事象の推移・2

 家に帰ると、ユリコが来ていた。と言っても、玄関の前に立っていたのだ。

「どうしたの、寒いでしょ」

「ちょっと、こういうのも良いかなって」

「連絡してくれればいいのに」

 ぼくはそう言いながら掌紋認証と虹彩認証で玄関ドアの鍵を開け、家の中に入った。ユリコも後に続いて入ってくる。


「いつ帰って来るか、分からなかったでしょう?」

「でも、何となく、もう帰って来る気がしてたから」

 ユリコはそう言って微笑を浮かべて、コートを脱いだ。中はモスグリーンのセーターだった。

「何か、暖かいもの淹れるよ」

「うん」

 寒いと言っても気温は確か、20度弱くらい。ぼくはコートを着ていなかったけど、ユリコは少し、寒がりなのだ。基礎体温が低いらしい。


 ぼくはカップにアーモンドミルクを注ぎ、電子レンジで温め始めた。ユリコはリビングのクッションの上に、足を伸ばして座っていた。千鳥格子柄のタイトスカートから、チョコレート色のタイツに包まれた足が伸びていた。

「何か、用だった?」

「ううん、何となく、シンヤくんの顔が見たくなっただけ」

「あそう。……話すことがあるんじゃないの?」

「そういうことはね、もっと自然に聞き出すものよ。そんなストレートに聞いては、駄目」

「へえ……、でも、そういうことって、苦手なんだ」

「知ってる」

 ユリコの横顔に、僅かに髪が掛かった。ぼくは空気を飲み込んで、ユリコの言葉を待った。


 電子レンジから短いメロディが流れた。ミルクが温められたのだ。ぼくはカップをレンジから取り出し、テーブルの上にそれを置いて、ユリコの隣に座った。

「嫌な話?」

「嫌な話じゃない。ただ、あなたが心配なだけ」

「心配、か。ぼくだってもう、そんな歳じゃないよ」

「お姉さんの言うことは、大人しく聞きなさい」

「うん、まあ、考えておく」

 何が原因でユリコに心配されているのか分からないけど、恋人に心配させてしまうのは、少し情けない気もする。

「何か、心配されるようなことをしたかな」

「あなたの、友達のことよ」

「ああ……、そのことか」

 ユリコは崩れた髪を耳に掛けて、ぼくの目をじっと見つめた。

「あなたの友達だし、生きてたらいいって、私も思ってる。だけど、テロに巻き込まれたかもしれないのよ? あなたまで危ないかも知れない」

「それじゃ、まさか、ナツヒコが主体的なターゲットとしてあの爆発に巻き込まれたって言うの?」

「その可能性もあるってこと」

「ちょっと、それは、心配性過ぎるよ」

 ぼくはユリコを安心させようと、口角を上げて笑顔を作ろうとした。その試みが上手くいったのかは分からないけど、ユリコは少しだけ、目尻を下げた。ぼくはユリコの額に軽くキスをした。

「心配させたのは、ごめん。でも、たぶん大丈夫だよ」

「うん」

 ぼくはユリコの肩に手を置いて、一つ頷き返した。ユリコは、いつも通りの微笑を浮かべた。

「さあ、ミルクが冷めるよ」

「ありがとう」

 ユリコはカップを両手で持って、それにそっと口を付けた。


「そう言えば、シンヤくんの高校のときの友達の話って、あんまり聞いたことなかったな」

「そうだっけ。でも、友達らしい友達と言えば、ナツヒコくらいだったな」

「どんな人なの?」

「どんな、か。頭は切れるのに授業は真面目に受けなくて、なのに点数は取ってた。要領がいいのかな。集団行動が嫌いで、休み時間は一人で電子工学とか、熱力学とか、そんな本を読んでた」

「でも、シンヤくんとは仲が良かったんでしょう?」

「馬が合ったんだ。特に何をするでもなかったけどね。そうそう、ナツヒコさ、高校3年に上がったばかりの頃、怪我で入院したんだ。お見舞いに行くよって連絡したんだけど、断られたな。弱った姿を見せたくなかったのかもしれない」

「怪我って、事故か何か?」

「詳しいことは知らないけど、1週間くらい学校に来なかった。入院先も教えてくれなくて、しかもちょうどそのとき、冬麻とうま記念病院の襲撃事件が起きたんだ……。それでさ、ナツヒコも襲われたんじゃないかって心配になって……」

「襲撃事件って、あの?」ユリコは眉を顰めた。

「でも、普通に学校に戻ってきたよ。杞憂だったらしい」

「へえ……。ほんと、仲が良いんだ」

「うん」

「でも、私考えたんだけど、彼、ビヘルタで日本に来ていたかも知れないのよね?」

「どうだろう。キサナドゥで会ったとき、ビヘルタの話題も出たんだけど、そんな話はしてなかった」

「そっか」

「キサナドゥって、何なんだろう」

「うん?」

「あそこだけ空気が明らかに違うんだ。AEって、プリティヴィが統括してるでしょ」

「そうね」

「キサナドゥだけ、プリティヴィの趣味に合ってない気がするんだよね……」

「趣味、か」

 ユリコはカップをテーブルに置いて天井を見上げた。ぼくは書籍のアプリを立ち上げて、プリティヴィ特集を組んだ雑誌を開いた。


 AI『プリティヴィ』が、インド国立科学情報研究センター(通称アンディ)の科学者アヌプリヤ・ミストリィによって開発されたという、簡単な略歴。サリーを着たアヌプリヤの写真と、1万字のインタビュー。

『何故プリティヴィを作ろうと思ったのですか?』

『人間が地球を制御するのには、限界があると思ったからです』

 アヌプリヤは目鼻立ちがくっきりとした顔に穏やかな表情を浮かべて、頭の後ろで黒い髪を纏め、耳に金色の大きなピアスをしていた。なかなかクラシカルな恰好だ、と思った。

 実際、プリティヴィ無くしてAEはあり得ないだろう。AEの方が先に始まった開発は途中頓挫し、高機能AIの開発を待ったというエピソードを聞いたことがある。

 そして、それを完成させたのがアヌプリヤ・ミストリィだった。いまでは、科学史の講義でも生体工学の講義でも、何の講義だって登場する名前だ。


 ユリコがぼくの肩を軽く一度叩いた。ぼくは現実に引き戻され、書籍のアプリを終了した。ミルクを入れたカップは空になっていた。

「あ、うん、なに?」

「私、そろそろ帰るわ」

「えっと、そう? いま会ったばかりなのに」

「ちょっと顔を見に来ただけだから」

 ユリコはそう言ってぼくの唇にキスをした。ぼくは大人しくそれを受け入れ、ユリコは立ち上がってコートを羽織る。ぼくも立ち上がった。

「また連絡するわ」

「うん」

「本当に、気を付けてね」

「分かってる」

 ユリコは一度ぼくの両手を彼女の両手で握りしめ、「心配させないでね」と呟いた。ぼくは黙って頷いた。


 ぼくは、ユリコをマンションの玄関で見送った。ユリコは道を曲がるまで何度も立ち止まっては振り返り、ぼくはその度に手を振って彼女に応えた。

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