第3楽章 第2節
旧音楽室をあとにした二人は、学校を出て駅前の繁華街をぶらつくことにした。特にどこへ行くとも決めずに、足が向いたほうへ歩くだけの散策である。
その間、二人はずっと話し続けている。
旧音楽室で練習しているときは音楽のことしか話しておらず、雑談するのは意外にもこれが初めてだった。好きなタレントや映画、本やゲームなど、ありきたりながらも王道を行く普通の会話をした。
ただ、音楽に関するものだけは話題に上がらなかった。息抜きのために練習を切り上げさせたのだからと、
しかし、幼少の頃からピアノしかやってこなかった柊二にストックされている話の数などたかが知れており、繁華街に差し掛かって間もなく話題が尽きてしまっていた。
それでもしばらくは文奈が一方的に話していたが、実のところ彼女も音楽を除いた話題があまりなく、あっさりネタ切れになった。間を繋ごうと目についたものについて一言二言話してもすぐに会話が途切れ、やがて沈黙の時間が多くなった。
柊二も沈黙を嫌って何か話せることはないかと辺りを見回し、ふとゲームセンターの賑やかな音が遠くに聞こえることに気づいた。文奈が先ほど自分は結構なゲーマーだと自称していたこともあり、暇つぶしにも気分転換にもちょうどいいと思った。
「ゲーセンがあるな。ちょっと寄ってくか?」
「んー……ゲームは抗し難い誘惑やねんけど……ちょっと疲れたし休憩したいかな。久しぶりにしゃべりすぎて喉が渇いたし」
とゲームセンターがある方向とは反対側の通りに目をやった。つられて柊二が同じほうを向くと、シャッターが下りている個人商店に挟まれるように佇む、小さなうら寂れた喫茶店が見えた。あまりにも存在感がなく、文奈が見つけていなかったら前を通っていても喫茶店だと気が付かなかったかもしれない。そういうひっそりとした雰囲気を持った店だった。
「私、ああいう感じの店、好きやねん」
「わかる。目立たなくて寂れてるのに、やたらと凄腕のマスターがいて、コーヒーがすごく
「そうそう。豆とか挽き方とか淹れ方とか、一切の妥協を許さずこだわり抜いた最高の一杯を客に出すんよね。まぁ、私はコーヒー苦手やから飲まへんけど」
「飲まなきゃ台無しだろ……それ……」
などと勝手な想像で盛り上がりながら移動し、喫茶店の前で看板を見上げた。
『喫茶 リリアンナ』
随分年季の入った店らしく、木の柱は黒ずみ、板壁も風雨にさらされて傷み放題だった。
しかし窓ガラスは完璧に磨き上げられていて曇り一つなく、そこから見える店内も不潔感は一切ない。古いのではなく古めかしく見せている、しかもそれをあからさまに感じさせないさりげなさのバランスが見事な仕様だった。
「良い勘してるぜ。ここはアタリだよ、多分」
期待するように少し弾んだ調子で柊二が言うと、文奈は嬉しそうに目を細めてドアを開けた。
ちりりん、と控えめなドアベルが鳴り、カウンターのスツールで暇そうにしていたエプロンドレス姿の小柄な女性店員が慌てて立ち上がって「いらっしゃいませ」と笑顔で二人を迎えた。
外見に負けず劣らず内装も古く狭かったが、店内にかかっている静かな曲が寂れた雰囲気にマッチしていて、ほっとするような落ち着きを生み出していた。
その古さと落ち着きに似つかわしいゴシック調のテーブル席が三つとカウンター席があり、これまた雰囲気のある頑固そうな中年のマスターが気難しい感のある顔でサイフォンを磨いていた。
ここまで『コーヒーの美味しい喫茶店にありがちな条件』が揃っていると、現実味を失って映画の世界に迷い込んだような錯覚を起こしそうになる。
「お好きな席にどうぞ。どこもかしこもガラガラですので座りたい放題です」
見た目とは違って軽い口調でそう言って、マスターは店内を指した。
そんな自虐っぽい軽口を笑いながら二人が一番奥の窓際のテーブル席に着くと、女性店員が嬉しそうにオーダーを取りに来た。その張り切りようを見ていると「味には自信があるから任せて!」と言わんばかりで、軽口を叩きたくなるほど繁盛していないのは決して味が悪いからではなさそうだと、文奈はますます期待感を持った。
注文を済ませ、ニコニコと上機嫌な店員の背が厨房に消えるのを見送り、正面に座るパートナーを見て――眉をひそめた。
「……?」
柊二はぼんやりと窓の外を見ていた。
入店前の様子とはガラリと変わっていて、酷く沈んだ表情になっている。何か思い悩んでいるような、そんな気配を感じた。
「どうかしたん?
