二つの半分が奏でる音色

南村知深

第1楽章

 校舎や体育館から少し離れた校庭の片隅に、教室一つ半程度の大きさの建物がポツンと佇んでいる。一見すると体育倉庫のようではあるが、防音工事されたそれは音楽室である。

 普通科と芸術科を合わせて千五百人以上が一堂に会する私立高校だけあって、そこここに生徒や教職員が溢れかえっているが、この音楽室だけはいつも人気ひとけがなく寂れていた。というのも、十数年前に体育館横の旧校舎を取り壊した跡地に講堂と文化系部室棟が新たに建設され、音楽室を部室として使用していた吹奏楽部が新部室へ移動し、芸術科の音楽関連の授業も大半が講堂で行われるようになったのがその原因である。普通科の生徒が音楽の選択授業を行うのも講堂内の新音楽室になったため、旧音楽室はほぼ人が寄り付かない場所になった。

 それを狙ってか、放課後になると毎日のように一人の生徒がやってくる。

 樋川ひがわ柊二しゅうじ。普通科の二年で、見た目も中身も特筆すべき点が見当たらない、強いて言えばピアノが少し弾けるというだけの、ごくありふれた男子生徒だ。芸術科でも吹奏楽部でもない彼だが、ほとんど使われなくなった旧音楽室に置かれているグランドピアノを独占し、それを弾くことを日課にしていた。

 今日も放課後になってしばらくすると、柊二はいつものように旧音楽室にやってきた。まるで自室に戻ってきたかのような無造作さで錠を外し、防音ドアを開ける。鍵は毎日職員室に借りに行っているうちに、音楽教諭から「スペアを持ってていいよ」と言われたものだ。

「……?」

 九月になっても衰えない残暑の猛威に蒸された重いドアを開けた瞬間、隙間からひんやりとした空気が漏れ出し、汗ばんだ頬をさらりと撫でた。いつもなら日中に溜め込まれた蒸しつく熱気に襲われて顔をしかめるのだが、流れ出した空気は感嘆のため息が出るほど心地よく冷えていた。

 しかし、その快適な環境を前に柊二は訝しげに眉根を寄せた。

 エアコン完備の部屋であるにも関わらず夏場に人が寄り付かないのは、ひとえに『暑い』を通り越して『熱い』からだ。日当たりが良すぎる立地と防音工事による壁の厚さが原因で室内に熱がこもりやすく、エアコンと換気扇を全開で動かしても室内全体が快適温度になるまで数十分を要する。部屋の使用頻度が高ければ放課後でもそれほど熱が残ることはないだろうが、まったく使われない閉め切った部屋に蓄積される熱気は、どこかに漏れ出ることも冷まされることもなく、日中はもちろん深夜まで残ってしまうこともあるのだ。そんなサウナ状態が当たり前では楽器の管理上好ましくない、との理由で適切な環境を整えた講堂が建設されたわけだが――そういう経緯で放置されるようになった部屋から冷気が流れ出すことが異様で、歓迎すべき快適な室内環境に対して眉間にシワを刻む柊二の態度も納得がいくというものである。

「誰かいるのか……?」

 戸口に立ったまま遠慮がちに声をかける。しかし薄暗い室内に人影はなく、整然と並んだ机と椅子が明かり取りの小窓から射し込むあえかな陽光で床に薄く縞模様を作っているだけだった。

 壁にはずらりと並べて貼られた音楽家の肖像写真がいくつもあり、戸口に近い右手側にグランドピアノが鎮座している。片付け忘れたらしい譜面台がピアノの奥、右手壁際に一つだけ置いてあるが、楽譜もなければそれを使用している者の姿もなかった。

 いつもとなんら変わりない部屋だった。ただ一点、エアコンが全開で作動していることを除けば。

「またか……」

 柊二はひとりごちて部屋に入り、室内をぐるりと見回してから明かりを点けてピアノの前に座った。

 以前にも数回、特に暑い日にこうして無人の部屋で空調だけが作動していることがあった。初めは誰かが部屋を使うのだろうと思って入るのを遠慮していたが、同じようなことが何度も続くうちに誰も来ないとわかった。よしんば誰かが来ても、柊二はこの高校の生徒だから音楽室を使っていても文句は言われないし、邪魔なら出て行けば済むことである。そう考えるうちに、今ではエアコンが動いていても無人であれば気にしなくなった。

