第1楽章 第2節
低い残響が部屋の空気に伸び、歌声もそれに倣うように薄れて消える。
「誰か……いるのか?」
返事はなかったが、歌が聞こえてきた以上は誰かが部屋にいるのは間違いない。
それを確かめようとゆっくりと立ち上がり、一歩足を踏み出す。
「なんや……もう終わりなん?」
二歩目が床に着くその寸前、並んだ机のほうから先程の歌声より少し低い声がした。
そちらに目を向けると、机の陰から女子生徒がむくりと身を起こし、肩にかかる少し茶色がかった髪が乱れるのも気にせず後頭部をぽりぽりと掻いて、遠慮なく大きなアクビをした。まさに『寝起き』といった様子で眠そうな目をこすって、ピアノの横に立つ柊二に目を向ける。
柊二にはその顔に見覚えがなかった。
「君、誰……?」
思わずそう呟くと、女子生徒はやれやれと肩をすくめる。
「そういう君は誰やねん。他人に名前を訊くときは先に名乗るんが礼儀やで?」
ニヤリ、と意地悪そうに笑って関西弁で問い返した。柊二はその静かな迫力に圧され、
「
意思とは関係なく、勝手に自己紹介が口から漏れた。
その素直な態度がお気に召したらしく、女子生徒は満足げにうなずいて肩口の髪を手で払い、名乗り返した。
「私は二年の
冗談めかしてニヤニヤしつつ、文奈は席を立ってピアノのそばまでやってきた。
華奢というより
しかし、背中に羽が生えて飛び回りそうなほどに生き生きとした仕草と、健康そのものを体現するかのような元気一杯の笑みを浮かべているせいか、身体が弱いのか強いのか良くわからない感じだった。
「さっきの、ええ曲やね。オリジナルやろ?」
ひょいと柊二の顔を覗き込み、微笑みながら問う。
「ああ、まぁ。ところで……」
「君は何であんなところに……?」
「ん? ああ、朝から授業サボってここで昼寝してた」
ほぼ想像どおりの回答が返ってきた。
蒸した部屋が冷えるまで時間がかかるとは言え、冷えてしまえば誰も来ない静かで快適な部屋に変貌するので、なるほど昼寝にはうってつけである。
うってつけではあるが、出席日数や遅刻の回数などが成績や内申に少なくない影響を及ぼすこの高校で、実際に授業をサボってまで昼寝を敢行する者は非常に珍しいと言える。柊二が奇異の目で見るのも至極当然だった。
「さっきからじっと見つめてくれちゃってるけど、私の顔に何かついてる?」
「いや、別に……その、よだれの跡が」
「え、ウソ、カッコ悪ッ」
言われて文奈はスカートのポケットからハンカチを取り出し、照れ笑いしながらゴシゴシと頬を拭いた。しかし、いくら拭いてもよだれを拭い取ることはできない。
当然である。柊二は惹き込まれるような瞳に見つめられているのが恥ずかしくて、それをごまかすために適当なことを言ってしまったに過ぎないのだから。
文奈の顔立ちは非常に整っていて、おっとりした感じの目から薄い茶色の瞳が覗いている。すっと通った鼻筋と桜色の薄い唇は、白磁器の艶を思わせる滑らかで白い肌に映え、さながらビスクドールのように見る者を惹きつけていた。上品さを感じる恥ずかしそうな照れ笑いが、警戒しながらも構ってもらおうとする子犬のようで、そのいじらしい雰囲気は周りの者を自然と笑顔にする力を秘めているようだった。
だが、どういうわけか柊二はこの娘に対して妙な違和感を覚え、しかめ面をしていた。
「……? まだよだれの跡ついてる?」
「え? あ、いや、取れたよ」
無意識のうちに文奈を見つめていたらしく、慌てて目をそらして答えた。なんや、変なの、と文奈が怪訝そうな表情で呟く。
(あー、そういうことか……)
そこで柊二は違和感の正体に気づいた。
似合わないのだ。
外見から来るイメージと、彼女が話す関西弁が柊二の脳内の同じ場所に存在せず、別空間にバラバラに置かれているような感じだった。
文奈の顔を見て真っ先にイメージしたのは『
そんなことを思うのは偏見に満ちていて大変失礼だが、思ってしまったものは仕方がない。もちろんそれを口に出してしまうと本気で失礼なので、心のうちに秘めて出さないように気をつける。
「ところで。さっきの曲、もう一回弾いてくれへんかなぁ?」
そんなイメージギャップの苦悩など知る由もなく、文奈は初対面の相手にも臆せず、馴染みの友人にするようにあっけらかんとリクエストしてきた。
その一言で現実に戻ってきた柊二は、言われたことを理解するのに少し時間を要した。
「え? さっきの曲って……オリジナルか?」
「
「ああ、そっちか。いいけど……」
あまり知られていない曲名を
