第6楽章
がちゃっ。ぎぃ。
「おおい、まだ残ってるかー」
『っ⁉』
お互いの唇が触れるその瞬間、何の前触れもなく入口のドアが開き、無意味にデカい声の男性教師が無遠慮に旧音楽室に入ってきた。
いつもジャージ姿で
ついでに言うと、学生時代は古典音楽研究部という珍しい部の所属で音楽に造詣が深いらしく、先ほどの二人の演奏会にも顔を出していた。まったくもって似合わない。
「ぬあっ⁉」
入口に背を向けていた柊二は誰かの声に振り返る暇もなく身体を押され、抵抗すらできずに後ろに傾いだ。
反射的に体勢を立て直そうと身体を反転させたまではよかったが、視界いっぱいに迫り来るピアノを避けることはできずに思いっきり額を強打し、「ぴぎゅ」とその口から漏れた気持ちの悪い悲鳴とともに地に臥した。ぶつけた振動で弦が共鳴したのか、わぁん、とピアノが
「……何やってるんだ? お前ら?」
「次の文化祭では二人で演劇でもしてみようかと思いまして、さっそくその練習を。ところで何かご用でしょうか、先生?」
怪訝そうに訊く教師に文奈は悩殺営業スマイルでウソ八百を並べ、上目遣いで小首を傾げた。見た目が非凡な美少女の可愛らしい仕草に古典教師は思わず相好を崩したが、すぐにいかんいかんと表情を引き締めた。わりとお堅い人らしい。
「ああ、お前らに話があるんだが」
「お話、ですか? ……あ、ひょっとして、実行委員の許可を取らずに勝手に旧音楽室を使って演奏会をしたことのお咎めだったり……?」
「何? さっきのは無許可だったのか?」
聞き捨てならないとばかりに眉間にシワを刻みながら、教師はスマイル全開の文奈を睨んだ。しまった墓穴を掘った、と内心で冷や汗をかきつつ、それを悟らせないように笑みを維持する。
「ええと、その、許可申請の書類は書いたんですけど、練習に没頭していてうっかり出し忘れてしまって。でも、練習したんだから予定通り演奏会はやろうと……」
「ああ、別にそれを咎めるつもりはない。どうせ使っていない部屋だったんだ。いい演奏を聴かせてもらったし、気にしなくていいぞ」
「そうですか。ありがとうございます」
教師の言葉にほっと肩の力を抜いて、文奈は頭を下げた。見た目に反して案外融通の利く人なんだ、と警戒心を少しだけ緩める。
「それで先生、お話というのは?」
「おお、そうだった。さっき、市民楽団の代表という人から、お前ら二人を来月の音楽祭のゲストに招きたいという申し入れがあったんだが、どうする?」
「……はい? 市民楽団? 音楽祭?」
耳慣れない単語の羅列に、文奈は作り笑いのままキョトンとしていた。そんな彼女を見て、教師もぽかんと口を開く。
「なんだ、
「半年余りしか登校しておりませんでしたので」
「ああ、そうだったな。音楽祭の時期は入院していたんだったか……すまん、悪かった」
野生溢れる顔に似合わず申し訳なさそうに謝る教師に、気にしてませんからとフォローを入れて続きを促す。
「市民楽団は文字通り、有志のアマチュア演奏家が集まって結成されたオーケストラだ。アマチュアと言っても全国規模でファンがいるくらいのハイレベルな楽団だがな。その楽団が毎年十二月の初め頃に市民ホールで『市民音楽祭』と称してコンサートを開くんだよ。それには毎回、ウチの学校から優秀な演奏者がゲストとして招かれるんだが、今年はブラスに加えてお前らもその候補に上がってるというわけだ」
「私と柊……樋川くんがですか? 芸術科でもないのに?」
そう文奈が訊くと、「科は関係ないぞ」とジャージ熊は豪快に笑った。文奈のような元芸術科の生徒が呼ばれることも珍しくなく、過去には音楽系の部活に入っている普通科の生徒が候補に挙がって参加したこともあるという。要するに、この高校に在籍していて楽団に技量を認められれば、学年や科、専攻や部活に関係なく――極端な話、普通科一年でアリの行列観察同好会所属でも、楽器演奏が上手く、楽団に認められれば招かれるということである。
「それで、お前らはどうする?」
「そうですね……」
文奈はしばし黙考した。この誘いはまたとない機会であり、大勢の人の前でピアノを弾くという夢が叶う舞台である。個人的には是が非でも受けたいが、『お前ら』という二人での演奏を求められている以上は一人で決断するわけにはいかない。
「私一人で決められることではありませんので、樋川くんとよく相談してからということでいいでしょうか?」