 ピアノに掛けられたカバーを外して鍵盤の蓋を開け、椅子の高さを調整(柊二しか使わないので高さはいつも同じだが)してから大きく深呼吸を一回。続いて指慣らしのための簡単な練習曲をさらっと流した。放置してある部屋ではあるが、調律だけは定期的にきちんとされているようで、和音の響きに耳障りな音は混じらない。もっとも、天板を閉じたままで演奏している柊二には少々の音のズレや違いはわからないし、それを気にしていないのだが。

 柊二がピアノを始めたのは小学校に入ってすぐで、中学に上がる少し前にやめた。実力は素人よりは上手く、プロから見ればヒヨッ子同然という程度の半端なものだった。

「よし、快調快調」

 ルーティンワークとなった数分間のウォームアップを終え、最近覚えた曲を弾き始めた。

 リズムは至って単調で、楽譜を覚えて機械的に弾けば誰にでも最後まで通して弾けそうな曲である。だがそこに、感情――抑揚や強弱をつけるとなると途端に難しくなる。シンプルゆえに表現力を出すのが難しいという、奏者の技術次第で良くも悪くもなる曲だった。

 左右の手のタイミングをずらさずに、音の強弱や微妙なタメを盛り込んでいく。

「っ……」

 途中で左手が少し遅れた。

 だが演奏を止めずに続ける。覚えたての今は、個々の細かい修正よりも、最後まで通して弾いて曲全体の流れを覚えることを重視しているからだ。

 そうしたいくつかのミスを自覚しつつ最後まで弾き終え、音の余韻を残さないようにミュートをかける。一人でいると妙に広く感じる旧音楽室に響いていた音色がふっつりと切れ、静寂を取り戻した。

 一息ついて肩の力を抜き、二、三度深呼吸してから、また初めから鍵盤に指を走らせた。いくつものタイミングずれや弾き間違いをするも、それは気に留めない。

「……ま、こんなもんだな。上出来だろ」

 同じ曲を三度通して弾き、同じ場所で同じミスをしていながら甘い自己評価を下した。締め切りやテストのある課題をやっているわけでもないし、完璧に弾けるまで必死になって練習しなくてもいいじゃないかという気楽な構えだ。

「次は……」

 少し休んでから、今度は先ほどとは違う曲を弾き始める。

 柊二が中学二年のときに作曲したオリジナルバラードで、もともとはロックバンドをしていた友人に頼まれて書いた曲である。しかし、メロディが単調すぎてロックじゃないとのクレームがついて採用を見送られた。柊二としては強めのディストーションギターとハードなドラム、ベースの重低音を生かせば良い曲になると思っていたが、友人との感性の違いで表舞台に出ることなくお蔵入りになったのだ。

 作った当時は、『秋の夕暮れ』をイメージしてメランコリックで泣ける情景をハードな音で歌い上げる――というものを想像していたが、ここに通うようになって改めて弾いてみると、確かにメロディラインが単調で面白みがなかった。そこで暇つぶしがてらにアレンジを加え、それなりに聴ける曲に仕上げた。今では普通のピアノなりアコースティックギターなりで弾き語りするのにちょうどいい感じにできたと柊二は自賛している。

 先ほどの曲とは違い、自身のイメージを曲にしただけあって、意識しなくとも自然と演奏に感情が入る。思い描いた情景が旋律に乗って閉じた瞼の裏に浮かび、さながらBGM付きの動画のように流れていった。歌詞をつけていないおかげか、言葉に縛られることなく自由なイメージがどんどん膨らんでいく。

 と、そこに。


  遠い夕焼け

  舞い散る木の葉

  秋の歩道を駆けて行く

  優しく 切ない風


 詞を綴った歌が聞こえてきた。

 静かな清流の河水のごとく、どこまでも透き通る女性の歌声。高く、低く、穏やかに、流れるように詞が紡がれていく。そうなることが当たり前とばかりにピアノの旋律と融合した歌声に聞き入りながら、柊二は鍵盤に指を走らせた。作曲時に彼がイメージした世界がそのまま歌詞になり、情景となって意識を駆け抜けた。

