二つの半分が奏でる音色

南村知深

第1楽章 第1節

 校舎や体育館から少し離れた校庭の片隅に、教室一つ半程度の大きさの建物がポツンと佇んでいる。一見すると体育倉庫のようではあるが、防音工事されたそれは音楽室である。

 普通科と芸術科を合わせて千五百人以上が一堂に会する私立高校だけあって、そこここに生徒や教職員が溢れかえっているが、この音楽室だけはひとがなく寂れていた。

 というのも、数年前に新たに講堂と文化系部室棟が体育館横に建設され、音楽室を部室として使用していた吹奏楽部や音楽関連の授業も講堂で行われるようになったのがその原因である。今では『旧音楽室』と呼ばれ、ほとんど忘れ去られた部屋となっていた。

 それを狙ってか、毎日のように放課後になるとやってくる生徒がいた。

 がわ柊二しゅうじ

 普通科の二年生で、見た目も中身も特筆すべき点が見当たらない、強いて言えばピアノが少し弾けるというだけの、ごくありふれた男子生徒だ。

 芸術科でも吹奏楽部でもない彼だが、使われなくなった旧音楽室に置かれているグランドピアノを独占し、それを弾くことを日課にしていた。


 今日も放課後になってしばらくすると、柊二はいつものように旧音楽室にやってきた。まるで自室に戻ってきたかのような無造作さで錠を外し、防音ドアを開ける。鍵は毎日職員室に借りに行っているうちに、音楽教諭から「スペアを持ってていいよ」と言われたものだ。


「……?」


 九月になっても衰えない残暑の猛威に蒸された重いドアを開けた瞬間、隙間からひんやりとした空気が漏れ出し、汗ばんだ頬をさらりと撫でた。いつもなら日中に溜め込まれた蒸しつく熱気に襲われて顔をしかめるのだが、流れ出した空気は感嘆のため息が出るほど心地よく冷えていた。

 しかし、その快適な環境を前に、柊二はいぶかしげに眉根を寄せた。

 エアコン完備の部屋であるにも関わらず夏場に人が寄り付かないのは、ひとえに『暑い』を通り越して『熱い』からだ。日当たりが良すぎる立地と防音工事による壁の厚さが原因で室内に熱がこもりやすく、エアコンと換気扇を全開で動かしても室内全体が快適温度になるまで数十分を要する。

 部屋の使用頻度が高ければ放課後でもそれほど熱が残ることはないだろうが、まったく使われない閉め切った部屋に蓄積される熱気は、どこかに漏れ出ることも冷まされることもなく、日中はもちろん深夜まで残ってしまうこともあるのだ。

 そんなサウナ状態が当たり前では楽器の管理上好ましくない、との理由で適切な環境を整えた講堂が建設されたわけだが――そういう経緯で放置されるようになった部屋から冷気が流れ出すことが異様で、歓迎すべき快適な室内環境に対して眉間にシワを刻む柊二の態度も納得がいくというものである。


「誰かいるのか……?」


 戸口に立ったまま遠慮がちに声をかける。

 薄暗い室内に人影はなく、整然と並んだ机と椅子に射す明かり取りの小窓から漏れるあえかな陽光が床に薄く縞模様を作っているだけだった。

 壁にはずらりと並べて貼られた音楽家の肖像写真がいくつもあり、戸口に近い右手側にグランドピアノが鎮座している。片付け忘れたらしい譜面台がピアノの奥、右手壁際に一つだけ置いてあるが、楽譜もなければそれを使用している者の姿もなかった。

 いつもとなんら変わりない部屋だった。

 ただ一点、エアコンが全開で作動していることを除けば。


「またか……」


 柊二はひとりごちて部屋に入り、室内をぐるりともう一度見回してから明かりを点けてピアノの前に座った。

 以前にも数回、特に暑い日にこうして空調だけが作動していることがあった。初めは誰かが部屋を使うのだろうと入るのをやめて帰宅していたが、同じようなことが何度か続いて様子を見ているうちに誰も来ないことがわかった。