まだ練習中で音符を追うのが精一杯だが、テンポを落としてそれっぽく弾けばそれなりに聴こえる。それで十分だろう――そう思ってさほど気を入れずにさらっと流すと、なぜかいつもよりミスが少なくなるというラッキーな演奏になった。ただ、そんな演奏なのでクオリティは残念なものになっている。
曲自体は奏者のアレンジやテンポによって差はあるが、おおよそ三分程度で弾き終わる短いものだ。ゆっくりでしか弾けない柊二でも三分半とかからない。
「……これでいいか?」
ふう、と目一杯頑張って弾きましたアピールで大袈裟に息をつく。
ピアノにもたれ掛かるように手を組んで、その上に顎を乗せていた文奈は、目を閉じたまま感想を口にした。
「全ッ然アカンわ。練習が足らんのと違う?」
その言葉に心底遠慮などなかった。
そして、はぁぁぁぁ、と盛大に落胆のため息をつく。
「六か所ほどミスしてるのは、まぁええとしても。真面目にやらんと手抜きしたやろ? 私の耳は
「……っ!」
演奏を完全否定された上に手抜き呼ばわりされ、柊二は頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
確かにミスをしているし若干手抜きもしたが、それをはっきりと聴き分けて指摘されるのはまったくの予想外だった。
その驚きとともに、小さい頃にわかりっこないとタカをくくって手抜きして、自分のピアノ指導をしていた母親から同じように怒られた事を思い出し、言いようもなく腹が立った。
「俺はプロじゃねぇ。ミスもするし手抜きも俺の勝手だ。違うか?」
「アカン。そんなん許されへん。芸術科の生徒がそういう手抜きしたら致命傷になるんやで」
びっ、と反論を封殺するように柊二を指さし、文奈は眉間にシワを刻む。
どうやら柊二を芸術科の生徒と勘違いしているらしい。
「待て。俺は普通科だっつーの」
いやいや、と手を振りつつ勘違いを訂正する。その瞬間、さらに文奈の眉間に五本ほどシワが増えた。
「はぁ? そんだけピアノが弾けて普通科? 願書出すとき間違えたんちゃうの?」
「間違えるかっ! 間違いなく普通科だよ! 選択授業も美術だ!」
叩き返すように声を荒げると、文奈は再び深く深くため息をついた。笑っているような呆れているような、言い表しがたい奇妙な表情をしていた。
「じゃあなんでピアノ弾いてんの? わざわざ放課後に、ここで」
「知るか。ただの暇つぶしだ。嫌いなんだよ、ピアノは」
単純な疑問に対して、柊二は吐き捨てるように言い放った。
苛立ちのせいか、自分で矛盾したことを言っていることには気づいていない。
「……そうなんや……」
その答えを聞いた途端、文奈の瞳が色を失って表情が曇った。そう答えられることを予測していながら、それを聞きたくなかったとばかりに顔を伏せる。
「な、なんだよ。文句あるのか。お前に関係ないだろう」
突然のしょげっぷりに慌てる柊二。若さゆえに張った虚勢をすぐに引っ込めることもできず、中途半端な強がりを返してしまった。
「もったいない……」
それを笑うでも恐れるでもなく、文奈はぽつりとそう呟いて、それきり黙ってしまった。ピアノが嫌いだと言われることが、まるで自分自身を否定されたかのように悲しい……と彼女の表情は語っていた。
柊二は気まずくなって思わずうつむいた。
目の前に並ぶ白と黒の鍵盤が、天井の蛍光灯の光を照り返して鈍く輝いている。
かなり使い込まれているピアノらしく、鍵盤に光沢はあまりない。そのくせ本体表面は黒い鏡のようにピカピカで新品のようだった。古いピアノだが手入れだけはきちんと施されている、ということが素人目にもわかる状態だ。
「…………」
その黒い鏡に映る文奈の影が動き、すっ、と柊二の横手から伸びた左手の指が、
ポーン
と黒鍵を一つ押した。無意味に柊二がサステインペダルを踏んでいたので、その音は長い余韻を響かせた。
それが耳に届かなくなったところで、文奈がもう一度同じ鍵を強く叩いた。先ほどより大きく長い音が、突き抜けるように
そのとき柊二は、彼女の人差し指と中指に大きな
一体何があったのだろう……と思った、そのとき。
「……あ、もうこんな時間やん」
唐突に文奈が明るい声を出した。
はっとして柊二が顔を上げると、文奈は入口のドアの上に掛けられた時計を見ていた。つられて視線をそちらに向ける。いつの間にか時計の針は午後五時を回っていた。
「じゃ、またね。樋川くん」
「あ……ああ」
半ば惰性で返事をすると、文奈は笑って手を振り、旧音楽室を出て行った。
一人ぽつんと残された柊二は、ただピアノの前で呆然と文奈が去ったドアを見つめているだけだった。
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