったが、視界いっぱいに迫り来るピアノを避けることはできずに思いっきり額を強打し、「ぴぎゅ」とその口から漏れた気持ちの悪い悲鳴とともに地にした。

 ぶつけた振動で弦が共鳴したのか、わぁん、とピアノがえんのような唸り声を上げたり、柊二が額を打ったところに赤黒い何かがしたたっているように見えたりするのがホラーな感じもするが、全ては気のせいである。


「……何やってるんだ? お前ら?」

「次の文化祭では二人で演劇でもしてみようかと思いまして、さっそくその練習を。ところで何かご用でしょうか、先生?」


 怪訝そうに訊く教師に文奈は悩殺営業スマイルでウソ八百を並べ、上目遣いで小首を傾げた。見た目が非凡な美少女の可愛らしい仕草に古典教師は思わず相好を崩したが、すぐにいかんいかんと表情を引き締めた。わりとお堅い人らしい。


「ああ、お前らに話があるんだが」

「お話、ですか? ……あ、ひょっとして、実行委員の許可を取らずに勝手に旧音楽室を使って演奏会をしたことのおとがめだったり……?」

「何? さっきのは無許可だったのか?」


 聞き捨てならないとばかりに眉間にシワを刻みながら、教師はスマイル全開の文奈を睨んだ。しまった墓穴を掘った、と内心で冷や汗をかきつつ、それを悟らせないように笑みを維持する。


「ええと、その、許可申請の書類は書いたんですけど、練習に没頭していてうっかり出し忘れてしまって。でも、練習したんだから予定通り演奏会はやろうと……」

「ああ、別にそれを咎めるつもりはない。どうせ使っていない部屋だったんだ。いい演奏を聴かせてもらったし、気にしなくていいぞ」

「そうですか。ありがとうございます」


 教師の言葉にほっと肩の力を抜いて、文奈は頭を下げた。見た目に反して案外融通の利く人なんだ、と警戒心を少しだけ緩める。


「それで先生、お話というのは?」

「おお、そうだった。さっき、市民楽団の代表という人から、お前ら二人を来月の音楽祭のゲストに招きたいという申し入れがあったんだが、どうする?」

「……はい? 市民楽団? 音楽祭?」


 耳慣れない単語の羅列に、文奈は作り笑いのままキョトンとしていた。

 そんな彼女を見て、教師もぽかんと口を開く。


「なんだ、川代かわしろ。芸術科で音楽を専攻していたのに知らんのか?」

「夏休みまでしか登校しておりませんでしたので」

「ああ、そうだったな……。音楽祭の時期は入院していたんだったか……すまん、悪かった」


 野生溢れる顔に似合わず申し訳なさそうに謝る教師に、文奈は気にしてませんからとフォローを入れて続きを促す。


「市民楽団は文字通り、有志のアマチュア演奏家が集まって結成されたオーケストラだ。アマチュアと言っても全国規模でファンがいるくらいのハイレベルな楽団だがな。その楽団が毎年十二月の初め頃に市民ホールで『市民音楽祭』と称してコンサートを開くんだよ。それには毎回、ウチの学校から優秀な演奏者がゲストとして招かれるんだが、今年はブラスバンドに加えてお前らもその候補に上がってるというわけだ」

「私と柊……樋川くんがですか? 芸術科でもないのに?」


 そう文奈が訊くと、「科は関係ないぞ」とジャージ熊は豪快に笑った。

 文奈のような芸術科の生徒が呼ばれることも珍しくなく、過去には音楽系の部活に入っている普通科の生徒が候補に挙がって参加したこともあるという。

 要するに、この高校に在籍していて楽団に技量を認められれば、学年や科、専攻や部活に関係なく――極端な話、普通科一年でアリの行列観察同好会所属でも、楽器演奏が上手く、楽団に認められれば招かれるということである。


「それで、お前らはどうする?」

「そうですね……」


 文奈はしばし黙考した。

 この誘いはまたとない機会であり、大勢の人の前でピアノを弾くという夢が叶う舞台である。

 個人的には是が非でも受けたいが、『お前ら』という二人での演奏を求められている以上は一人で決断するわけにはいかない。


「私一人で決められることではありませんので、樋川くんとよく相談してからということでいいでしょうか?」

「ああ、返事は今すぐじゃなくていいぞ。来週までに……」

「待つ必要はないですよ。ぜひやらせてください」


 と、いつの間にか復活していた柊二は言った。こめかみに流れる赤い何かは多分青春の汗である。


「いや樋川くん、そんな簡単に決めてええの? 文化祭のレベルやないんやで?」

「何言ってんだ。大勢の聴衆の前で弾くのがお前の夢なんだろ。この機会を逃したら、もうこんな大舞台はないかもしれないんだぞ」

「せやけど……今のままやったら多分……」

「下手すぎて鼻で笑われるだろうな。そうならないように死ぬ気で練習するさ、本番までみっちりと。もちろんお前と一緒にな」


 不安顔の文奈に対し、柊二は堂々とした表情をしていた。決意したその瞳に揺らぐ心は見えず、確固たる信念だけが強い光となって輝いている。


「素晴らしい! なんと気骨のあるおのこだ!」


 柊二の宣言にいたく感銘を受けた古典熊が涙ながらに拍手し、旧音楽室中が震えるようなだいおんじょうで叫んだ。筋骨隆々の大男なので泣いて感動されると暑苦しいことこの上ない。


「良く言ったぞ! それでこそ……えーっと、名前なんだっけ? ああ、そうそう、樋野ひのだったな。え? 樋川? まあいいや。ともかくそれでこそ漢だ! 楽団のほうへは俺から連絡しておくからな。死ぬ気で練習して、普通科の根性を存分に見せてやれ! この高校は芸術科だけで成り立っているわけじゃないと証明してやるんだ! 俺は全力で応援するぞ!」

「いやあの。先生は芸術科の担当ですよね? なぜ芸術科を敵視するような物言いを……」


 暑く(誤字にあらず)語る熊に柊二はおずおずと質問を一つ。

 熱血古典マッチョメンはそれについて、青竹を割るがごとくきっぱりと言った。


「あいつらはエリート気質で可愛げがないんだよ。普通科のバカさ加減が俺は好きだ」

「……それっていろいろ問題発言なんじゃあ……?」


 顔を引きつらせて唖然と立ち尽くし、心の声を思わず漏らした柊二。その袖をちょいちょいと引っ張り、


「ええねん。ほっとき」

「でも……」

「ええんや。これで、ええねん」


 と文奈が可哀想なものを見る目でゆっくりと頭を振った。

 柊二は薄茶色の瞳が語りかけてくる声無き言葉を理解し、それ以上教師に何も言わないでおこうと思った。

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