一連の事象の発端・4

 キッチンの窓はカーテンが付いていない代わりに磨りガラスで、歪んだ夜の闇が見えた。ぼくは水道水をグラスに注ぎ、それを持ってリビングに続くドアを開けた。


 リビングに戻ると、ベッドの上でユリコが寝息を立てていた。先ほどから恰好は変わっていなかった。白いシーツが暗い部屋の中で皺を作っていた。

 ぼくはベッドサイドに置かれた紙袋から、睡眠導入剤や幾つかの処方された薬を取り出し、それを口の中に含んだ。水でそれを喉の奥に流し込むと、ユリコが寝返りを打った。

「うん……、シンヤくん?」

「起こしちゃった?」

「ううん、また寝るから……」

 ユリコはブランケットを体に巻き付け、再び眠りに着いた。穏やかな寝息を確認し、ぼくはその隣に体を丸めた。



 夢を見ていた。

 暗い空間にイメージが集中しては散逸していく。

 通っていた高校の、教室の真ん中にナツヒコが立っているのを、真正面から見ていた。

 高校時代のナツヒコのままだった。

 窓から入ってきた夕日が教室を赤く染め上げていた。

 ナツヒコが体ごと反対側へ振り向く。

 しかし映像は、真右に振れて後ろを振り返った。

 コートを着たユリコが立っていた。

 ぼくは彼女に近づいていく。

 ユリコはコートを脱いで、床に投げ捨てた。

 下に着ているセーターの裾を捲っていく。

 その中には、

 白い肌ではなく、

 真っ白な何もない空間が、



 隣には誰もいなかった。

 左側頭部が軽く痛む。時計を確認しようとすると、家の近くのスピーカーから正午を告げる鐘の音が響いた。ベッドにはぼく一人だった。


 テーブルの上には紙片が置かれていて、ユリコの字で、『なんだか申し訳ないので起こしませんでした。また連絡します』と書かれていた。こんなアナログなことをするのは、この世で最早ユリコだけだろう。


 ぼくは顔を洗い、支度をして家を出た。家から長崎駅までは、路面電車で30分もかからない。実際、駅前に着いたとき、まだ12時45分だった。

 ぼくは階段を使ってデッキの上に上りながら、メッセージアプリを確認した。新着メッセージはゼロだった。


 辺りや駅の中の探しても、ナツヒコはまだいないようだった。ぼくは音楽プレイヤーのアプリを立ち上げて、アグスティン・バリオスの『大聖堂』を再生し始めた。無論、最近のミュージシャンが演奏した音源だった。


 デッキの上に設置されたベンチに腰掛けた。空を見上げると、晴れた空にドローンが何機か飛んでいるのが見えた。離れた位置に鳥も飛んでいる。


 ぼくは、今朝何も食べなかったことを思い出した。立ち上がって何か食べ物屋がないかと辺りを見回したけど、残念なことに、何屋も見つからなかった。大人しく地図アプリを立ち上げて、食べ物屋を検索する。

 デッキを降りて少し歩いたところに、移動販売車のホットドッグ屋があった。ぼくは時計を見て、まだ約束の時間まで少しあることを確認してから、近くに降りる階段を探した。


 階段を降りて地図の通り歩きホットドック屋に行くと、移動販売車の前には人が列を作っていた。ぼくはもう一度時計を確認して、その列の一番後ろに並んだ。列に並んでいるのは20歳くらいから50歳くらいまでの人々で、ぼくくらいの年齢の人もいた。ぼくは知らなかったけど、人気の店なのかもしれない。


 店のロゴの入ったエプロンをした小柄な若い女性が一人車の外にいて、並んでいる人たちに注文を取っていた。車の前に展示されているメニューを見ると、一番スタンダードなホットドッグが一番美味しそうだった。話しかけられることを想定して、ぼくは再生している音楽の音量をやや下げた。


 しかし、列は全然進まなかった。また、注文を取られもしなかった。何かトラブルがあったのかも知れないし、単に丹精込めてホットドッグを作っているだけかもしれない。ぼくはメッセージアプリを立ち上げ、ナツヒコに『ホットドッグを買うのに手間取っていて遅れるかも知れない。ホットドッグ、いる?』とメッセージを送ろうとした。


 けれど、送れなかった。

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