キサナドゥの城壁

朝野鳩

一連の事象の発端・1

 乾いた風が肌を撫でて、どこかに去っていった。ぼくは首を竦めて、そろそろ帰ろうかな、と思い立つ。横にいるユリコに視線を送ると、彼女と目が合った。

「ずいぶん、日が落ちるのが早くなったね」

 ユリコはそう言って、ぼくに笑いかけた。いつも通りの、幸せそうな微笑だった。黒く長い髪がマフラーに巻かれ、落ちかけた夕陽に艶を出していた。

「もう、帰ろうか」

 ぼくの言葉に頷いたユリコはマフラーに首を埋めて、ぼくの右手を握る左手の力を少しだけ強めた。



 こうやって会うのは久しぶりだった。

 公園の木々は見事に色づいていて、黄色やオレンジの葉が空に広がり、あるいは絨毯のように足元に広がっていた。ぼくらは体を寄せ合って、その下を、上を歩いた。


 木枯らしが吹いたとかニュースでやっていたのを、ぼくは思い出していた。冷たい空気は風になって、ぼくらに吹きつけた。風が吹くたびに、木から色づいた葉が舞った。強い風が吹けば地面に積み重なった落葉が舞い上がり、ときとしてそれはぼくらの体に体当たりしてきた。


 ぼくの手を握るユリコの髪から、冷たい風に乗って芳香が香って来る。ぼくは何となく落着かない気持ちになって、ユリコと反対側のほうに顔を向ける。

「どうしたの? 何かあった?」

 しかしそう言われて、ぼくはすぐに振り向く。すると、すぐ近くにユリコの顔があった。それは、幸せなことなのだろう。ぼくはそう思うと、歩む足を少し遅くしようと思った。こんな長閑で平穏な時間がいつまでも続けばいいと思った。



 ぼくは、住んでいるマンションの一室にユリコを招いた。もとより今日はそうする予定を二人で立てていたのだ。

 家に入るとすぐに鍋を出して、夕飯の準備を始めた。メニューは、鶏肉と白身魚がメインの鍋料理だ。名前を何というのかは知らないけど、ユリコがこれが良いと言ったのだった。


 ぼくは具材を切る係で、ユリコはそれを鍋に入れる係だった。ぼくらはときに目を合わせては微笑みあい、準備を進めていった。


 視界の端に時計を映すと、夜の7時を少し過ぎていた。普段に比べれば早い夕食だけど、そのあとの為にワインを準備してある。ネットで買った安物の赤ワインだけど、ユリコが好きな銘柄だった。いまどきアルコールを摂取するひとは少数派だけど、珍しいことにぼくらは二人ともその少数派に属していた。


 ぼくは冷蔵庫からパッケージされた鍋のスープを取り出し(本当は常温で保管出来るものだけど、食品はなんでも冷蔵庫に入れる癖がぼくにはあるらしい)、裏面の調理の仕方を確認した。スープの素は水で割る必要はないとあった。具材は切り終わったし、もうぼくはすることがなかった。


 スープの素を持ってリビングルームへ行くと、こちらを背にしてユリコが立ち尽くしていた。いや、ただ立っていただけなのだけど、ぼくには立ち尽くしているように見えたのだ。メールのチェックでもしているのかもしれないし、美味しい鍋の作り方を調べているのかもしれない。

 ぼくはそっと彼女の背後に近づいていった。細い背中は流行りの黄色いセータに包まれ、それは美しく腰のラインを浮かび上がらせていた。

「なにしてるの」

 ぼくがそう呼びかけると、ユリコの背中が少しだけ跳ねた。驚かせてしまったらしい。

「なんでもない、ちょっと」

 ユリコは瞬きをしながらこちらを振り向いた。そこにはいつも通りの微笑があった。

「寒くない?」

 ぼくはそう言いながらエアコンのリモコンを探した。またどこかにやってしまったようだった。

「大丈夫、お鍋もあるし」

「そう」

 ぼくは頷きながら、スープの素の封を切った。中身を鍋の中に流し込んでいく。すべて出し終わってからカセットコンロに火を付け、鍋を温め始めた。


 ユリコはテーブルの前に足を伸ばして座って、背の低いベッドに背中を預けた。ぼくはユリコの斜め向かいに座った。

「しばらく時間がかかるだろうから、先にワインを飲もうか?」

「それなら私、何か作るよ」

「いや、ジャーキーとピーナッツならあるんだ」

「お酒飲んで、大丈夫なの?」

「うん、まあ、少しなら大丈夫だよ」

「ほんと?」

「大丈夫じゃなさそうなら、薬は飲まない」

「それ、大丈夫じゃないんじゃない?」

「平気、だと思う」

 本当は全然平気ではない。それでも、赤ワインしか似合わない夜もある。ぼくは、なお心配そうな顔のユリコを横目にキッチンから赤ワインとおつまみを取ってきて、ボトルのキャップを開けた。


