継続する困惑・2
翌日の夕方、ぼくは長崎市のとある坂の中腹にいた。その坂を下った先に、九重重工業はある。
ぼくは黒い傘を差していた。歌にもある通り、長崎は雨の多い街だ。冷たい雨が時折風に吹かれ、ぼくの体を濡らした。
傘の下で時間を確認すると、6時半になろうとしていた。九重重工業は大きな工場を持っていたけど、敷地は一つだけで、その敷地に出入り口は一つだけだった。ネットで航空写真を見ただけではよく分からなかったけど、三つある建物は大きい順に、工場、倉庫、オフィスのようだった。
出入り口のゲートは大きな自動車も通れるように横幅があったけど、警備員や警備用ロボットはいないようだった。そこを出ると三叉路になっていて、正面の道が今ぼくがいる坂だ。
ぼくはそこに1時間立っていた。
出入り口をじっと見つめる。家にある双眼鏡を持って来ればよかったと少しだけ後悔した。とは言っても、視力が悪い訳ではない。エンドウが出てきたときも、確かにその顔が見えたのだ。
エンドウは、まっすぐぼくのいる坂を上ってきた。傘を持っていないほうの手に、カジュアルなバッグを持っている。青いジーンズに、厚手の黒いジャンパーを着ていた。
エンドウはぼくの横をすり抜けて行った。ぼくは1秒だけ数えて、踵を返した。エンドウの後姿が雨に煙る坂の、僅か上方に立っていた。
「エンドウさん」
ぼくがそう呼ぶと、エンドウはびくっと肩を震わせ、肩越しにこちらを振り返った。
「エンドウ・マモルさんですね」
ぼくの声は雨音に消え入りそうだった。体が冷えたのかもしれない。
エンドウの顔を見つめる。写真で見た通りの、やや骨ばった短髪の顔つき。
「そうだが、君は?」
「マヤ・シンヤといいます」
「マヤ・シンヤ……。昨日AEでメッセージを送って来た?」
「ええ、そうです」
「わざわざ、こんな所まで来たの?」
「家が、近所だったので」
「そうか……。友達がうちのビヘルタを使っていたかもしれないんだっけ」
エンドウはぼくの目の前まで近づいてきた。雨の音が気になったのかもしれない。ぼくはエンドウの胸の辺りを見つめながら、言葉を続けた。
「少しだけ、話を聞いていただくだけでいいんです。友達が、生きているか知りたいんです。お時間を頂けませんか」
「……分かった。少しの間、話を聞くだけだ。家でいいかい、近くだから」
エンドウはそう言って、再び踵を返して歩き始めた。ぼくはその後をついていく。ぼくらの隣を大きなトラックが通り過ぎて行って、跳ねた水たまりの水がぼくの足を濡らした。
エンドウの家は歩いて5分くらいの、住宅街に建てられたマンションだった。恐らく単身者向けだろう。エンドウ自身、独身で一人暮らしだと言っていた。室内に装飾は殆ど無く、そこに置かれた物全てが、シンプルな色やデザインで揃えられていた。
エンドウはぼくに乾いたタオルを渡して、「体を拭きなさい」と言った。彼自身も、別のタオルで肩を叩くように拭っていた。
ぼくが余程冷えて見えたのか、エンドウは暖かい紅茶を淹れてくれた。ぼくは礼を言って、それにそっと口を付けた。口の中から食道を通って、体の中が温められていくのが分かった。
僕は紅茶で口の中が湿ったことを確認して、どこから話を切り出そうか考えた。
「エンドウさん。これはぼくの友人の話です。AEでメッセージをさせていただきましたが、あそこに書いた友人のことです」
テーブルの反対側で、エンドウが黙って頷く。
「一昨日、ぼくは彼と
エンドウは自分の紅茶に口を付けて、また頷いた。
「その友達、名前は何ていうの」
「ホソミ・ナツヒコです。歳はぼくと同じ21です」
「ホソミ・ナツヒコ。そうか……」
「何か、知っていますか」
ぼくが上半身を前傾させると、エンドウは顔の前で手を振った。
「いや、いまのは聞かなかったことにしてくれ」
「でも、ナツヒコは、九重重工業でビヘルタを作ったはずなんです。たぶん、本社にも行ったと思います」
「ホソミ・ナツヒコ君は行方不明なんだね?」
「はい」
「それで、君はその行方を探していると?」
「はい」
エンドウは腕を組む。
「止めた方がいいだろうね。危険が迫っても、不思議じゃない」
実際、危険は迫ったのだけど、ぼくはそれに関しては黙っていることにした。
「ナツヒコは、何をしていたんですか。確かに、普通の奴じゃないかもしれない。変わったところもあるし、いつも自分だけの世界に浸っているような奴です。でも、行方を眩ませなければならないような人間だったとは、信じられません」
「自ら行方を眩ませた訳じゃないと思う。確かにホソミ君は九重重工業に新しいビヘルタの発注をした。俺が技術者として、彼の担当をした。だけど」
そこでエンドウは目を瞑り、何かを考えるように眉間に右手で摘まむようにして、しばらく黙ってしまった。
しかしその沈黙は、エンドウによって破られた。
「だけど、ある日、うちの工場にカイザの研究者が来て、彼のビヘルタを持って行ってしまったんだ」
「カイザって、あのカイザですか?」
「そう。カイザと言えば、今やドイツ工業界を牛耳っていると言ってもいいような大企業だ。元々はコンツェルンだか何だかって話だけど、最近じゃビヘルタやらVRやらの研究開発もしてるだろう?」
ぼくは黙って頷く。ぼうっと、目の焦点が外れていくような感じがした。
「ホソミ君は普通にうちでビヘルタを買おうとしていた。買う予定だったのはご親類だったけどな。だけど君の言う通りビヘルタを誰かに貰ったのなら、もしかしたら、カイザで実験に利用されたのかもしれない」
「実験……」
冷たい、嫌な予感が背筋を撫でていった。ぼくは紅茶に口を付けたけど、それはもう冷めてしまっているようだった。およそ温度というものを、ぼくはそこに感じなかった。
そして、いま聞いた話が急激に脳内を流れていき、ぼくの意識に違和感を浮かび上がらせる。
「ナツヒコは、新しくビヘルタを発注したと仰いましたね? 新しく、とはどういう意味ですか? それじゃまるで……」
「ホソミ君は、ビヘルタで九重重工業にやって来た。彼はうちに来たときには既にビヘルタを持っていたんだ」
つまり……、つまりどういうことだろう。
ぼくは掠れた声を、何とか絞り出す。
「何年くらい……、そのビヘルタは何年くらい使っていましたか」
「1年弱だったな。あの歳でビヘルタを持ってるなんて、意外だった」
混乱した。ナツヒコは、高校を卒業してからアメリカに発つまでの間に初めてビヘルタを利用したものだと、ぼくは思っていた。しかし、ナツヒコは実際には、その前からビヘルタを使っていたという。
「無機でしたか? 有機でしたか?」
「有機だったけど、うちに頼んだのは無機だよ。うちは重工業屋だからね」
高校で一緒に昼ご飯を食べた表情が浮かぶ。教室で難しそうな本を読んでいる横顔が浮かぶ。並んで帰ったときの話す声が浮かぶ。
「もう良いかい。そろそろ風呂が入る」
エンドウの声に、ぼくは腰を上げた。礼を言って、エンドウの家を出る。
外では、暗い空に厚い雲が浮かんで、気怠そうに雨を降らせていた。
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