「ああ、返事は今すぐじゃなくていいぞ。来週までに……」
「待つ必要はないですよ。ぜひやらせてください」
と、いつの間にか復活していた柊二は言った。こめかみに流れる赤い何かは多分青春の汗である。
「いや樋川くん、そんな簡単に決めてええの? 文化祭のレベルやないんやで?」
「何言ってんだ。大勢の聴衆の前で弾くのがお前の夢なんだろ。この機会を逃したら、もうこんな大舞台はないかもしれないんだぞ」
「せやけど……今のままやったら多分……」
「下手すぎて鼻で笑われるだろうな。そうならないように死ぬ気で練習するさ、本番までみっちりと。もちろんお前と一緒にな」
不安顔の文奈に対し、柊二は堂々とした表情をしていた。決意したその瞳に揺らぐ心は見えず、確固たる信念だけが強い光となって輝いている。
「素晴らしい! なんと気骨のある
柊二の宣言にいたく感銘を受けた古典熊が涙ながらに拍手し、旧音楽室中が震えるような大音声で叫んだ。筋骨隆々の大男なので泣いて感動されると暑苦しいことこの上ない。
「良く言ったぞ! それでこそ……えーっと、名前なんだっけ? ああ、そうそう、
「いやあの。先生は芸術科の担当ですよね? なぜ芸術科を敵視するような物言いを……」
暑く(誤字に
「あいつらはエリート気質で可愛げがないんだよ。普通科のバカさ加減が俺は好きだ」
「……それっていろいろ問題発言なんじゃあ……?」
顔を引きつらせて唖然と立ち尽くし、心の声を思わず漏らした柊二。その袖をちょいちょいと引っ張り、
「ええねん。ほっとき」
「でも……」
「ええんや。これで、ええねん」
と文奈が可哀想なものを見る目でゆっくりと頭を振った。
柊二は薄茶色の瞳が語りかけてくる声無き言葉を理解し、それ以上教師に何も言わないでおこうと思った。
二人が旧音楽室を出たときにはもうすでに辺りは暗く、針金のような細く白い三日月が黒い空の雲間にその姿を刻んでいた。濃い灰色の雲が多いせいか、星はほとんどなく、昼間の快晴がウソのように寒々しく見えた。実際、日暮れとともに昼間の暖気が急激に失われ、肌を撫でる風も冷たくなっていた。ひょっとしたら明日か明後日は雨になるかもな、と柊二は思った。
「さすがにこの時期は日が暮れると寒くなるな。大丈夫か?」
「うん。さっきの熱がまだ残ってるから」
「さっき……」
何気ない文奈の一言で、柊二の顔が真っ赤になって蒸気爆発を起こした。自分がそうしたいと思ってしたことだし、文奈もそれを望んでくれたし、あの雰囲気ではそうなってもおかしくない。そう、自然な流れだ――と自身に言い訳するが、それでも度を超えた赤面は当分おさまりそうになかった。今が夜でよかった、文奈に見られなくて済む、と心底思う柊二であった。
後片付けで残っている生徒がまだいるらしく、ちらほらと本校舎の教室に明かりが灯っている。それらを横目に、二人は言葉を交わすことなく、ただ寄り添って歩いていた。
「祭りのあと、か……」
ぽつり、と柊二が呟く。
昼間、文化祭の最中はグラウンドにも校舎にも人が溢れ返っていたのに、終わってしまうとそれが一気に消えてしまう。人の密度とともに祭りの達成感と高揚感が薄れていくようで、少し寂しい気がした。
「まだ、私らの祭りは終わってへんよ」
柊二の
「そうだったな。明日からまた練習しないと」
「今度はミスしたらアカンからなー。ビシバシ鍛えるで」
「おうよ。耐えてみせるぜ」
ごまかすように大袈裟な仕草で天に拳を突き上げ、口の端を吊り上げてニヤリと笑う。その様子がおかしくて、「なにそれ、世紀末覇者のマネ? 悔いなしにはまだ早いで?」と文奈は大笑いした。
打ち上げをしているらしい十数人の男女の笑い声が響く学食に立ち寄り、二人は温かいココアを一つだけ買って学校を出た。半分ずつ分けて飲んだココアが人生の中で一番美味しく思えて、文奈の顔に自然と笑みがこぼれた。それを嬉しそうに柊二が見ている。
どちらが言い出したわけでもなく、ごく自然に手を繋いで、道路に落ちる街灯の白い輪をいくつもいくつもくぐった。ずっと二人は無言のままだったが、今は一緒にいてお互いの手の温もりが感じられる、ただそれだけでよかった。
駅の明かりが見え始め、淡い光のカーテンにぼんやりと包まれた改札口が近づくと、遠くから電車の車輪がレールに軋む音が響いてきた。
「じゃ、また明日……は代休やね。明後日の放課後に」
「おう」
