オーブンと暖炉・3

 長崎工科大学の2号棟と3号棟の間には自販機の並んだ連絡通路がある。ぼくはそこのベンチから立ち上がったところで、意識が連続し始めたことに気が付いた。窓の外では植えられた木々がさざ波のように葉を揺らしていて、周りには誰もいなかった。


 ぼくが3号棟に向かって歩き始めたとき、「あの」と、背後から声を掛けられた。それは、いまでは聞き慣れた声だった。ぼくはこのとき、『またか』と思った。なぜならこのパターンの夢ならこれまで何度も見ていて、今回もお決まりの展開だったからだ。そしてぼくはこのときになってようやく、これが夢であることに気が付いた。そういえば視界が霞みがかっている。


「本、忘れてるよ」

 ぼくは声のする背後を振り返った。そこには想像通りユリコが立っていた。

 これはぼくとユリコの出会いのシーンだ。


 ぼくはいつも通り、「ええと、ありがとうございます」と礼を言った。緊張しているときのぼくの言葉の使い方だ、と自己分析した。意識してその言葉を使った訳ではないけど、この夢の中ではいつだってぼくもユリコも同じ言葉を使うし(そしてそれは実際に使われた言葉だった)、いつだってぼくとユリコは初対面なのだ。


 ユリコは手に持った文庫本をぼくの方へ手渡そうと持ち上げて、しかし視線を表紙に落とし、渡すのを止めた。

「珍しいね。生物工学部じゃないの、君」

 確かにぼくは生物工学部だったし、その本はおよそ生物工学部の学生が読むような本ではなかったかもしれない。ぼくも、ぼくの周りで『論理哲学論考』を読んでいる人間を見たことはなかった。

「なんで、生物工学部だって分かったんですか?」

「3号棟は生物工学部しか使わないもの」

「なるほど」

「私、工学部だけど、ウィトゲンシュタインなんて読んでいる人、いないわ」

「まあ、そうでしょうね」


 ユリコは初対面のときから、ぼくの目を見つめていた。ぼくは同じことが出来なくて、窓の外を見ていた。

「私も読んだよ。でも、よく分からなかったな。語りえないことって、なに?」

 ぼくは「さあ」と肩を竦めた。ユリコは一歩ぼくに近づいた。薄い桜色のロングスカートが揺れた。

 春だった。ぼくは言葉を詰まらせながら、言うべき言葉を探し出した。

「解説書みたいなもの、読むといいですよ。大学の図書館にだってあるし、電子化されているものも多いし」

「ふーん。ねえ、よかったら、分かりやすいの教えてよ。いまから、暇? 図書館行かない?」

「うーんと、いいですけど、あなたは?」

 ぼくがそう訊ねると、天井のスピーカからショパンの『別れの曲』が流れ始め、廊下の果てが渦を巻き始めた。ユリコは踵を返して、その渦へ向かって走り出してしまう。ぼくはユリコを追いかけるべく駆け出そうと思ったけど、ぼくの足は床に張り付いたみたいに動かなかった。

 『別れの曲』に金属音が混ざり始め、やがてその甲高い金属音は段々と間延びしていく。そしてそれは、頭のすぐ上から聞こえるようになった。



 ぼくは寝ころがったまま腕を伸ばして、目覚まし時計のアラームを止めた。時間を確認すると午後9時だった。ぼくはAE上の自宅のベッドの上にいた。ずいぶんとくたびれる夢を見たな、と思った。


 洗面所に行って鏡を見ると、信じられないくらい疲れた顔をしていた。髪を手櫛で整えようとしてもどうにもならず、ぼくは整髪を放棄することにした。なぜ髪型をセレクトして、自動で処理出来ないのだろう。


 寝室に戻って部屋着を脱ぎ捨て、黒い綿パンを穿いて、Yシャツの上に黒いジャケットを羽織った。ユリコからの評判は悪いけど、ちゃんとした格好をしようとするとこうなってしまう。


 わざわざ呼び出されたのだから、身なりに気を付けようと思ったのだ。ぼくは仮眠の前にそう決めたことを思い出して、もう一度洗面所に行き、髪をまた手櫛で整え始めた。結局、髪が整うのに5分も掛かった。


 ぼくを匿名のメッセージで呼び出した人が何者かは分からないけど、とにかくナツヒコの関係者であることは間違いない。ナツヒコの家を指定しているし、何しろこのタイミングだ。ぼくはアマミヤやキノサキにこのことを知らせるべきか迷ったけど、結局知らせることはしなかった。アマミヤはぼくが知らせなくてもどうせ知っているだろうし、キノサキは今日は忙しいというようなことを言っていたからだった。


 ぼくはダークブラウンのローファを穿いた。ネクタイは締めていないし、第一ボタンは開けている。ラフに見えないこともないだろうという判断だったけど、これもユリコの評判が悪い。どうせならフォーマルに寄せ切るべきだ、というのがユリコの評価だった。

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