一連の事象の幕引き・2

 ナツヒコはそれを意に介さず、目を押さえたまま駆け出し、店の外へと駆け出て行った。マスターを見ると、拳銃を持った手を震わせていた。

「なぜ、こんなことを……。カイザに言われたのですか?」

「娘が病気なのですよ……、他に何がある? 私には娘しかないのです」


 ぼくは拳銃を下ろすマスターの姿を見届けてから、店の外へ駆け出た。冷たい風に吹かれ、店の中にコートを置いて来たことに気が付いた。左を見ると、2ブロック先の角を左折するナツヒコの姿が見えた。そちらへ走り出す。何人かが騒ぎに気が付き、大声を上げていた。


 角を曲がると、雑居ビルの外階段を上るナツヒコの姿が頭上に見えた。それを追いかける黒いスーツの男が二人。どうやらナツヒコは追われているらしかった。

「マヤ君!」

 階段を上ろうとしたとき、背後から声を掛けられた。ぼくは階段の2段目に足を掛けながら振り返る。そこにはキノサキが立っていた。

「キノサキさん! ナツヒコが!」

「うん、俺もいま走っているのを見た。どういうことなんだ?」

 ぼくはそう訊くキノサキを無視して階段を上り始めた。1秒が惜しかった。

 2階、3階と上っていく。上を見遣るとナツヒコはまだ上っているらしかった。背後と言うか下からキノサキの声が聞こえて、キノサキが追いかけて来ているらしいと分かった。


 やがてぼくはビルの屋上へ出た。4階分の高さがあった。辺りを見回すと、フェンスを破壊して隣のビルの屋上へ飛び移る黒服の姿が見えた。ぼくは勢いを付けるべく助走をつける。キノサキがぼくの名前を呼ぶのが聞こえた。ぼくは屋上を走り始める――夜の空に向かって。


 屋上の端を踏み切って、闇を跳んだ。下に落ちたら、ちょっと痛いだろうな、と思った。


 隣のビルの屋上へは、両足で上手く着地出来たようだった。背後のビルからキノサキの声が聞こえる。

「マヤくん、俺は下から追いかける。これを君に、渡したい」

 キノサキは息も切れ切れにそう言って、メッセージを送ってきた。ファイルが添付されている。

「これはアマノ医師から貰った、正しい被害者、死者の一覧だ。これがあれば奴らと取引出来るかもしれない。ホソミ君以外にも複数人、記録が書き換えられていた」


 ぼくはキノサキの厚意に感謝しながら、また走り始めた。黒服はまた別の屋上へ跳んでいた。


 ぼくも後を追うべく再度跳びながら、キノサキから送られて来た死者一覧のファイルを呼び出して開く。やはり、ホソミ・ナツヒコは銃撃されて死亡したことになっていた。


 ぼくが知り合った一人目のナツヒコ。そして再会した二人目のナツヒコ。そしていま追っている三人目のナツヒコ。プリティヴィの質問が脳内で蘇る。『人間であるとは、どういうことでしょう?』


 行く先で黒服が一人、4階の高さから落下していくのが見えた。その先では、別の黒服とナツヒコが格闘しているのが見える。ぼくは急いでそのビルへと跳び移った。


 ぼくがその屋上に跳び移ることに成功したのと同時に、ナツヒコの左フックが黒服の顎を捉えた。黒服は2歩ほどよろめいて、そのまま後ろに倒れた。ぼくはナツヒコに追いついていた。ナツヒコへと数歩近づこうとする。しかしまだ5メートルほどの距離があった。


「近づくな。マヤ。お前はこれ以上、俺に近づいてはいけない」

「冗談を言わないでくれ。君が長崎駅前にぼくを誘ったんだ。あの約束は果たされなくていいって言うのか?」


 視界には、ぼくを睨むナツヒコの横に、広げたままになっていた被害者のリストがあった。ぼくはそれを仕舞うべく、そこに一瞬視線を向けるつもりで、眼球を動かした。すると、被害者の名前が目に入ってきた。大量の文字列。名前がいくつも並んでいた――


 ぼくは、膝から頽れた。どこか遠くでナツヒコがぼくの名前を呼ぶのが聞こえた。あるいは、風が吹いたようだった。


 暗い、夜の真ん中に沈んでいくような感覚。

 被害者リストの、死亡した人間の名前。


 見慣れない人間の名前の中に、知った名前がもう一つあった。

 何かの間違いだろうとは、思えなかった。

 何故だろう?

 間違いであればいいと、思えればよかったのに。


 それは間違いなく、自分のよく知った名前だった。

 自分の名前より、はるかに口に馴染んだ名前。


 いつもの微笑。

 マフラーに巻かれた長い黒髪。

 君付けでぼくを呼ぶあの声。


 被害者リストの一番下。

 そこには『モリ・ユリコ』と書いてあった。

 ぼくの恋人の名前だった。

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