 が。

「え……?」

 歌が聞こえる事の異様さにふと気づき、演奏する手を止めて辺りを見回した。低い残響が部屋の空気に伸び、歌声もそれに倣うように薄れて消える。

「誰か……いるのか?」

 柊二はかすれるような声で誰何すいかした。返事はなかったが、歌が聞こえてきた以上は誰かが部屋にいるのは間違いない。ゆっくりと立ち上がり、一歩足を踏み出す。

「なんや……もう終わりなん?」

 二歩目が床に着くその寸前、並んだ机のほうから先程の歌声より少し低い声がした。そちらに目を向けると、机の陰から女子生徒がむくりと身を起こし、肩にかかる少し茶色がかった髪が乱れるのも気にせず後頭部をぽりぽりと掻いて、遠慮なく大きなアクビをした。まさに『寝起き』といった様子で眠そうな目をこすって、ピアノの横に立つ柊二に目を向けた。

 柊二にはその顔に見覚えがなかった。

「君、誰……?」

 思わずそう呟くと、女子生徒はやれやれと肩をすくめる。

「そういう君は誰やねん。他人に名前を訊くときは先に名乗るんが礼儀やで?」

 ニヤリ、と意地悪そうに笑って関西弁で問い返した。柊二はその静かな迫力に圧され、

「樋川柊二。二年……です」

 意思とは関係なく、勝手に自己紹介が口から漏れた。その素直な態度がお気に召したらしく、女子生徒は満足げにうなずいて肩口の髪を手で払い、名乗り返した。

「私は二年の川代かわしろ文奈ふみな。見ての通りのじょしこーせー」

 冗談めかしてニヤニヤしつつ、文奈は席を立ってピアノのそばまでやってきた。

 華奢というより痩せて見えるその肢体は病的に蒼白く、今にもパタンと倒れて天に召されそうな印象だった。しかし、背中に羽が生えて飛び回りそうなほどに生き生きとした仕草と、健康そのものを体現するかのような元気一杯の笑みを浮かべているせいか、身体が弱いのか強いのか良くわからない感じだった。

「さっきの、ええ曲やね。オリジナルやろ?」

 ひょいと柊二の顔をのぞき込み、微笑みながら訊いた。物怖じしない人懐っこい表情のせいか、柊二はそれほど警戒心を持たなかった。同じ二年生だということもあるかもしれない。

「ああ、まぁ」

 と曖昧に答えてまじまじと笑顔を見つめ返し、なんとなく答えがわかっているが訊かずにはいられない疑問を口にした。

「で、君は何であんなところに……?」

「ん? ああ、朝から授業サボってここで昼寝してた」

 ほぼ想像どおりの回答が返ってきた。

 蒸した部屋が冷えるまで時間がかかるとは言え、冷えてしまえば誰も来ない静かで快適な部屋になるので、なるほど昼寝にはうってつけである。

 うってつけではあるが、出席日数や遅刻の回数などが成績や内申に少なくない影響を及ぼすこの高校で、実際に授業をサボってまで昼寝を敢行する者は非常に珍しいと言える。柊二が奇異の目で見るのも至極当然だった。

「さっきからじっと見つめてくれちゃってるけど、私の顔に何かついてる?」

「いや、別に……その、よだれの跡が」

「え、ウソ、カッコ悪ッ」

 言われて文奈はスカートのポケットからハンカチを取り出し、照れ笑いしながらゴシゴシと頬を拭いた。しかしいくら拭いてもよだれを拭い取ることはできない。

 当然である。柊二は惹き込まれるような瞳に見つめられているのが恥ずかしくて、それをごまかすために適当なことを言ってしまったに過ぎないのだから。

 文奈の顔立ちは非常に整っていて、おっとりした感じの目から薄い茶色の瞳が覗いている。すっと通った鼻筋と桜色の薄い唇は、白磁器の艶を思わせる滑らかで白い肌に映え、さながらビスクドールのように見る者を惹きつけていた。上品さを感じる恥ずかしそうな照れ笑いが、警戒しながらも構ってもらおうとする子犬のようで、そのいじらしい雰囲気は周りの者を自然と笑顔にする力を秘めているようだった。