繋いだ手を解き、照れくさそうに笑んだ文奈は、小さくぱたぱたと手を振りながら改札を通った。そのタイミングを計ったようにホームに電車が滑り込んでくる。ラッシュの時間も過ぎて空席だらけになっている車両に乗り込み、ドアのそばに立って、まだ改札の向こうにいる柊二を見た。今までは改札を通った時点でさっさと帰ってしまう柊二が、今日はじっと自分を見送ってくれている。そのことに妙な恥ずかしさを感じて、ドアが閉まると同時にそれをごまかすように顔の前で手を振った。すると、ゆっくりと後ろに流れていく柊二が少し視線をそらしながらそれに応えたので、文奈は思わず噴き出してしまった。今まで手を振ってくれたことなんてなかったのに、あんな可愛いことをするようになったかと思うと笑わずにはいられなかったのだ。駅舎に遮られて見えなくなる寸前、柊二の顔が怒りに変わるのがわかって、次に会ったら開口一番に文句を言われるんだろうなと思った。しかし、なぜか今はそれが嬉しくて、心が弾むのを止められなかった。
窓の外に溢れる色とりどりの照明と夜の黒が矢のように後ろへ飛んでいく。それをぼんやりと眺める文奈の顔が、窓ガラスにうっすらと映っていた。
「……ぅぁ」
どうやら気づかないうちに思い切りニヤけていたらしく、慌てて真顔を作った。自分はこんなにもオトメだったかと自問してしまうくらい、だらしなく緩みきった表情だった。好きな人に自分の気持ちを受け入れてもらい、好きだと言ってもらえたのだから致し方ないのだろうが。
ふとそのときのことを思い出して、無意識に指で唇をなぞる。
「…………」
そこで――気づいた。
感触は鮮明に覚えているのに、そのとき感じた温度をまったく思い出せなかった。緊張で暴走気味だった早鐘を打つような胸の鼓動も、彼に触れられて灼けるような熱さを感じたこともはっきりと覚えているのに、柊二の温かさだけが綺麗さっぱり感覚から抜け落ちていた。記憶だけが残って、肝心なものが消滅している――夢でも見ていたのかと錯覚するほどの違和感。
(なんやの? この感じ……)
妙な焦燥が湧き上がってくる。ザラザラした何かが意識の中で蠢いて、不快で嫌な感じがどんどん広がって背筋が冷えていく。
(なんか……怖い……)
「柊二……」
文奈は無意識にその名を呟いていた。ガラスに映る自分の瞳は薄茶色ではなく闇と同じ色をしていて、見つめていると無明の底へ引きずられて落ちていくような気がした。ちょうど、ピアノの天板を覗き込んだときと、まったく同じ感覚。
柊二……ともう一度名を呼び、目を閉じた。
そこに浮かぶのは、大切で愛しい人。自分を好きでいてくれる人。
その人が真面目な表情で、大丈夫、と力強くうなずいてくれた。それだけで胸の奥が温かくなり、全身にその熱が広がっていった。
なんや……温度、思い出せるやんか……と文奈は安堵した。あまりにも嬉しいことがありすぎて、少しばかり不安になっていただけなのだと、騒ぐ気持ちを落ち着かせた。
降りる駅に近づき、数少ない乗客の何人かが慌しく席を立ち始める。電車はゆっくりと減速し、車窓の向こうを流れる光の川が緩やかになっていった。少しずつ速度が落ちて、耳障りな金属音が足元から響く。もうすぐ停車だな、と思ったところで唐突に車両がガクンと揺れた。文奈は少しよろけて倒れそうになり、慌てて手摺に掴まって体勢を立て直す。三日に一度くらいのサイクルで停車がヘタクソな運転士に当たるので、常日頃から急制動に備えているつもりだったが、今日は考え事をしていたせいかすっかり油断していた。
圧縮空気の音と共にドアが開き、黒く汚れたコンクリートのホームに降り立つ。暖かな車内から野ざらしの冷えた空気の中へ出て、全身を撫でまわすような冷たさに思わず身震いした。しかし、身体の反応とは逆に、不思議と寒いとは思わなかった。
先ほどまで意識を埋めていた不安感は急制動のショックでどこかに吹き飛んで、何を感じていたのかさえも思い出せなくなっていた。残っているのは、寒風でも冷ませない温かな気持ちだけ。今だけはヘタクソ運転士にちょっとだけ感謝しようと思った。
顔を上げると、朝の通学時に見かける名も知らない顔見知りのサラリーマンが猫背ぎみに出口へ向かって行くのが見えた。文奈はその後ろへ続き、改札をくぐる。
駅前は薄暗く、人通りも少なかった。反対側の出口の向こうは商店街や大通りが目の前に広がる賑やかな場所になるが、文奈の自宅はその正反対の方向にある住宅街の真ん中だった。そちらには商業施設がほとんどなく、いつも静かでひっそりとしていた。
