奇跡的な連続・1

 シャワーの音が聞こえる。


 ぼくは何か暖かいものを、と思って、冷蔵庫の中に余っていた食材で豚汁を作っていた。


 ぼくが住んでいる部屋は1Kで、洗面所兼脱衣所はキッチン(というか廊下)とドア一枚で繋がっている。だから料理をしていると背後から風呂場の音が聞こえる設計なのだけど、普段は一人暮らしなので気にならない。気になるとすればユリコが来ているときぐらいだけど、いまシャワーを浴びているのは、ユリコではなかった。

 ぼくはアマミヤの首筋にお湯の流れているところを一瞬想像しかけて、慌てて首を振ってその妄想を振り払った。



 キノサキを駅まで送ったあと、ぼくは車の中でアマミヤが雨を浴びていたことを思い出して、「寒くない?」と訊いた。するとアマミヤは正直に「寒いですね」と答えたのだった。

「着替えとか、あるの?」

「後ろに載ってます。何日かは帰らなくても大丈夫ですし、鍛えてますし、最悪本体じゃないので」

 そしてそこは、ぼくの家の近くだった。当然だ。アマミヤはぼくを家まで送ったあと、また警護の任務に就こうとしていた。

「風呂に入っていく?」

「いえ、そんな訳には。お上に殺されます」

「君、たまに使う言葉が古いよな」

「そうですか?」


 アマミヤの運転する車は、マンションの前に着いた。ぼくは、後部座席から、雨水の滴るアマミヤの髪を見ていた。


 ワイパーがフロントガラスの雨粒を拭っていた。アマミヤはハンドルを握って前を向いたまま、ぼくに「降りてください」と言った。

「本当に、風呂、使っていいよ。それに、どうせ着替えるんじゃないの」

「いえ、いまはまだ、着替えません。任務に支障が出ますので」

「風邪を引いたほうが、支障は出るさ」

「マヤさん。仕事中にお風呂に入る人はいません」

「そうだ、気になってたんだけど、君、警護の任務は交代でやってるの?」

「ええ……、いえ。詳しくはお教えできませんが、私は改造してあるので、大丈夫なのです……、くしゅん!」

「ほら、暖かいお湯の出るシャワーがすぐそこにあるんだ。それに、ぼくから離れる訳でもない」

「しかし……」

 アマミヤとバックミラー越しに目が合った。ぼくは思い付くかぎりの言葉を重ねた。

「万全を期して任務に就いた方がいいんじゃないか? それに、何時いつになったらシャワーを浴びられるか分からないし……。それに、 相手だって、漸次的な対応は取らないんじゃないかな」

「……分かりました。お言葉に甘えます。しかし、念のため一応バックアップを取っておきます。辺りに仲間がいないわけでもないですしね」

 ぼくは頷いて、ドアを開けて外に出ながら傘を開いた。アマミヤも運転席から降りて傘を差す。雨は酷くなっていて、傘に重い音を立てた。

 アマミヤは後ろのトランクに回って暫く何かをした後、ぼくの横に並んだ。手に大きなバッグを持っている。ぼくらは駆け足でマンションに入った。


 そしてアマミヤはぼくの家の敷居を跨いで、脱衣所に入っていったのだった。



 鍋の中に豚肉を入れて、火の通った野菜と一緒に炒める。アマミヤのビヘルタは有機型だというから、何か食べなければ腹も減るだろう。シャワーの音は絶えず聞こえていて、ぼくはその音を意識しないように手を動かし続けようとしていた。


 ほどなくして、シャワーの音が止まった。ぼくは計量カップで水を鍋に入れていた。風呂場のドアが開いて閉まる音が聞こえる。水を何杯入れたか分からなくなってしまった。ぼくは顆粒だしを棚から取り出したながら、鍋の中をチェックした。水を入れ過ぎていた。


 何秒間かの沈黙。ぼくはじっと鍋の中を見ていた。

 すぐ背後で脱衣所のドアの開く音がした。白いブーケを思わせるような、華やかだけど清純な香りが背後から広がって、ぼくを包み込んだ。嗅いだことのない匂いだ。ぼくは思わず、顆粒だしを右手に持ったまま肩越しに後ろを振り返った。


 アマミヤが「ごちそうさまでした」と言いながら、濡れた頭で小さく礼をした。香りがまた広がって、ぼくの鼻先を掠める。

「ああ、うん、いいんだ」

「何も無かったですか?」

「うん。異常無し」

 アマミヤはいつもの黒いジーンズに、黒い半袖のTシャツを着て、首に白いタオルを掛けていた。片手には黒いパーカーとジャケットを持って、もう片方の手には黒いバッグを持っていた。さっき車のトランクから出していたもので、きっと着替えも入っていたのだろう。


 ぼくは視線を前に戻して、鍋の中を見た。水はまだ、沸騰しそうもなかった。ぼくはそこに顆粒だしを適当に入れて、お玉でかき混ぜた。

「何作ってるんですか?」

「うん、豚汁」

「へーえ。意外にマメなんですね」

 アマミヤは、ぼくの横から鍋の中をのぞき込んだ。シャツ一枚なので普段より体の線が分かりやすかったけど、改造しているとはいえ、強そうには見えなかった。袖から伸びている腕も細い。

「君、意外と線が細いな」

「あんまり見ると殴りますよ」

「君に殴られたら、ぼくは死んでしまう」

「冗談です」

「分かってるさ」


 ぼくはアマミヤへのサービスのつもりで、冷蔵庫から水を取り出してコップに注いだ。アマミヤはつんと鼻先を一瞬だけ上向きにして、それを飲み干した。

「そのシャンプー、うちのじゃないな」

「シャンプーくらい、持ち歩いてます」

「それは、よかった」

「何がですか?」

「君の香りの好みが知れてさ」

 アマミヤは目を細くしてぼくを睨み、口の左端だけを下げた。ぼくはそれが可笑しくて、つい笑いそうになる。

「髪は乾かさないの?」

「ドライヤーはうるさいから嫌いなんです」

「そうか」

「万一に備えているんです」

「万一、ね……」

「マヤさん。本当に手を引くつもりはありませんか」

「ナツヒコは、生きているかもしれない。だったら、会うまで調べないわけにいかない」

「そうですか……」

「心強い護衛もいるしな」

 アマミヤはまたつんと鼻の先を一瞬上向きにして、今度は口の両端を下げてみせた。ひょっとしたらこれは、頷いているのかもしれない。


 ぼくは沸騰し始めただし汁の火を弱め、冷蔵庫から味噌を取り出した。白ごまはないけど、それくらいは妥協してもらおう。

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