 だが、どういうわけか柊二はこの娘に対して妙な違和感を覚え、しかめ面をしていた。

「……? まだよだれの跡ついてる?」

「え? あ、いや、取れたよ」

 無意識のうちに文奈を見つめていたらしく、慌てて目をそらして答えた。なんや、変なの、と文奈が怪訝そうな表情で呟く。

(あー、そういうことか……)

 そこで柊二は違和感の正体に気づいた。

 のだ。

 外見から来るイメージと、彼女が話す関西弁が柊二の脳内の同じ場所に存在せず、別空間にバラバラに置かれているような感じだった。

 文奈の顔を見て真っ先にイメージしたのは『深窓で読書をしていそうなお嬢様』だった。それに付随する『物腰柔らかで控えめな言葉遣い』という思い込みが先行してしまい、関西弁と屈託のない子供のような仕草とのギャップを生み出した。そんなことを思うのは偏見に満ちていて大変失礼だが、思ってしまったものは仕方がない。もちろんそれを口に出してしまうと本気で失礼なので、心のうちに秘めておく。

「ところで。さっきの曲、もう一回弾いてくれへんかなぁ?」

 そんなイメージギャップの苦悩など知る由もなく、文奈は初対面の相手にも臆せず、馴染みの友人にするようにあっけらかんとリクエストしてきた。その一言で現実に戻ってきた柊二は、言われたことを理解するのに少し時間を要した。

「え? さっきの曲って……オリジナルか?」

ちゃう。その前の『ふたつのはんぶん』のこと言うてんの」

「ああ、そっちか。いいけど……」

 あまり知られていない曲名をてらいなく挙げた文奈に一瞬驚きの表情を向け、期待に満ちた視線を返された柊二は、しぶしぶ鍵盤に指を走らせた。まだ練習中で音符を追うのが精一杯だが、テンポを落としてそれっぽく弾けばそれなりに聴こえる。それで十分だろう――そう思ってさほど気を入れずにさらっと流すと、なぜかいつもよりミスが少なくなるというラッキーな演奏になった。ただ、そんな演奏なのでクオリティはグッと落ちている。

 曲自体は奏者のアレンジやテンポによって差はあるが、おおよそ三分程度で弾き終わる短いものだ。ゆっくりでしか弾けない柊二でも三分半とかからない。

「……これでいいか?」

 ふう、と目一杯頑張って弾きましたアピールで大袈裟に息をつく。ピアノにもたれ掛かるように手を組んで、その上に顎を乗せていた文奈は、目を閉じたまま感想を口にした。

「全ッ然アカンわ。練習が足らんのと違う?」

 その言葉に心底遠慮などなかった。そして、はぁぁぁぁ、と盛大にため息をつく。

「六か所ほどミスしてるし、手抜きしたやろ? 私の耳は騙されへんで」

「……っ!」

 演奏を完全否定された上に手抜き呼ばわりされ、柊二は頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。確かにミスをしているし若干手抜きもしたが、それをはっきりと聴き分けて指摘されるのはまったくの予想外だった。そして小さい頃に、わかりっこないとタカをくくって手抜きして、当時自分のピアノ指導をしていた母親から同じように怒られた事を思い出して、言いようもなく腹が立った。