「ところでさあ、
表情からは想像できないほど軽い物言いに、なんでもどうぞ、とテーブルに両肘をついて手に顎を乗せ、次の言葉を待つ。
ややあって、柊二はずっと表の通りに目をやったまま、ぽつりと言った。
「なぜ、あんなにピアノが弾けるのに普通科なんだ?」
「…………」
口調とは真逆の、ずばっと切り込んだ柊二の質問に表情を強張らせ、文奈は眉間のシワを深くした。せっかく気を使って音楽の話を避けていたのに、と正面の憂鬱そうな横顔を睨む。
しかし、柊二は窓の向こうを眺めたままで、その視線に気づかなかった。
「話すネタがないからって、ここでその話題を出す? 空気読んでくれへん?」
「悪いとは思ってる。けど、できれば答えてほしい」
「それは樋川くんにとって必要なことなん?」
「多分」
「多分、て……」
そんないい加減な、と思う文奈。
だが、柊二にふざけている様子はない。
音楽の話題は別に構わない。柊二も自分もそれしかないから仕方ないと思う。
しかし、それが表層の浅い話ならともかく、文奈の深い部分に関わる事となれば話は違ってくる。
ここでギャグに走るか、真面目に話すか。
文奈は少し考え、表情をすっと引き締めて――ぽつりぽつりと話し始めた。
「……願書の記入を本気で間違えたんよ。入学式の直前で気ぃ付いて、間違いやったって学校に言うたけど遅かってん。で、不本意ながら普通科に」
「それは前に冗談として聞いた。真面目に訊いてんだ、俺は」
今の文奈の話をネタだと決めつけバッサリ切り捨て、柊二は運ばれて来たアイスコーヒーにストローをさした。そして正面の引きつり笑いをじっと見る。
「本当の理由が知りたいんだよ」
「なんで冗談やて決めつけるん? ホンマのことかも知れんやん」
「ありえないんだよ。普通科と芸術科じゃ、入学願書の提出日も違えば入試の日もテストの内容もまったく違うんだ。気づかないわけがない」
「…………」
「俺は、川代は間違いなく芸術科で入学したんだと思ってる。うちの芸術科……特に音楽専攻クラスは全国から生徒が集まることでも有名だからな。川代もその一人だったんじゃないのか?」
アイスコーヒーには口をつけず、真っ直ぐに薄い茶色の瞳を射抜くように見つめて問う。
文奈はその視線を真正面から受け止め、薄笑いを浮かべていた。
「もしそうなら、私は芸術科に所属してるはずやね。でも間違いなく普通科の生徒やで? ほら見て、学生証も普通科のものやし」
「芸術科でついていけないと思った生徒が、学期の途中であっても普通科に編入することもある。実際、俺のクラスに二人、
差し出された学生証に目もくれない柊二のその言葉に、文奈は苦笑しながら顔を伏せた。
手元の証明写真に写る自分が不機嫌そうに自身を睨んでいる。もっと上手いウソつかんかい、と怒られている気がした。
「ずっと疑問に思ってたんだ。どうして連弾するのに、川代は右手のパートを受け持ったんだろうって。聴いてりゃわかることだけどな、俺は左手より右手のパートのほうが、ミスが少なくて上手く表現できるんだ。もし本気で文化祭に間に合わせようとするなら、俺が右手パートを受け持ったほうが早いし確実だ。そうだろ?」
「……うん。そうやね」
柊二自身が認めている事実を違うと否定したところで無意味だと思い、文奈は素直にうなずいた。
「確かに樋川くんは右手のほうが上手く弾けてると思うよ」
「にもかかわらず、だ。あれだけ文化祭にこだわっているのに、川代が右手パートをやるってことは、そこに何か理由があるってことだ。それこそが、川代が普通科にいる理由だと……そんな気がするんだ。この推測に根拠はないけどな」
「…………」
レッスン中のような真面目な顔でとんでもなく飛躍した推理を披露され、文奈はしばしのにらめっこののち――諦めて小さく息をついた。
「……ひょっとして樋川くんって
「どちらも『ノー』だ。どうして普通科なんだろうって考えていて、この結論に達した」
「せやったら……ええアタマしてるわ。途中が飛躍してるけど、そこからその結論に達したのは凄い。高校生探偵になれるで」
おちゃらけたようにヒョイと肩をすくめて皮肉に笑い――文奈は唐突に表情を消した。
「そう。確かに私は芸術科の
表情とは真逆に軽い調子で言って、文奈は遅れて運ばれて来たココアを一口含み、ゆっくりと飲んだ。
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