関連する人々の言葉・2

 目の前が一瞬だけ真っ白になり、AE上の自宅の前に到着する。辺りの湿度が一気に増して、風の冷たさの種類が変わったように思えた。


 ぼくはその場でメッセージを開いた。こんな時間に誰が何の用か分からないけど、尋常な用事ではないだろうと思った。


 メッセージはエンドウ・マモルからだった。

『話したいことがある。いまから会えないか』

 ぼくは自宅の前にいたけど、しかし目の前のドアは開かずに、踵を返してまた闇の降りかかる夜の道へ踏み出した。歩きながら返信をする。

『AEのエンドウさんの家に伺えばよろしいですか』

 すぐにエンドウから返信が来た。

『そうしてくれると助かる』


 ぼくはエンドウ宅近くのアクセスポイントに飛んで、1分もかからずにエンドウ宅のあるマンションの前に辿り着いた。外観はリアルとまったく同じだった。多少の変更は許されているのに、現実というものに律儀な人がオーナーなのだろうか、と思った。


 エンドウの部屋のインターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。中からエンドウが顔を覗かせる。

「一人か」

「ええ。もちろん」

 エンドウが僅かに開いたドアの隙間にぼくが体を滑り込ませると、彼はすぐにドアを閉じた。


 内装までリアルと殆ど同じだった。やはりシンプルで機能的なデザインのものばかりだ。

「こんな時間にすまない。でも、聞きたいことがあった。というより、確かめたいことだ。率直に聞くが、ホソミ・ナツヒコとは何者なんだ?」

 確かに率直な質問だ、と思った。それはこの件の核になっている問題だろう。しかし、その答えは、ぼくも持っていなかった。

「僕にも分かりません。ナツヒコが何者なのか、分かっているつもりだったのに、この何日か彼の行方を調べているうちに、彼が何者なのか分からなくなってしまいました。でも、どうしてです?」

 ぼくはリビングルームの椅子を座っていたけど、エンドウは落ち着かない様子でテーブルの横を行ったり来たり歩いていた。

「今日、会社に行ったとき、上司に聞いてみたんだ。3年前にカイザが持って行ったビヘルタは何だったのかって。そうしたら、その上司顔色をあからさまに変えて、その話はするなって言うんだよ。明らかに不審だった。それで俺が、ホソミ・ナツヒコって名前でしたねって言ったら」


 そこまで言うと、エンドウは動きを止めてしまった。足も口も、全てが静止画になったように動かなくなったのだ。ぼくは、珍しいことに通信速度の問題だと思った。


 しかし、違ったらしい。

 突然、エンドウの姿は、跡形も無く消えてしまったのだった。

 ログアウトしたことを告げるマークが、エンドウのいた場所に浮かんでいた。

 不審というなら今の状態だ、と咄嗟に思った。


 静寂。

 カーテンの開いた窓から、夜の空が見えた。


 部屋はオートロックだろうから、ぼくは困らない。そしてきっと、エンドウも困ることにはならないだろう。


 少し待ってみようと思った。

 それから10秒ほど、静寂だけが続いた。


「うん?」

 そして突然、ぼくは握っている右手の中に、何かが入っていることに気が付いた。おかしなことだもあるものだ。

 握っていた手を開いてみると、それは白い紙片だった。折りたたまれているそれを開くと、大きさは10センチ四方くらいだ。何か書かれている。

『カイザ・ジャパンのカガミ・キョウイチ』

 一度目を通すと、それは、まるでぼくが読み終わるのを待っていたみたいに、細かい粒子になって消えてしまった。煙が風に流されるみたいに、それは空気の中に溶けていった。


 何のことだろう。

 そう思っていると不意に、ドアが開く音がした。玄関ドアらしい。やはり不審だ、と思った。

 無意識に全身が力む。何か、よくない事が起こっているのではないか、と感じた。


 空白のような静けさ。

 入口の方を向いて何秒か待っていると、少しの音も立てずに、見たことのない一人の男が、リビングルームにゆっくりと歩いて入ってきた。


 高身長の白人。やや彫りの深い顔。短く切りそろえた金髪。ダークグレーの瞳。真一文字に結ばれた口。全身を包む、瞳と同じ色のコート。靴は脱いでいた。

 目が合う。

 ぼくは座っていたから、見下ろされる格好だった。もっとも、あの伸長ではぼくが立っていても見下ろされるだろう。


「そこ、座っても?」

 厚い体に似合わず、薄い氷のような声をしていた。彼が発したのは英語だった。自動翻訳機能はオフになっているようだった。

「どうぞ。ぼくの家じゃありませんけど」

 緊張してしまって、どの程度発語出来ていたかは分からないけど、彼はぼくの対面の席に腰かけた。昨日、現実リアルでエンドウが座っていた席だった。


「私の名前は、ベルンハルト・シェーファー。よろしく」

「ええと、こんにちは。ドイツの人ですか?」

「ああ、そうだ。ドイツで特殊な仕事をしている」

 何となく思い付いたことがあったけど、取り敢えず黙っていることにした。変なことを言ったら、その瞬間に殺されるのではないかと思ったのだ。しかし思えば、ここはVR空間である。殺されるということはないだろうと思い直した。


「君は、マヤ・シンヤくんだね?」

「ええ、そうです。よくご存じですね。ところで、いままでそこにいたエンドウさんという方が急にログアウトしたのですけど、何か知っていますか? ここは、そのエンドウさんのお宅なのです」

「知っている。私たちが彼を退席させた」

「ああ、そうでしたか。ぼくは、退席させないのですか?」

「私たちは、エンドウ・マモルと君に、話をしてほしくないと思っている」

「なるほど、そういうことでしたか。それなら、そう頼めばいいのでは?」

 何となく、心が麻痺している感触がし始めていた。

「頼むよりも、もっと確実な方法がある」

「僕を襲った4人組は、あなたの手先ですか?」

「私は知らない」

 嘘だろう、と思った。ベルンハルトはぼくのことを見つめていた。視線だけで殺されそうだったけど、ぼくは彼の胸の辺りを見ながら、会話を続けた。


「ベルンハルトさん、もしかして、カイザの人ですか?」

「カイザ。大企業だ。私の所属は明かせないが、君一人よりも遥かに大きな存在だということは教えておこう」

「それで、ぼくに何の話をしたいのですか?」

「ホソミ・ナツヒコのことは調べるな」

「やっぱり、その話か」

 ぼくは視線を動かして、メニューを開き、ログアウトボタンを押した。

 しかし、ログアウト出来なかった。

「ログアウトは出来ないようにさせてもらった」

「データをいじると、アカウントを消されますよ」

「冗談を言うのは、そのくらいにしてもらおう。ホソミ・ナツヒコは、死んだ」

「死んだ、か。死んだ人間を調べられて、何かまずいことがあるのですか?」

「それを君に教えることは出来ない。ただ、普通の日常を手にしたいのなら、ホソミ・ナツヒコからは手を引くんだ」

 ぼくはもう一度ログアウトボタンを押した。けど、やはりログアウトは出来なかった。


「エンドウさんをどうしたのですか?」

「どうもしていない。どうするつもりもない。彼はただの技術者として一生を全うするだろう」

「へえ……、意外に、紳士的なんですね」

「冗談を言うな、と言った筈だが」

「それは、脅迫ですか?」

「この会話は録音出来ないようになっている。後々どうにかなるとは思わないことだ」

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