第16話 医者見習いの少女
────指一本動かせなくなるほどの凄まじい疲労感に襲われ、安杖ミコトはシェルター第一層の仮眠室の床に、肢体を投げ出していた。
今日は初めて、医務室での勤務があった。ミコトはまだ十四歳の医者見習いだったが、現場に出るのに充分な知識と技術が備わったと判断され、仕事を与えられたのである。
死に物狂いで努力し続け、ようやく踏み出した一歩ではあったが、こんなはずではなかったというのが正直なところだ。
四層の出身である彼女は生活に余裕があり、労働も課せられていなかった。その代わり、物心ついた時からずっと勉強漬けの毎日だった。
常に労働力不足なこのシェルターでは、子供だろうと働いてもらうしかない。しかし教育を疎かにした結果、知識の継承が途絶えれば、シェルターの滅亡は免れない。
その問題を解決するため、ここでは一部の優秀な知性を持った子供だけを四層に集めて労働を免除し、将来の医者や研究者を育てるための育成プログラムを受けさせることになっている。
ミコトもその優秀な知性を持つ子供たちの内の一人だった。与えられた課題をこなし続け、適正判断の結果医者になることを決められ、わき目も振らずに勉強に取り組んだ。
なんで勉強するのか、ということを考えたことはない。そうするのが当たり前だったからしていただけだ。
医者という仕事に憧れはなかったし、なりたいと思ったこともなかったが、抵抗もなかった。だから順当に勉強を重ね、ついに今日、初仕事の日を迎えたわけだ。
「はぁ……もう無理……」
それがまさかこんなに忙しいだなんて、裏切られた気分だ。一日に数人程度診察して終わりかと思っていたのに、実際は一分と途切れることなくひっきりなしに次から次へと患者が来て、場合によっては殴られたり怒鳴られたりすることもある。
まだ大した役割を任されているわけでもないのに、この疲労具合。もしこのまま順調に出世してしまえば、さらに仕事は増えることになる。
「誤診を連発すればクビになるかな……」
そんな考えが浮かぶぐらいには追い詰められていた。まだたった一日勤務しただけなのに、これまで何年も積み重ねて来た努力を全て放り出して逃げたい気分だった。
彼女の優秀な頭脳は、既にこの仕事をどう乗り切るかを考え出すことを諦め、どうすれば最も穏便にこの仕事を辞められるかという問いの答えを出すためにフル回転していた。
「普通に逃げるだけじゃ連れ戻される……私一人を育てるのに結構な手間をかけてるはずだから、生半可なことじゃクビにしてもらえないよね……。患者さんを殴ったらどうなるんだろう……? それでもお説教されるだけでクビにはならないかな……」
人材不足の問題は、彼女が辞めたら即座に破綻するほど切羽詰まっているわけではないが、それでも医者候補は無尽蔵にいるわけではない。これまで何年もかけて育成してきた貴重な人材をそう容易く手放すとは思えない。
何をやってもすぐに連れ戻される未来しか見えない。半端な手段では駄目だ。劇的で、大胆で、取り返しのつかないような手段でなくてはどうにもならない。
「けど、私にそんな度胸ないよぉ……」
患者に大声を出されただけでパニックになってしまったのだから、そう大それたことなどできるはずもない。
それに、この仕事を辞めた後のことはどうするのか。そのまますぐ次の仕事をすんなり紹介してもらえるわけもないだろう。なにせ初日で辞める医者なんて、恐らくはシェルターの歴史上初だ。
それはもう、歴史上例のないほどの重たい罰が下るに違いない。
この激務から逃れて優雅な生活を送ったという前例など作ってはならないのだ。下手をすればシェルターから追放されることだって有り得る。
外の世界で生き延びろと言われるよりは、流石にこの激務に耐える方がマシだ。他の医者候補だって耐えているのだから、自分にも耐えられないことはないはず。そう考えれば少しは前向きになれるかもしれない。
「いや……無理だよぉ……本当無理……」
残念ながら、この疲労感は考え方一つでどうこうできるものではなかった。
ミコトはあまり仕事が早いタイプではない。優秀な頭脳を持っていることに間違いはないのだが、要領が悪いのだ。目まぐるしく回る医療現場では、本来の力など全く出せない。
医者の適性があると判断した人を恨みたい気分だった。どう考えても、その判断は間違いだった。まさしく節穴だ。
「せめて……ベッドの上で寝ないと……明日も仕事が……」
仮眠室まで辿り着けたのだ。あともう一歩踏ん張って、ベッドの上で横にならなくては、疲れが取れないまま明日を迎えることになる。
疲れて眠いはずなのに、少しも眠気が襲って来ないこの嫌な感覚も、ベッドに入ってしまえば良くなるはずだ。
そう信じ、彼女は重たい体を何とか起こしてベッドにもたれかかった。
「────安杖さん! 何してるの! 早く来て!」
その時、背後から先輩医師の鋭い声が飛んでくる。疲れが吹き飛ぶことはもちろんないが、反射的に体がシャキッと動く。
「招集かかってるでしょ⁉ 早く‼」
「え、えと……あの、私、今日の仕事はもう……」
「さっきの音、聞いてなかったの?」
「お、音……?」
ミコトは先輩の言っている意味が分からず困惑の表情を浮かべる。ついさっきまでどうしたら現実から逃避できるかを考えるのに全力を尽くしていたのだ。何か特徴的な音が聞こえたような記憶はない。
「な、何のことで────」
ひょっとして、何か重大な知らせを聞き逃していたのかと、恐る恐る確認しようとした時、仮眠室のベッドがひっくり返るほどの揺れがミコトを襲った。
「きゃあああっ⁉」
ホワイトラインで戦闘が起こり、シェルターが揺れること自体は珍しくない。しかし今回の揺れは未だかつてないほど大きいものだ。
それに、四層と一層では揺れの大きさが全く違う。ずっと四層に住んでいて、初めて一層に来た彼女からすれば、この揺れはこの世の終わりを想起させるような超常現象であった。
「外で大規模な戦闘があったみたい。負傷した兵士が大勢運ばれてきてる。安杖さんも早く来て!」
「せ、戦闘……? 兵士……?」
「このシェルターが襲われてるのよ‼ あなたがモタモタしていて、兵士の治療が遅れたら、ここが滅ぶかもしれないわよ!」
「え、え? 滅ぶって……」
唐突にそんなことを言われても、まるで現実感がない。どうせ大袈裟に言っているに決まっていると思いたいが、目の前に立つ先輩の目は大真面目だ。どころか、怒りを孕んでいるようにも見える。
「モタモタしないで! 早く‼」
結局ミコトは状況が呑み込めないまま、手を引かれてついさっきまで仕事をしていた医務室へと戻ることになった。
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