家までの道は過剰なまでに街灯が設置されて明るく、健康のために夜間のウォーキングに励む主婦の団体や犬の散歩をする人が多い。夜でも明るく人通りがあるというのは安心できるよね、などと考えつつ、曇って月も隠れてしまった面白みのない暗い空を見上げ、帰路をゆっくりと歩いた。早く帰って空腹を満たしたいところだが、あまり早足になると少し下腹の辺りが痛むのでいつもよりスローペースでしか歩けない。歌うときに気合を入れすぎて、おなか周りの筋肉が悲鳴を上げたのだろう。
普段より時間をかけた帰り道の先に見えた自宅の門をくぐり、玄関のドアを開けた。引っ越してきて一年半になるが、未だにレバー式のドアノブには馴染めずにいる。握ってぐりっと回すノブのほうがなんとなく好きなのに、と内心で文句を言うのがクセになっていた。
「ただい……ま……?」
靴を脱ごうとうつむき、妙に足元が暗い気がしたので顔を上げると、そこには天井照明を背にした文奈の父が仁王立ちしていた。表情は逆光でよく見えなかったが、なんとなく怒っているような気配がした。
「ど……どうしたん? お父さん」
「おかえり文奈。ところで少し話がある。着替えたらすぐにリビングに来なさい」
「うん、わかった」
父の声色は普段と変わらない。しかし気配は明らかに違っていた。
(……私、なんかしたかな……? いや、やらかしたけども、バレてるはずないし……)
そんなことを思いつつ、言われたとおり自室で着替えてリビングに向かった。
「う……」
一歩踏み込んだところで、異様な雰囲気に思わずうめき声が漏れる。
いつもは家電量販店の店員の口車に乗せられて購入した大型のテレビから、それほど面白くないバラエティ番組の賑やかな音声が垂れ流されているが、今日のリビングはそれが沈黙しているせいで不気味に静まり返っていた。
それだけではない。
父と母がきちんとソファに座り、押し黙ったまま文奈を待っていた。これから説教タイム開始という張り詰めた空気が部屋中に満ち満ちている。文奈は毎日見ているはずの部屋にもかかわらず、他人の家に居るような錯覚を起こした。
「そこへ座って」
いつも能天気で鬱陶しいくらいにテンション高めの母からは想像できない無感情な声。その静けさが言いようもなく恐ろしい。文奈は素直に両親と対面するソファに畏まって腰掛けた。
父は父で、今まで見たことがない真剣な表情をしていた。両親の様子に気圧され、ヒリヒリと干上がるように喉が渇いていく。
電車の中での嫌な予感はこれか、と文奈は思った。
文化祭から二日が過ぎた。
しかし。
「あれ……?」
肝心の文奈が旧音楽室にいなかった。扉を開けた瞬間、室内に溜まった温い空気が全身を撫でて行き、停止しているエアコンが彼女の不在を知らせてくれた。
学食にでも行っているのだろうか、とそんなことを思いつつ、待っていればそのうち来るだろうと恒例の指慣らしを始める。
「遅いな……」
手持ち無沙汰でルーティンを二周したところで時計を見ると、旧音楽室に来てからすでに三十分が過ぎていた。
「……まさかとは思うけど」
ふと思い当たって室内をぐるりと見て回る。ひょっとしたら文奈が留守にしているのではなく、机の陰で爆睡して起きてこないのかと思ったからだ。部屋に熱がこもると言っても、酷い残暑だった九月とは違い、今はエアコンなしでも十分昼寝ができる程度の室温である。まして今日は降り続く雨のせいでそれほど気温も高くない。エアコンが動いていないから文奈がいないと考えるのは早計だった。
「…………」
だが、探し人は部屋の中にいなかった。いつも彼女が寝床にしている長椅子には、枕にしているアニメキャラがプリントされたクッションがぽつんと置いてあるだけだった。触れてみてもひんやりとした感触があるのみで、体温の欠片すらなかった。
「まぁ、そのうち来るだろ……」
なんとなく文奈のクッションを手に取って、真上に放り投げてはキャッチするという無意味な行為を繰り返しつつ持ち主が現れるのを待った。時折焦れたように入口のドアを開けて校舎のほうを眺め見るが、グラウンドに人影はなく、強まる雨が茶色の川を作っている以外に見えるものはなかった。
柊二はじっと、文奈を待つ。
しかし――この日、彼女が旧音楽室に来ることはなかった。
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