オーブンと暖炉・4

 玄関を出ると、キサナドゥのナツヒコの家の近くのアクセスポイントに飛んだ。キサナドゥは午後8時過ぎで、もうとっくに日は暮れ終わっていた。キサナドゥの乾いた冷たい空気を全身で浴びてその雰囲気を思い出し、ぼくはコートを忘れたことに気が付いた。


 速足で歩道を歩いた。自動車のヘッドライトに幾度か照らされながら落葉の夥しい道を歩いた。路肩に停められている自動車は世界各国の物だったけど、日本車とフランス車が多いようだった。ぼくは自動車の数を数えながら、ナツヒコの家の前の通りに出るべく角を曲がった。そのときだった。


 大柄な男と肩がぶつかった。相手は反対側から角を曲がって、お互いに姿が死角で見えなかったらしい。ぼくは立ち止まって相手の方を向き直り、「すみません」と謝った。相手は軽く手を上げて足早に立ち去ってしまった。赤いニット帽を被ってブラウンのコートを着た、背の高い白人だった。


 ぼくは前を向き直して、再び足を踏み出そうとした。しかし、ぼくの体は前に進むことはなかった。

 後ろから羽交い絞めにされていたのだ。


 現状を理解するのに3秒程掛かった。首には太い腕が巻かれ、左腕は背中側で組まれている。「動くな」と耳元で声がした。後ろを振り向こうとしても、首が動かなかった。空気は少しずつしか吸うことが出来なかった。

 ぼくは大声を出そうとしたけど、冷たい空気が肺と気道に張り付くばかりで、声は少しも出なかった。どうやら、緊張しているらしいと分かった。


「声を出すな。動くな。抵抗するな」

 また耳元から声がした。右腕は動いたけど、首に巻かれた太い腕を剥がそうとしても、それは1ミリも動かなかった。ぼくは、まるで大蛇に襲われたみたいだ、と思った。

 もがいて、相手の脛を蹴ろうと足を動かしたけど、相手の足らしい物に踵をぶつけてみても、何も変化はなかった。


 背後から自動車の近づく気配がした。それは極めて小さな音だったけど、ぼくに電気自動車のモーター音を想起させるには十分だった。きっと想像した通りの物が近づいて来たのだろう。ぼくはログアウトボタンを押したけど、案の定というべきか、ログアウトは出来なかった。


 自動車のドアが開く音がして、軽い足音が幾つかした。ぼくはまた大声を出そうと思ったけど、その前に口をガムテープのようなもので覆われてしまって、結局声は出せなかった。相手は手際が良かった。目の周りには布が巻かれて、ぼくは視界も奪われてしまった。

 突然足が地面から離れる感覚がしたかと思うと、ぼくの体は宙に浮いた。体中を何人かに触られるような感覚。ぼくは担ぎ上げられているらしかった。

 思考がまとまるよりも遥かに早く、そのままぼくは自動車に積み込まれてしまったようだった。ドアが閉まる音がして、自動車が進み始める感覚が全身に伝わる。

 電気自動車は本当に静かだ。夜の拉致にもうってつけだ、とぼくは思った。



 いくらか乱暴に放られて、ぼくは地面に落下した。手首と足首は拘束バンドで動かせないようにされていたし、口にはまだガムテープが貼られていた。立ち上がることは出来そうにない。


 目を隠す布が解かれた。ぼくの目の前にはさっきぶつかった背の高い白人がいた。北欧系のように思ったけど、何を以て自分がそう思ったのか、自分でも分からなかった。


 辺りを見回すと、ログハウスのようなところに自分がいることが分かった。木製の建造物で、その部屋だけでもだいたい20平方メートル弱はあった。それはぼくに、不思議とスウェーデンの風景を思い起こさせた(スウェーデンに行ったことはないけど)。木製の家具が並べられ、暖炉には火が入れられていた。


 そこにいる人間はぼく以外には二人だけで、そのうちの一人が例の背の高い白人だった。ぼくは首や全身を必死に動かして『これを外してくれ』と訴えたけど、それはどうやら彼には伝わらなかったらしい。それとも、伝わった上で無視されたのだろうか。