 ぼくらが赤ワインを交えてお喋りをしている間に、鍋のスープがぐつぐつと煮立ってきた。鍋の中で小さくなった野菜を端に寄せて隙間を作り、そこに鶏肉と白身魚の切り身を入れていった。


 ユリコとこんな風に一緒に食事をするのは、いつぶりだろうか。

 ぼくが大学を休学する前は、よくキャンパス内の学食で一緒に昼食を食べた。夕食だってよくうちにユリコを招いたし、ぼくがユリコの家に行ったこともある。もちろん外食をすることもあったし、去年は二人で箱根に旅行に行った。


 ぼくは少しだけ感傷的になっている自分に気が付いて、意識的にその思考を振り払おうとした。

「どうしたの?」

 ユリコの声がぼくに問いかける。優しい、丸みのある声。ぼくの好きな声だ。

「いや、何でもない。箱根にいったときのことを思い出してた」

 ユリコは口元を手で押さえて少し笑った。

「また行けたらいいね」

「冬にでも、また行こうか」

 ユリコは曖昧に頷いた。ぼくのことを気遣っているのかもしれないな、と思った。



 鍋は美味しかった。いまどき珍しい本物のワインも値段も割にいい味だったし(ぼくは飲むのは2回目だけど、1回目がどんな味だったのかは覚えていなかった)、ユリコとのお喋りも楽しかった。


 750ミリリットルのワインを、ユリコは殆ど一人で飲んだ。ひょっとしたらぼくに飲ませないようにしたのかもしれないし、ただ喉が渇いていたのかもしれなかった。どちらにしてもユリコは鍋が残っている間に酔っぱらってしまい、ぼくらはシャワーを浴びる前にベッドに入ることになった。


 天井のLEDとリンクさせているアプリを視界の端に呼び出し、明かりを少しずつ絞った。ユリコの白い肢体が暗闇のなかに浮かび上がり、その細い指先がぼくのシャツのボタンを外していった。


 ぼくはユリコと久しぶりに食事が出来て、嬉しかった。ユリコもそうだったのだと思う。夜は突風が吹くように更けてしまった。



 ぼくは普段酒を飲まない。薬を処方されている医師からアルコールは控えるように言われていたし、アルコールも薬も飲むと、次の日に寝すぎてしまうからだ。だけど、疲労感と脱力感を感じるこの時だけは、アルコールの力を借りたくなってしまう。


 白い肌を剥き出しにしたまま眠るユリコの寝顔を見守りながら、ぼくは暗い部屋で缶ビールを呷った。

 エアコンのリモコンはベッドの下に落ちていて、ぼくはそれを使って暖房の電源を入れた。エアコンもAR拡張現実のアプリで動かせるようにしたいのだけど、ぼくはまだその機能が付いていない古いエアコンを使っていた。物持ちが良いとユリコは言うけど、ぼく自身、そうは思っていなかった。そう言えば、カセットコンロを初めて見せたときも、「こんなもの持っているのはシンヤくんだけだよ」とユリコは笑った。


 音を立てないように脱いだ服を拾って、それを着ていった。静かにテレビの横からゴーグルを取って、それを持ってリビングルームを出る。台所の電気を付けて、ARCL拡張現実用コンタクトレンズを外して容器に仕舞った。容器の中には除菌液が入っている。


 シンクの下の調理器具入れを背もたれにして、床に直接座った。フローリングはひんやりと冷たかった。


 片手に持っていた缶ビールを床に置き、ゴーグルを頭にセットする。顳顬こめかみのあたりのスイッチを入れて、体内のチップとゴーグルを無線で繋ぐとすぐに通信会社のロゴが見えて、OSオペレーティングシステムが立ち上がる。自動でネットに接続したのを確認して、AEアナザ・アースのアプリを立ち上げた。

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