一連の事象の幕引き・1
ぼくの出した手紙は正しく届いただろうか。そればかりに気を取られて、モスコーミュールの味なんて、まるで分からなかった。店内にはレッド・ツェッペリンの『天国への階段』が流れていた。
アマノ医師は解放され、自宅に戻ったらしい。しかし、キノサキがぼくに連絡したところによると、記憶の一部を破損していたらしいをキノサキやぼくと長崎公園で会ったことは、覚えていなかったそうだ。
アマノ医師が解放されたことと、ぼくがプリティヴィと会ったこととは、関係があるのだろうか。プリティヴィは、ぼくを脅迫しないと言った。それがアマノ医師解放に関係があるなら、プリティヴィに礼を言わなくては、と思った。
顔を上げると、カウンターの向こうのマスターと目が合った。ぼくは軽く会釈をした。すると、マスターはぼくのほうへ近づいて来た。
「
「ぼくもです。まさか、長崎にもお店を持っているとは、思わなかった」
キサナドゥでぼくとナツヒコが再会したバーのマスターは日本人で、
「キサナドゥに店を出す前は、AEでも同じ場所に店をやっていたのですがね」
「どちらも、居心地の良いお店です」
「ありがとうございます」
マスターはそう言うと、また別の客のところへ行って、別の話題で話をし始めた。ぼくは、その僅かに聞き漏れて来る言葉を意識の外に排して、音楽を聞いていた。
その音楽を突き破るようにして、ドアの開く音がした。
足音はこちらに近づいてくる。
ぼくはモスコーミュールの表面を見ていた顔を上げて、出入り口があるのほうを見遣った。
足音がすぐそこで止まり、ぼくの左横のスツールに、彼は腰かけた。妙に姿勢が良い割に巻き肩で、
目が合う。声を掛けられる。
「久しぶりだな」
「始めまして、ではないの?」
ホソミ・ナツヒコは、ぼくの言葉に笑みを浮かべた。
「どうだろう?」
ぼくは、モスコーミュールで口の中を湿らせた。マスターが近づいて来て、ナツヒコを見て驚いたアクションを見せた。
「あなたまで、長崎にいらしたのですか?」
「まあ、いまだけですよ」
「オーダーは、どうします? いつものですか?」
「ギムレットは飲んでないしな……。ビールで」
マスターは微笑みを浮かべて下がった。ぼくは何から訊ねれば良いのか考えていた。
「どこまで分かった?」
ナツヒコがカウンターの上に組んだ腕を乗せて、そう訊ねて来た。ぼくはまたモスコーミュールで口の中を湿らせた。やたらと喉が渇いた。
「カイザ・ジャパンの札幌実験局で、カガミ・キョウイチ博士に話を聞いた。3年前の冬麻記念病院襲撃事件の当夜当直だった医者に話を聞いた。あとは……、プリティヴィに会った」
「プリティヴィに? それはラッキーだったな」
「実験はまさに、テセウスの船だった。それが推理に必要な最大のピースだった……。ホソミ・ナツヒコは体のパーツを全て取り換え終えていた。精神格納装置でさえ。それはつまり、体から外された全身のパーツが、完全に一人の人間分存在しているということだ。それを使って組み上げれば、ホソミ・ナツヒコはもう一人存在することになる。そして精神が、意識が、そこに生まれてしまったとしたら」
ぼくはそこで言葉を区切り、手の中のグラスを傾けた。氷が僅かに音を立てた。
「生まれてしまった。そう。お前の推理は正しい」
ナツヒコは――ホソミ・ナツヒコを名乗っているその男は、そう言ってぼくの言葉に頷いた。マスターが近づいて来て、ナツヒコの前にビールを置いた。黄金の液体に小さな泡が浮かんで、白い層へと吸い込まれていった。
ぼくはマスターがまた遠ざかるのを待って、視線を落としたまま言葉を発した。
「ホソミ・ナツヒコを殺したのは、君だ」
ぼくの言葉は僅かな音楽に吸い込まれていくように、瞬時に消えた。隣の男に、それは届いただろうか。
ナツヒコはグラスをゆっくりと持ち上げ、ビールを呷った。その一口でグラスの中身は半分程も減ってしまった。
「まさか、お前に見破られるとはね」
「キサナドゥの家へは、入れるんだな」
ぼくはキサナドゥのナツヒコの家に手紙を出したのだった。アマミヤがぼくを助けに来てくれた直後に、ぼくはアマミヤと一緒にナツヒコの家へ行った。アマミヤが「もっと大きな家に住めるでしょうに」なんて言っている横で、ぼくは直接1階の郵便受けに手紙を入れたのだ。
「便利なものだよ。何せ、カイザのバックアップが付いてるからな」
「つまり君は、3人目のホソミ・ナツヒコというわけ?」
「さてね。そんな言葉が何の意味を持っているっていうんだ? ホソミ・ナツヒコという主体は永遠になった。意識は連続しながら終わりを持たない。俺は理論上死ななくなった」
「そう……」
ぼくはモスコーミュールを大きく一口飲み込み、隣にいる男の横顔に一瞬だけ目を遣った。
1週間追いかけ続けたその横顔。その目はどこか虚ろを見つめるように黒く、そして深淵に見つめられているように開かれていた。ぼくはそれから目を離して、モスコーミュールの残りを手に持った。視界の端には臨時ニュースが流れていた。『トウマグループが新型AIキクリヒメ及び新型有機ビヘルタを発表……』
ぼくが何気なくその文字を追い始めた、そのときだった。
大きな破裂音が店内に響いて、一瞬だけ音楽をかき消した。
鼓膜が直接揺さぶられるような感覚。
視界の端でナツヒコが後ろへ倒れていく。
悲鳴、2度目の破裂音。
聞いたことがある。これは銃声というやつだ、と思った。
ぼくはスツールから下りて姿勢を低くし、周りを見回した。カウンターの向こうで、マスターが黒く小さな拳銃を両手で構えていた。
「何を……」
ナツヒコは左目を押さえてスツールごと後ろにひっくり返っていた。しかし、すぐによろめきながら立ち上がる。ぼくは動くことが出来なかった。
3度目の銃声が響く。マスターの手の中の自動拳銃が空薬莢を排出する様子が、スローモーションに見えた。
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