第2楽章 第1節

 翌日も、やはり柊二しゅうじは放課後に旧音楽室へ向かった。

 厳しい残暑で相変わらず気温は高く、よく晴れていたせいで間違いなく部屋は暑いだろう。それを思うと少し憂鬱になるが、家に帰って母や妹と顔を合わせ、嫌な思い出しかないピアノの音を聞いているよりはずっとマシだった。

 どこかからの反射光で少し熱を持ったドアに鍵を差し込み、ロックを解除してノブを引き、観音開きの重い防音ドアを開ける。


「…………」


 さぁっ、と冷えた空気が流れ出てきた。昨日と同じくエアコンが作動しているらしく、室内は快適温度になっていて、じっとりと汗が滲む肌をさらさらと撫でていった。

 柊二はその心地よさに表情を緩め……たりはせず、この世のものとは思えないほどの苦虫を十匹ほど一口で噛み潰して味わいつくしたようなしかめ面をしていた。


「いらっしゃいませぇ、何名様ですかぁ?」


 どこから調達したのか、やたら無意味に輝くしんちゅうお盆トレイ(よく見るとお盆ではなくシンバルだった)を手にした営業スマイル全開のふみが戸口に立っていた。しかもギリギリまで腰のところで巻き上げた制服のスカートと、ハンカチを加工してフリルに見立てたヘッドドレスの仮装付きで。


「何やってんだ……川代かわしろ……」


 ファミリーレストランの店員のようなセリフで出迎えられ、柊二は今にも下着が見えそうなミニスカートから視線をそらし、その実しっかり扇情的な太ももを横目で見つつ、彼女のギャグに乗ってやるべきかどうかを迷い、しばし後に果てしなく冷たいツッコミを敢行した。

 文奈は笑顔をひきつらせ、ギャグがスベったことに苦笑いした。そしてごまかすようにへらへらと緩んだ顔で、


「何って……ここ、私の寝室やし。ほら、エアコンも効いて快適やん?」


 悪びれもせずにそう言い切った。

 その身勝手な言い分に、柊二はキリキリとこめかみの辺りが痛むのを感じた。


「またサボったのか。授業を。つか、寝室にするなよ……」


 頭を振りながら呆れ果てたように脱力して肩を落とす。その手から部屋の鍵がスルリと抜け落ちて、チャリンと床に転がった。

 柊二はすぐにそれを拾って――ふと気づいた。


「そういえば川代、どうやってここに入ってるんだ? 普段は施錠されてるはずなんだが」

「ん? 私も鍵持ってるし。マスターキーを持ち出してコピーしたものやけどね」

「お前……それ……」

「まあまあ。ええやん細かいことは。そのおかげでがわくんも快適にピアノ弾けるんやし、感謝してくれてもええよ」

「しねえよ」


 とんだお嬢様だ……と顔を引きつらせて、お気楽にケラケラと笑う文奈を押しのけて部屋に入り、ピアノの前に座る。

 確かにサウナ状態が落ち着くまで何もする気が起きないという、ひたすらに無駄な時間を過ごさなくてもいいのはありがたい。

 だが、ここに来るのはあくまでであり、時間が惜しいわけではない。文奈の気遣いはありがたくはあるものの、心底感謝するほどでもなかった。


「せやけど、このカッコがウケへんかったのは意外やったなぁ……男子が喜ぶ鉄板ネタのはずなんやけど……」


 と独り言をこぼしつつ、文奈はヘッドドレスを外して巻き上げたスカートを戻し、開けっ放しの戸棚にシンバルを投げ込んで扉を閉めた。


「なぁ、樋川くん。あのオリジナル曲、文化祭でライブやってみたらどう?」


 閉めた戸棚からガタガタッと音がした(中で雪崩なだれを起こしている模様)が、それを聞かなかったことにして足早にピアノへ駆け寄った文奈は、唐突にとんでもないことを言い出した。


「は……?」


 ピアノのカバーを外し鍵盤の蓋を開け、準備万端さぁ指慣らしだ、というところで出された突拍子もない提案に固まる柊二。


「私は結構いけると思うんやけど。なんやったら、私、歌ってもええし」

「冗談言うな。あんな素人作曲のショボい一曲だけでライブなんかできるか。無理だ」

「んー、それもそうやなぁ……確かに一曲だけやったら寂しいなぁ……」


 あっさりと提案を却下して指慣らしを始めた柊二を見つめ、文奈は小首を傾げて沈黙した。諦めるのではなく、どうすればライブができるかを考えているというのは表情でわかる。


「じゃ、ピアノの演奏会も、ということで」

「断る」


 予想通りの提案を門前払いし、寝言は聞かないぞといわんばかりにウォーミングアップのペースを上げた。

 対する文奈も想定通りの反応に用意していた言葉を返す。


「演奏を聴かれるのが恥ずかしいから?」

「違う。まともに全部通して弾ける曲がオリジナルの他にないんだよ」


 小細工も何もなく、柊二は挑発に乗らず淡々と事実のみを告げた。

 彼が演奏前に弾いているのはあくまでも準備運動ゆびならしに適した運指のものであり、曲としては無茶苦茶なメロディになっている。スケールだのコードだのといった『曲の決まり事』を完全に無視した構成なのだ。

 もちろんずっと運指練習ばかりをやってきたわけではないが、母親のレッスンは部分的に抜き出した楽譜だったり母親のオリジナルだったりで、本格的な『曲』は何一つ身についていない。基礎固めの段階で成長が止まってしまい、その先へ進めないままにやめてしまったからだ。


「だから無理なんだよ。オーケー?」

「そうかー……」


 反論を受け、うーん、どうしたらええかなー、と文奈は呻いた。

 どうやら違うアイデアを模索しているらしく、諦めるという選択肢はないようだと気づいて、柊二はますます気が重くなった。平穏な放課後を過ごすため、何を言われても無理、却下、否決、と繰り返してやろうと心に決める。


「じゃあ連弾れんだんってことで。それやったら時間も少なくて済むんちゃうかな?」

「え? お前、弾けるのか?」


 意外な単語が飛び出してきたせいか、柊二は突っぱねることを忘れて思わず手を止め、訊き返していた。

 ちなみに『連弾』とは、一台のピアノを二人で弾く演奏法のことである。


「弾けんかったら言わへんて」


 文奈は、ちっちっち、とキザな笑みを浮かべて人差し指を振る。その仕草がお嬢様を思わせる見た目に似合わず、おかしなギャップに柊二は眉根を寄せた。


「まあ、聴いて驚け」


 怪訝そうな柊二に微笑みかけ、自信たっぷりに一言。そして「ちょっとごめんよー」と柊二を押しのけて椅子に座り、右手を鍵盤に乗せた。

 小さく息を吐き、今までへらへらしていたとは思えないほど真面目な表情で手元に視線を落とし、細い指を白黒の舞台に走らせ――


「ッ⁉」


 柊二はその手が奏でる旋律を聴いて、驚きのあまり絶句した。

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