第17話 責任と逃避
地獄なんて行ったこともないし、見たこともない。しかしきっと、そこにはこんな光景が広がっているんだろう。
ミコトが医務室に入ると、部屋の隅々までびっしりと血を流した兵士で埋め尽くされていた。
ほぼ全員に共通して火傷跡があったが、それは焼かれたというより、溶かされたというような状態に近い。何か膨大な熱の塊を全身で浴びたような感じだ。
「要塞に穴が……もう、ここは駄目だ……」
倒れこむ兵士の一人が、ミコトの足にしがみつきながらうわごとのように言う。
「要塞に大穴を空けられちまった……たった一人で……あんな奴がいるなんて……」
「お、おち、おちおち、おっ……落ち着……落ち着いてください!」
暴れる兵士以上に大暴れしながら、ミコトは怪我人をベッドに縛り付ける。呆れた様子の先輩も手を貸し、何とか固定することに成功した。
「何をしているの。もっとシャキッとしなさい!」
「す、すみません……」
「敵は要塞を破壊して、ホワイトラインを突破して来てる。もうここのすぐ外まで迫っているはずよ。私たちの役目は、動ける人を優先して治療して、すぐに戦場に送り出すこと。それができなきゃ、ここは滅亡するわ」
「も、もう敵がすぐ近くまで……」
「ボサッとしないで。やれることをやりなさい」
先輩に背中を押され、ミコトはとりあえず手を動かす。しかしその頭の中は目の前の患者のことではなく、迫りくる敵のことを考えていた。
兵士は要塞に穴が空いたと言っていた。それが比喩的な意味ではなく、本当に穴を空けられたのだとするならば、その割には重傷者が多い気がする。
ミコトは要塞を直接その目で見たわけではない。しかし頑強で巨大な壁であるということはわかっている。通常兵器で正面から破壊するのは極めて困難であり、並大抵のステップではその壁を越えることなど不可能。
突破されるだけでも一大事なのに、穴を空けられたなんて、にわかには信じ難い話だ。だが、仮にそれを真実とするならば、怪我人はもっと少なかったはずだ。
頑丈な壁が吹き飛ぶほどの攻撃を受ければ、要塞の中にいる兵士たちも同様に吹き飛ぶのが道理なはず。つまり、重傷どころか、跡形もなく消えてなくなるぐらいでなくてはおかしい。
それなのに、こうして多くの兵士が医務室まで辿り着けていて、戦場に復帰できそうなレベルの怪我に留まっている。まるで余計な犠牲者を出さないよう手加減でもされたみたいだ。
とはいえ、歴史上最悪級の惨状であることは間違いない。モタモタしているとこのシェルターが滅ぶというのは、決して脅しではないと肌で実感する。
敵と対峙していないミコトも、敵と対峙してきた兵士から間接的に、敵の強大さを思い知らされる。
こんな地獄をたった一人で創り出すのだ。きっと、悪魔のような風貌をしているに違いない。
ステップがどんな外見をしているのかミコトは知らないが、人間とは思えないほど邪悪に変貌した存在をイメージしていた。この寒さに耐え、かつ超常的な能力を使う人間なのだ。もはやそれは人間と呼んでいいのかどうか。
「はぁ……もう、目が霞んで……」
目の前に危機が迫る中、一人でも多くの兵士を復帰させるべく、この場は一丸となっていた。
ただ、そういうプレッシャーによって疲れを忘れることができたとしても、疲労そのものが消えてなくなったわけではない。
ミコトの体はもう限界を迎えていた。集中力は擦り切れて、もう適切な治療を施すための判断力は残っていない。
そもそも、仕事を始めたとはいえ彼女はまだ見習いだ。ちょっとした手伝いから始めるという話だったので、まだまだできないことは多い。
平時であっても、未だ一人で患者の診察や治療ができるような段階にはない。それがいきなりこんな現場に出されて、まともに働けるわけもなかった。
誰にも教わっていないことをいきなりやれと言われ、それができなければ死ぬと言われても、できないものはできないのだ。
ミコトの中には、徐々に疲れと共に苛立ちが蓄積され始め、ますます集中力が削がれていった。
それでもひっきりなしに負傷者は増え続け、どうにもならないものがさらにどうにもならなくなっていく。
だが、目の前でこうも苦しんでいる人がいる中で、さっさと帰って寝たいなんて言えるわけがない。兵士は命懸けで戦い、医者はそれを治す。自分には自分の役割があるのだから、責任を放棄して治療の手を止めることなど許されない。
そう言い聞かせ、ミコトは治療を続けた。もはや今、誰に何をしているのかも曖昧になってきたが、せめて形だけでも働いておかなくては後が怖い。
「なんて、どうせ滅ぶなら一緒かぁ……」
命懸けで戦う兵士たちの前で、あろうことかそんな発言をポロッとしてしまった瞬間、背後から首根っこを掴まれた。
そのまま素早い動きで部屋の外まで摘まみ出され、誰もいない通路の角まで追いやられる。
抵抗する暇もなく行われた一瞬の出来事に、ミコトはただボンヤリと目を丸くするばかりで声もあげられなかった。
「────お前、医者だよな?」
目の前に居たのは、白髪の少年だ。その腕には水色の髪をした赤子を抱きかかえている。
髪の色が奇抜ではあるものの、外見は普通の人間と大差ない。しかしミコトには一目で、彼らこそがステップであるとわかった。
「え……? な、なんでこんなところに……」
「こっちの質問に答えろ。お前は医者か?」
不気味なほど冷たい目だ。眼窩にあるのは眼球ではなく、鈍く光る石ではないのかと思うほどに、生気を感じられない目をしている。
ただ一つ感じるものがあるとすれば、明確な殺意だ。この質問に適当に答える、あるいは答えないという選択を取った場合、間違いなく誰にも気づかれないよう手早く葬り去られる。
ミコトは自らの命の危機を感じ、激しく首を縦に振った。ほとんど思考は停止していたので、脊髄反射的な行動だった。
「だったら、この子を治せるか?」
少年はそう言って、腕の中の赤子を見せる。
「怪我でも……してるんですか?」
「怪我じゃない。体質的な問題というか……とにかく、この子は寿命が短いんだ。それを何とかしてほしい」
「何とか……」
そんなことを言われても、情報が少なすぎて何とも言えない。もう少しどういう状態なのか正確に答えてもらわなくては、判断がつかない。
しかしできないと答える選択肢はなかった。その瞬間、自分がどうなるのかは目に見えていたからだ。
「わかりました。私に任せてください」
後先を何も考えず、ただ生存本能にのみ従って、ミコトはまたも首を縦に振った。
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