 ぼくは後ろで縛られている手を必死に動かそうとしたけど、徒に体力を使うだけだった。足も同じように動かすことは出来ず、ぼくは床を這うことも出来なかった。

 ぼくが今度は『ここはどこだ』と訴えかけると、その部屋にあった二つのドアの片方が開いて、誰か別の人間が入って来た。その革靴を履いた足だけが視界に入った。

 ぼくは背筋を使って首を持ち上げ、入って来た人間を見た。

 それは、ベルンハルト・シェーファーだった。


 ベルンハルトが他の二人に手で合図を出す。口のガムテープははがされて、手首と足首の結束バンドも外された。その仕事を終えると、元々いた二人はベルンハルトが入って来たドアから出て行った。

「ジェントルな手段しかとらないのでは?」

 ぼくは床に転がったまま、ベルンハルトにそう言った。ベルンハルトは黒いロングコートを着ていた。眉間に皺を寄せて、ぼくを見下ろしている。

 ぼくは立ち上がって、近くにあった木製の椅子に座った。

「そのつもりだった。今回いつも通りに事が運ばなかったのは、私としても残念だった」

「僕を、どうするつもりですか?」

 ぼくは手首を擦りながらそう訊いた。まだ手首と足首には違和感が残っていたし、ガムテープを乱雑にはがされたせいで、口の周りが痛かった。

「どうもしない。ただ、君と話がしたかっただけだ」

「へえ。話をするのに結束バンドが必要だなんて、知らなかったな。今度からは紅茶とスコーンにして下さいね」

「君の安全は保障する。ただ、今回のことは、黙っていてほしい」

「また、脅迫するのですか?」

「これは脅迫ではない。お願いだ。君には真実を話す権利が保障されている」

「それを誰一人として信じなくても、か」

 ベルンハルトは手を腰の辺りで組んで、まっすぐ立っていた。アマミヤが胡散臭いと言った訳が、いまになってようやく分かったような気がした。


「あなたがたは、カイザの人間ですか?」

「前にも訊かれたね。何か根拠があるのかな」

「カイザが本気を出せば、日本の大学生一人が何を言おうと、あらゆる手段を取って発言が広がらないように出来ますね」

「君には真実を話す権利が保障されている、と言った筈だが」

「話すだけでしょう? 誰もぼくの話なんて、聞きはしない。広めもしないし、本気にすることもしないでしょう。カイザと言えば、いまや世界的大企業だ。ネット上の発言くらい、統制出来るのでは?」

「そうかもしれない。それは、君にとっては不運な事実だ」

「いまどき、ネットで広まらない事実なんて、存在しないのと一緒だ。ぼくの発言がもし真実だったとしても、人々の間でそれが真実として受け入れられることはないでしょう」


 ベルンハルトは暖炉の前に移動して、火を見つめた。ぼくも椅子に座ったまま、暖炉ほうに目を遣る。ベルンハルトの背中が木製の壁と暖炉に、妙に似合っていた。

「君には、ホソミ・ナツヒコのことは調べないようにお願いしたはずだった。お願いを聞いてもらえないと、我々はがっかりすることになる」

「がっかり、か。ぼくだって、人には親切にしたいですよ。人ががっかりしているところを見ると、心が痛む」

「君の良心に感謝したい」

「しかし、ナツヒコはあなたがた以上に、僕にとっては大切な存在だ。彼が生きているのなら、なぜ連絡を寄越さないのか問いただしたい」

「彼は死んだ。爆発に巻き込まれたのは、不運な事故だった。我々もあの事件の犯人が捕まることを祈っている」

「ぼくは、ナツヒコが死んだとは、思っていない。犯人なんてどうだっていい」

 ぼくの言葉に振り向いたベルンハルトと目が合った。ぼくは目を逸らすのを堪えて、ベルンハルトと3秒ほど目を合わせ続けた。ベルンハルトの視線には冷気と殺気が混ざっていた。薪の爆ぜる音が聞こえた。


 そのときだった。さっきベルンハルトが入って来たドアが、再び開いて、人の影が入室してきた。ぼくは、視界の端に映ったその影に焦点を合わせようと首と眼球を動かした。けれど焦点の合う前に、ベルンハルトが姿勢を正すのが分かった。


 開いたドアの前には、赤いサリーを着た女性が立っていた。ぼくは彼女に焦点を合わせた。

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