事象の推移・3
これからどうしようかと思っても、何も思い付かなかった。部屋に戻ってから時計を確認すると、午後6時を過ぎていた。
さっきの会話が契機になったのか、ぼくはAEに行ってみようという気になった。またナツヒコが借りているアパルトメントに行ってみてもいいかもしれない。観光をする気分でもなかったけど、ぼくはキサナドゥへ行ってみることにした。
AEにアクセスすると、すぐに新着メッセージを確認した。だけど、ナツヒコからのメッセージは無かった。ぼくはキサナドゥの中心部のアクセスポイントに飛んで、街の雑踏の中に身を投じた。歩きながら思考をまとめようと思ったのだ。
ナツヒコの実家は、まだ長崎にあるらしい。しかし今回の帰省の際の寝泊りをホテルでしていたというから、もしかしたらナツヒコの両親は、ナツヒコが家を出てから引っ越してしまったのかもしれない。あるいは、二人とも亡くなったのだろうか。ぼくは高校時代のナツヒコの家なら前を通ったことがあるけど、もし引っ越していたのなら、もう実家の住所は分からなかった。ナツヒコの親類の人がどこでどんな暮らしをしているのかも、分からない。
爆破事件の被害者は、約20人と予想されていた。現在警察が、行方不明者などとDNAの検証をしているらしい。ビヘルタを粉砕された人が数人警察へ届けを出したとのことだけど、きっと、定期的に記憶のバックアップを取っていたのだろう。
報道によると、使用されたのは何とかいう混合爆薬とのことだった。警察が使われた爆薬などから犯人に辿り着くのは難しいだろうともネットのニュースで読んだけど、あれだけのことをした犯人がこの時代に逃げ切るのは、たぶん不可能だろうとぼくは思っていた。あるいは犯行グループと言うべきなのかもしれない。だけどぼくは、そんなことはどうでもいいと思っていた。
気が付くとナツヒコと再会したバーの前に辿り着いていた。ぼくの足は自然とそちらに向かい、入口前の階段を降りていった。
入店すると、今日はブラック・サバスの『黒い安息日』が流れていた。店内に客はいないようだった。ぼくはこの前の座ったカウンターのスツールに座り、マスターに軽く手を上げた。
「お客さん、昨日もいらっしゃいましたね」
「ええと、昨日でしたっけ。……来たのは一昨日ですよ。帰ったのは昨日だけど」
「そうでしたか? それでも、気に入っていただけたのなら、よかった」
ここまで会話をして、相手がAIではなく人間らしいと気が付く。この時代に珍しいことだ。
「ご注文は?」
「昨日と同じ物を」
かしこまりました、とマスターは言って、背後の冷蔵庫を開けた。ぼくは腰の位置をやや修正して、背筋を伸ばした。
ナツヒコと再会したときの記憶が思い出される。薄暗い店内を歩いて来た、細身の長身。短めの裾から覗く白いソックスが潔癖を匂わせ、腕時計を付ける珍しい装いが彼の性格の、およそ半分を演出しきっていた。
マスターがぼくの前に、モスコーミュールの注がれたグラスを置いた。ぼくは礼を言って、思い付いたことをマスターに訊ねる。
「ぼくと一緒にいた男ですけど」
「ええ、はい。覚えていますよ。あの精悍な顔つきの」
「そうです。この前、つまり一昨日の夜の11時30分ごろですけど、それ以外にこの店に来ましたか?」
「ええ、初めていらしたのは、開店した直後でしたね。キサナドゥがオープンして、すぐです」
「26日の、金曜日ですね?」
「そうです。カウンターの席に座られてね。頼むのはいつもビールです」
「誰か他の人と来たこと、あるいは待ち合わせをしていたことは?」
「いえ、いつも一人でいらっしゃいますよ。どうかしたのですか?」
あの爆破事件は、世界中でニュースになっているだろう。このマスターがどこの人かは分からないけど、その地域でも報道されているのではないかと思えた。少なくとも、CNNとBBCは英語で伝えていた。
しかしぼくは、本当のことを言う気にはなれなかった。
「いえ、すいません。あれ以来会っていないものですから……」
「そうでしたか。ここにはよくいらっしゃいますから、ここに通っていただければ会えるかもしれませんね」
マスターは人の好さそうな笑みを浮かべた。ぼくは何だか、申し訳ないような気持ちになった。
「あの、ぼくと話していた男ですけど」
「ええ。あの後もいらっしゃいましたよ」
「えっ?」
「昨日の夕方でしたか。やっぱりお一人でね。頼むのはやっぱりビールでした」
「昨日の、夕方?」
昨日と言えば、爆破事件が起こった、まだ当日だ。
「ええ、そうです」マスターは何度か頷いた。「そのときもビールでしたね。でも、私が挨拶をしても、ちょっと、愛想が無かったかな。表情が固い感じと言うか、余所余所しい感じでした」
「それは、間違いなく昨日ですか?」
「そうですが……、何か問題がありますか?」
「いえ、すみません」
昨日の夕方、つまり爆破事件の後にナツヒコがこの店に訪れたというこの証言は、果たして信用に値するだろうか、とぼくは考えた。ぼくは少し、人を信じるのに時間がかかるらしい。
ドアが開き、客が数人入店してきた。ぼくはその音を微かに感じながら、いま聞いた情報を反芻していた。
もし本当なら、ナツヒコはぼくとの約束をすっぽかして、バーでビールを飲んでいたことになる。もしそうだったら、どんなにいいだろうと、ぼくは思っていた。
ぼくは、数分間かけてグラスの中身を少しずつ減らしていった。店内には他の客の談笑する声が薄く充満し、マスターは忙しそうに幾つものカクテルを作っているようだった。やがてぼくはモスコーミュールを全て飲み干し、マスターの体の空いた僅かな間隙を狙って合図を送った。
チェックを済ませると、マスターはすぐに定位置に戻ろうとした。徐々に席は埋まりつつあった。ぼくはマスターの背中に声を投げる。
「すみませんが」
「はい、何か」
「あの男がもしまた来たら、友人が会いたがっていると、伝えていただけませんか」
「ええ、構いませんよ」
マスターはお手本のように完璧な会釈をして、他の客の方へと下がっていった。ぼくは少しだけナツヒコがあの時座っていたスツールを眺めて、それから踵を返して店の外に出た。
外の階段を上がって地上に出ると、すっかり夜になっていて、乾いた冷たい風が露出した首元や顔を襲ってきた。ぼくはその風にモンゴルの大地を思い、しかし人の流動し続ける表通りの方へ足を進めた。空には光度の高い星が少しだけ煌めいていたけど、地上でも人工の光が強く輝いていた。ぼくにはそれが、何となく懐かしい光景に思えた。
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