一連の事象の発端・2

 最近、AEもう一つの地球のモンゴルに、キサナドゥという大きな都市が完成した。まるでテーマパークのようなその都市がオープンになったのはつい昨日のことだけど、オープンする前から、メディアは連日その話題で持ち切りだった。サーバーがどこにあるのかはセキュリティ上の理由で明かされていないけど、本当にモンゴルにあるのではないかと、ネット上では囁かれている。現実のモンゴルは、いまはそれどころではないらしいけど、アジアのどこかにあるのは本当らしい。


 キサナドゥは主に若者の間で大流行りで、昨日は世界中からアクセスされたらしい。サーバーが落ちるかもと一部の人間は囃し立てたけど、回線が遅くなることもなく、キサナドゥの封は切って落とされた。



 ヴァーチャル上の自宅のベッドで目を覚ますと、ちょうど日付が変わり、視界の端にゼロが四つ並んだ。窓の外は暗く、そこには室内とぼくが映りこんでいた。AEでの姿はリアルとそっくりにしか設定出来ない。ぼくは改めて自分の姿を見ながら、よく似ているな、と感心した。


 玄関を出て、駐車場に停めてある自動車の運転席に乗り込んだ。キサナドゥまで、とオートパイロットに告げ、シートに腰を沈める。


 ぼくがシートベルトを着用したのを確認して、自動車はゆっくりと走り出した。現実世界ではそうはいかないけど、ヴァーチャルの世界では、ぼくが住んでいる長崎市からモンゴルまで5秒で着く。歩いて行っても構わないのだけど、事前にマップを見るとキサナドゥは東京都の半分くらいの広さがあるし、車道も整備されているという。なんと酔狂なことか、21世紀の最後の年になっても人類は、まだガソリンエンジンの自動車に乗っている。ヴァーチャルの世界で、だけど。


 それほど加速することもなく車は少しだけ車道を走った後、窓の外の景色が真っ白になった。

 けれどそれは一瞬のことで、すぐにまた外に景色が見えるようになる。



 窓の外は見たことのない風景に変わった。墨絵のような暗い空に黄色い月がぽつりと浮かんでいた。空は非常に低い位置まで迫ってきている。キサナドゥの入り口に着いたのだ。


 車内のスピーカーから、目的地周辺との人工音声が聞こえた。辺りには何十台もの自動車が幾つかの列を成していて、ちょうど動物園の入り口みたいになっていた。あるいは、国境のようでもある。いや、キサナドゥは特別行政区域だから、国境そのものと言っても過言ではないかもしれない。


 交通渋滞の先には白いフェンスが並べられ、警察の制服を着た人が検問をしていた。これは半分演出だけど、同時並列で何台ものコンピュータをチェックしないために順番待ちさせているのは事実らしい。


 ぼくはカーナビの液晶をいじって、ドヴォルザークの『新世界より』をステレオから流し始めた。現代のイギリスのピアニストが演奏している音源だった。流れ始めたピアノの音を鼻歌でなぞりながら、運転席のドアの窓を全開にした。

 乾いた風が吹き込んできた。

 頬の肌を空気が撫でる感触。

 しかし風は一瞬で止み、辺りからはエンジン音が聞こえ始める。色々な国の、色々な年代の自動車が並んでいた。自動車の見本市か、あるいは博物館のようだった。博物館で運転は、しないだろうけど。


 ぼくは暫く外に並ぶ自動車を見ていた。ヴァーチャルだろうと自動車を買うのにはお金がいるし、ぼくは車が特別好きな訳ではないけど、何となく自分が浮足立っているらしいことが分かった。


「名前と年齢は?」

 気が付けば窓の外に検閲の警官が立っていた。ぼうっとしている間に、ずいぶんと進んだらしい。警官は大柄な白人で、真っ黒なサングラスをかけていた。太い腕で、その腰から下げている警棒を持ったらどんなに威圧的だろうと、ぼくは一瞬想像した。

「マヤ・シンヤ。21歳」

 そんなこと、権限で認められているパスを使えば一瞬で分かるだろうに。いや、検閲にもマニュアルはあるのだろうか。マクドナルドの店員みたいに。

「目的は?」

「観光です」

「飲酒していますね?」

「ですから、オートパイロットにしています」

 というか、血液中に一定濃度以上のアルコールが検出されると、ヴァーチャル上だろうと自動車は運転出来ない設計になっている。人は死なないけど、それでも混乱は起こるからだ。


 大柄な警官はこちらを向いたまま3歩ほど後進し、こちらに向かって前に進むよう手で合図した。ぼくは軽く会釈して、窓を閉めるスイッチを押した。


 すぐに自動車は発進した。もちろんぼくがアクセルを踏んだのではない。バックミラーの中で小さくなっていく警官を眺めながら、AI人工知能相手でも肩に力の入ってしまう癖に、少し悲しくなった。


 ヴァーチャル上の警備員や警察官は、今や殆どAIの受け持つ範囲になっている。いまの警官も、恐らくAIだろう。ぼくは入れなくていい力が全身に入っていることに気が付いて、意識的に深呼吸を繰り返した。


 自動車はすぐにキサナドゥの郊外から、中心街に入った。走行する自動車の窓から眺めるキサナドゥの街は、千変万化だった。地球上のすべての現代の文化をごった煮にして究極まで煮詰めたような、そんな街だった。高層ビルが並んで、けばけばしい色の明かりが夜に溶け込むように瞬いていた。噂に聞いていた以上に街は興奮していて、熱気が満ちていた。


 オートパイロットに適当に流すように言って、ぼくはシートのリクライニングをやや戻した。フロントガラスから覗くものは摩天楼の根本、そして上気した人々の顔だった。


 程無くして、ぼくは人混みに酔ってしまった。

 まったく情けない話だ。まだキサナドゥに入って10分と経っていなかった。時計を見ると時刻は11時30分。モンゴルと日本の時差は1時間だから、まだAEにアクセスして30分ほどしか経っていない。


 ぼくは、適当に見つけたバーに入ることにした。AEでもアルコールを摂取すると軽い酩酊感が得られるけど、ぼくは酔いたい訳ではなかった。ただ、その店が一番近かったのだ。


 近くの駐車場に自動車を停めて、歩いて路地裏に入り、狭い階段を降りて店に入った。店内は薄暗く、静かな中に、僅かな音量でディープ・パープルの『ハイウェイ・スター』が流れていた。

 店内はれほど混雑はしてはおらず、ぼくは空いていたカウンターの席の高いスツールに腰掛け、アジア系のマスターに「何か爽やかなものを」と注文した。


 出てきたのはモンゴルのアルヒというウォッカで作ったモスコーミュールだった。ぼくは口の中を湿らせるくらいそれを口に含み、ささやかに聞こえる音楽に耳を澄ませた。モスコーミュールは確かに、爽やかな味だった。


 人混みが苦手になったのはいつからだったろう。気が付いたときから、と言えばそれまでだけど、高校生くらいまでは、いまほど苦手ではなかったはずだ。大学に上がったころから、なんとなく人口密度の高い場所にいることが、精神に来るようになってしまった。大学も2年通って、それで休学している。

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