 よしんば誰かが来ても、柊二はこの高校の生徒だから音楽室を使っていても文句は言われないし、邪魔なら出て行けば済むことである。

 そう考えるうちに、今ではエアコンが動いていても無人であれば気にしなくなったのだ。

 ピアノに掛けられたカバーを外して鍵盤の蓋を開け、椅子の高さを調整(柊二しか使わないので高さはいつも同じだが)してから大きく深呼吸を一回。続いて指慣らしのための簡単な練習曲をさらっと流した。

 放置された部屋ではあるが、ピアノの調律だけは定期的にされているようで、和音の響きに耳障りな音は混じらない。少なくとも微妙な音の違いを聴き分けられない柊二が違和感を覚えるほどのズレはなかった。


「よし、快調快調。次は……」


 ルーティンワークとなった数分間のウォームアップを終え、最近覚えた曲を弾き始めた。

 リズムは至って単調で、楽譜の音符を機械的に追えば初心者でも最後まで弾くことができる単純な曲である。

 だがそこに、感情――抑揚よくようや強弱をつけようとすると途端に難しくなる曲でもある。シンプルなメロディラインゆえに表現力を出すのが難しいという、奏者の技術次第で良くも悪くもなるものだった。

 その感情を込める段階に進んでいる柊二は、左右の手のタイミングを合わせつつ音の強弱や微妙なタメを盛り込んでいく。


「っ……」


 途中で左手が少し遅れた。

 だが演奏を止めずに続ける。

 覚えたての今は個々の細かい修正よりも、最後まで通して弾いて曲全体の流れをつかむことを重視しているからだ。

 そうしたいくつかのミスを自覚しつつ最後まで弾き終え、音の余韻を残さないようにミュートをかける。一人でいると妙に広く感じる旧音楽室に響いていた音色がふっつりと切れ、静寂を取り戻した。

 一息ついて肩の力を抜き、二、三度深呼吸してから、また初めから鍵盤に指を走らせる。いくつものタイミングずれや弾き間違いをするも、それは気に留めない。


「……ま、こんなもんだな。上出来だろ」


 同じ曲を三度通して弾き、同じ場所で同じミスをしていながら甘い自己評価を下した。締め切りやテストのある課題をやっているわけでもないし、完璧に弾けるまで必死になって練習しなくてもいいじゃないかという気楽な構えだ。


「次は……」


 少し休んでから、今度は先ほどとは違う曲を弾き始める。

 柊二が中学二年のときに作曲したオリジナルバラードで、もともとはロックバンドをしていた友人に頼まれて書いた曲である。

 しかしこれは、メロディが単調すぎてロックじゃないとのクレームがついて採用を見送られたものだ。柊二としては強めのディストーションギターとハードなドラム、ベースの重低音を生かせば良い曲になると思っていたが、友人との感性の違いで表舞台に出ることなくお蔵入りになったのだ。

 作った当時は『秋の夕暮れ』をイメージして、メランコリックで泣ける情景をメロディアスかつハードな音で歌い上げる――というものを想像していたが、ここに通うようになって改めて弾いてみると、確かにメロディラインが単調で面白みがないと思うようになった。

 そこで暇つぶしがてらにアレンジを加え、それなりに聴ける曲に仕上げた。今では普通のピアノなりアコースティックギターなりで弾き語りするのにちょうどいい感じにできたと柊二は自賛している。

 先ほどの曲とは違い、自身のイメージを曲にしただけあって、意識しなくとも自然と演奏に感情が入る。思い描いた情景が旋律に乗って瞼の裏に浮かび、さながらBGM付きの動画のように流れていった。

 ――と、そこに。


  遠い夕焼け

  舞い散る木の葉

  秋の歩道を駆けて行く

  優しく 切ない風


 詞をつづった歌が聞こえてきた。

 静かな清流の河水のごとく、どこまでも透き通る女性の歌声。

 高く、低く、穏やかに、流れるように詞が紡がれていく。

 そうなることが当たり前とばかりに、ピアノの旋律と融合した歌声に聞き入りながら、柊二は鍵盤に指を走らせた。

 作曲時に彼がイメージした世界がそのまま歌詞になり、情景となって意識を駆け抜けた。

 ――が。


「え……?」


 歌が聞こえる事の異様さにふと気づき、柊二は演奏する手を止めた。

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