「俺はプロじゃねぇ。ミスもするし手抜きも俺の勝手だ。違うか?」

「アカン。そんなん許されへん。芸術科の生徒にはそういう手抜きは致命傷やねんで」

 びっ、と反論を封殺するように柊二を指さし、文奈は眉根を寄せた。どうやら柊二を芸術科の生徒と勘違いしているらしい。いやいや、と手を振って否定する。

「待て。俺は普通科だっつーの」

 勘違いを訂正すると、さらに文奈の眉間に五本ほどシワが増えた。

「はぁ? そんだけピアノが弾けて普通科? 願書出すとき間違えたんちゃうの?」

「間違えるかっ! 間違いなく普通科だよ! 選択授業も美術だ!」

 叩き返すように声を荒げると、文奈は再び深く深くため息をついた。笑っているような呆れているような、奇妙な表情をしていた。

「じゃあなんでピアノ弾いてんの? わざわざ放課後に、ここで」

「知るか。ただの暇つぶしだ。嫌いなんだよ、ピアノは」

 単純な疑問に対して、柊二は吐き捨てるように言い放った。苛立ちのせいか、自分で矛盾したことを言っていることには気づいていない。

 その途端に文奈の瞳が色を失い、表情が曇った。そう答えられることを予測していながら、それを聞きたくなかったとばかりに顔を伏せる。

「な、なんだよ。文句あるのか」

 突然のしょげっぷりに慌てた柊二だが、若さゆえに張った虚勢をすぐに引っ込めることもできずに中途半端な強がりを返してしまった。

「もったいない……」

 それを笑うでも恐れるでもなく、文奈はぽつりとそう呟いて、それきり黙ってしまった。ピアノが嫌いだと言われることが、まるで自分自身を否定されたかのように悲しい……と彼女の表情は語っていた。

 柊二は少し気まずくなって思わずうつむいた。目の前に並ぶ白と黒の鍵盤が、天井の蛍光灯の光を照り返して鈍く輝いている。かなり使い込まれているピアノらしく、鍵盤に光沢はあまりない。そのくせ本体表面は黒い鏡のようにピカピカで新品のようだった。古いピアノだが手入れだけはきちんと施されている、ということが素人目にもわかる状態だ。

「…………」

 その黒い鏡に映る文奈の影が動き、すっ、と柊二の横手から伸びた左手の指が、


 ポーン


 と黒鍵を一つ押した。無意味に柊二がサステインペダルを踏んでいたので、その音は長い余韻を響かせた。それが耳に届かなくなったところで、文奈がもう一度同じ鍵を強く叩いた。先ほどより大きく長い音が、突き抜けるように耳朶を震わせ耳の奥に響く。

 そのとき柊二は、彼女の人差し指と中指に大きな傷痕があることに気づいた。かなり深い傷だったらしく、手術の縫合跡がくっきりと残っている。ガラス細工のような繊細で白い指に残る大きなその傷は、ぞっとするほどリアルで痛々しく見えた。一体何があったのだろう……と思った、そのとき。

「……あ、もうこんな時間やん」

 唐突に文奈が明るい声で言った。はっとして柊二が顔を上げると、文奈は入口のドアの上に掛けられた時計を見ていた。いつの間にか時計の針は午後五時を回っていた。

「じゃ、またね。樋川くん」

「あ……ああ」

 半ば惰性で返事をすると、文奈は笑って手を振り、旧音楽室を出て行った。

 一人ぽつんと残された柊二は、ただピアノの前で呆然と文奈が去ったドアを見つめているだけだった。


          ・


 自宅では、柊二はピアノに近づかないようにしている。

 防音処理されたリビングにあるアップライトピアノには嫌な思い出しかないからだ。

 息子をピアニストにしようと、柊二の母は彼が幼い頃から厳しいレッスンを課した。

 指も腕も痛いと泣いたら、我慢しなさいと叱られた。

 一生懸命弾いているのに、怠けるなと叱られた。

 友達と遊びたいと言ったら、そんな暇があったらレッスンしなさいと叱られた。

 もうやめたいと叫びわめいたら、母だけでなく父からも叱られた。

 毎日、ただひたすらにピアノを弾く。叱られながら、何時間も。弱音も許されず、怒鳴られながら白黒の舞台と対峙した。やめたくても許してもらえず、痛む手を動かし、折れそうな指で延々と鍵盤を押した。

 柊二にとって、ピアノを弾くことが何よりも苦痛だった。

 しかし、幼い彼にはそれから逃げる術がなかった。親の言うことを聞いてただ耐えることしかできることがなかった。

 当然、そんな精神状態で練習して上手くなるはずもなく、柊二の技量は小学四年になった頃にまったく進歩しなくなった。それどころか、今まで弾けていたフレーズさえ弾けなくなる始末だった。レッスンするほどに下手になっていく息子に母親はさらに厳しくなったが、追い込まれていくだけで演奏技術は戻らなかった。

 それから二年が過ぎ、音楽とは到底呼べない音の羅列しか出せなくなった柊二を見て、さすがにこれはもうダメだと悟ったのか。

「やめてもいいわ。もういい」

 憑きものが落ちたようにそう言って、異常なほどの執着を見せていた母親は、あっさりと見切りをつけた。

 柊二はそれを喜んだ。

 やっと開放された――心底そう思った。

 思い起こせば、日々叱られるばかりで誉められたことはほとんどなかった。弾くことが痛くて苦しくて、始めた頃に音を奏でることが楽しいと感じた気持ちはまるで思い出せなくなっていた。気がつけば、ただひたすら辛い思いをしながら鍵盤を叩いてきただけだった。

 ……何でこんな苦しいことをやっていたんだろう。

 ……何でこんな痛いことを続けていたんだろう。

 母親の重圧から自由になって喜んだのも束の間、残ったのはそんな気持ちだけだった。

 ――ピアノなんてこの世になければよかったのに――

 そう思わずにはいられなかった。

 思ううちに、ピアノを嫌うようになった。

「…………」

 今、リビングのピアノの前には、母と、歳の離れた妹がいる。妹は弾くことが楽しくて仕方がないというように、生き生きとした様子で母のレッスンを受けていた。まだまだつたない旋律が響き、ミスも数えきれないほどあるというのに、母はそれを喜んでいる。柊二が今まで一度たりとも見たことがない、嬉しそうな笑みで。

 その光景を見ていると、自分のときとは態度がまったく違う母が別人格の人間に思えた。

 厳しくしすぎたせいで柊二が脱落したから、妹には優しく指導しようとしているのだろう、ということは理解できる。若い頃に音楽を志して大成できなかった母が、その夢を子に託すのもわかる。教職に就いたことのない母が指導方法を試行錯誤するのも仕方がない。

 しかし、こうして楽しそうにしている妹を見ていると、自分が踏み台にされたような気がして妙に苛立ってくる。そんな不快な気分になりたくなくて、ピアノをやめて以来、母はもちろん妹ともほとんど口をきかなくなっていた。

「俺のときは怒ってばっかりだったクセに……」

 自分にしか聞こえない恨み言を小声で吐き捨て、わざと乱暴な足音を立てながら階段を上り、二階の自室のベッドに着替えもせず身を投げ出した。煮えたぎった苛立つ気持ちを頭の芯から追い払うように大きなため息をつき、ふと天井を見上げる。天井に貼ったいくつかのポスターの中の癒し系アイドルが無責任に笑っていた。普段は何ということもないその笑顔が、今日は妙に神経を逆なでする。

「くそ、イライラする……」

 手探りで枕を引き寄せ、うつ伏せになって顔をうずめた。目を閉じて、苛立ちをどこにぶつけてやろうかと思案する。壁を殴るか、ベッドを蹴るか、それとも目覚まし時計でも投げてやろうか。お気楽に笑ってやがるポスターのアイドルに物を投げてやろうか。破れたって構いやしない。

 そんなことを考えていると、不意に放課後に会った女子生徒の顔が浮かんできた。

 濃い茶色の髪。茶色の瞳。白い顔。桜色の唇。似合わない関西弁。無神経な笑顔。

 そして――指の傷。

「……川代文奈とか言ったな……。何だったんだアイツ……」

 他人のオリジナル曲にいきなり歌詞をつけて歌ったり、素人にはわからないほどの手抜きを的確に指摘したり、他人の演奏に完成度を求めたり、ピアノが嫌いだと言うと傷ついた顔をしたり。思い出せば思い出すほど、よくわからなくなる人物だった。

 芸術科で音楽を専攻しているのなら諸々のことは納得できるのだが、どうもそういう様子はなかった。大体、芸術科は授業をサボって昼寝などしていられるほどカリキュラムは甘くない。授業のほとんどが実習で、単位を得るには何より授業に出なければならないのだ。

 かと言って、普通科に在籍しているような感じでもなかった。雰囲気や気配が普通科の十人並みな生徒とは明らかに違っている。

「変なヤツだったな……」

 旧音楽室を出ようと開け放ったドアの前に立ち、西日のくすんだオレンジ色を全身に受けながら、眩しそうに目を細めて笑ったその顔を思い出して、柊二はそう呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る