第15話 最後の会話

 ────そして、その日は唐突にやってきた。何の前触れもなく、何の前兆もなく、何も告げることなく突然に。


 いや、前兆はあったし、告げられてもいた。ただ実際にその場を目の当たりにすればやはり唐突であると感じるものだ。いずれこの日が来ることは知っていたはずなのに、不意を突かれた気分になる。


 自分の覚悟が、あるいは認識が、どれほど甘くて希望的観測に基づくものであったのかを痛感する。アサヒはまたしても、同じような過ちを犯したのだ。


「…………ミナ?」


 アサヒが部屋の掃除をしていると、突然ミナが部屋の真ん中で血を吐いて倒れた。

 つい数秒前まで世間話をしていたはずだったが、その話の内容はこの瞬間に頭から消し飛んでしまった。


「……ミナ‼」


 すぐに彼女をベッドに寝かせ、アサヒは医者を呼びに行こうとする。近くにあるシェルターには医者がいたはずだ。レナの病気もその医者の診断だと言っていた。


 しかし駆けだすアサヒの手を、ミナは掴んで引き留める。


「何を……」

「一人にしないでよ……寂しいだろ……?」

「……だけど、早く医者を呼ばないと────」

「医者はいい。医者なんていいから……ここに居てほしい」


 その手は簡単に振りほどけそうなほどに弱々しい力だった。だからこそ、アサヒは一歩も動けずにその場で固まる。


 いつか来るはずの瞬間が、今日この時にやってきたのだ。それをようやく理解できた。


「まだしばらくはあったはずだけど……まさか本当にレナより先に限界が来るなんてね……」


 ミナはベッドの上でまたも大量の血を吐く。顔色がみるみる悪くなっていき、表情も険しくなる。


「流石に……死ぬっぽいね…………ああ……二十歳の誕生日は迎えられなかったか」


 荒々しくなっていた呼吸が、今度は段々小さく細くなっていく。さっきまで普通に元気だったはずの彼女が、あっという間に死の淵にまで追いやられてしまった。


 いや、さっきまで元気だったのがおかしかったのだろう。ミナはもうとっくの昔に限界を迎えていたはずなのに、ずっと耐えて来たのだ。アサヒに弱っている姿を見せまいと堪えて来たのだ。


「……ミナ」


 気を失っていればいくらか楽だっただろう。


 しかしステップには残念ながら体力がある。激痛が走っても、簡単には気を失わせてもらえない。いつまでも苦しまなくてはならない。


 この場合、ミナの意識がハッキリしていることが何よりも酷なことだった。シーツが純白から深紅に変貌するほど吐血していても、それを自分の目で見ていなくてはならないのだから。


「はぁ……短い人生だったなぁ……」


 ミナは一言発するたびに苦悶の表情を浮かべる。それは気が強く、いつも涼しい顔をしていた彼女が、初めて見せる弱みだった。


「まだ死ぬと決まったわけじゃない。医学はシェルターの中の方がよっぽど発達してるんだ。ノーマルの医者に診せればきっと有効な治療法も見つかるはず……!」

「今更下手な希望を持たせようとしないでくれよ。前にも言ったろ? ノーマルがあたしらを救う義理なんかないんだよ。それに、あたしはあんまり強くないんだ。シェルターの守りを突破できるわけがない」

「俺ならきっと越えられる!」

「あたしとレナの二人を抱えて?」

「…………ッ」

「いくらなんでも足手まといが重すぎるだろ。流石のあんたでも無理だよ」


 アサヒはシェルターを守る軍隊を見たことがないが、自分一人なら何とかなるだろうという確信があった。それは人間一人を背負うというハンデがあっても揺るがない自信だ。ただ二人となれば話は別。


 ミナはアサヒより大きい。自分より背の高い人間を背負って戦うなど、相当なハンデとなることは間違いない。


 それに加えて子供まで抱えるとなれば間違いなく庇い切れない。そんな状態で戦場に出れば、二人のどちらかが深手を負ってしまうかもしれない。

 どちらにせよ、ここまで病状が悪化してしまったミナを下手に動かすのは危険。ましてや背負って戦うなど以ての外だ。


「クソ……俺はまだ何も恩を返せてない……!」


 あの時のパンの味はまだ舌が覚えている。パンそのものの味はほとんど感じ取れなかったが、とても優しく温かい味がしたことを忘れられるはずもない。あの時の恩を返さず、この先の人生はない。だというのに結局この有様。


 太陽なんか作れたところで、一人の子供であることになんら変わりはない。結局は無力だ。世界を変えることなんかできない一人の非力な人間でしかない。


「なぁ……アサヒ」


 掠れる声で、名前が呼ばれる。その弱々しい声を聞いているだけで、感情が掻き乱されるようだ。


「卑怯なあたしの……頼まれごとを聞いてくれないか」

「……なんだ?」

「あたしは今……苦しいんだ。体の内側にあるものが全部口から出てきそうだ。苦しくてたまらない。もう……痛くて……おかしくなりそうだ」


 ミナは膨大な量の汗をかきながら、必死に言葉を絞り出す。その言葉を一片たりとも聞き逃さぬよう、必死に耳を傾ける。


「さっきは無理だって言ったけど……アサヒ。あんた、レナだけなら、背負ったまま戦えるかい……?」


 何が言いたいのか、すぐにわかった。アサヒは小さく頷き、ミナの質問に対し可能であるという答えを示す。


「あたしは、レナにこんな思いをしてほしくない。もっと……長生きしてほしい。幸せになってほしい。だから……あの子を助けてやってくれないか? あの子には……元気で、ただ平穏に暮らして欲しいんだ。私の卑怯さは自覚がある……最低の頼み方だってことはわかってるつもりだ。でも……頼む。あの子だけは……私の唯一の……この世界に産まれた意味なんだ」


 ミナの手がアサヒの服を掴む。

 精一杯力を込めているのはわかる。しかしそれは貧弱で、ボロボロの布切れ一枚すら引っ張りきれないような非力さだった。


「……わかった。レナのことは任せてくれ。この命に代えても絶対に救ってみせる」


 断れるような頼みではない。だからミナは自分のことを卑怯だと称したのだろう。

 しかしそうでなくとも、アサヒには断るつもりなどなかった。なにせこれはミナに恩を返せる最後にして唯一のチャンスなのだから。


「それと……もう一つだけ」


 服を引く力が少しだけ強まる。なけなしの力を振り絞り、ミナは二つ目の願い事を口にした。


「あたしを……殺して欲しい。あたしが今……自分を失わずにいられるのは、近くにあんたとレナがいるからだ。二人がここを出たら、もうあたしはあたしじゃいられなくなる。これは確信だよ。この苦痛には……一人じゃとても耐えられない。頼むよ。最期はあたしのままでいたいんだ……あたしをこの場で殺して欲しい」


 ────自分の唇が震えているのを感じる。


 顎がカタカタ音を立て始め、歯をやかましくかち合わせる。そんな耳障りな音も気にならないほど、アサヒの意識が目の前の衰弱した女性に集中していた。


 そうか……卑怯だと前置きした本当の理由は……こっちか。


「……わかった」


 そう答えるしかなかった。アサヒの返事を聞いたミナは薄っすらと微笑む。


「痛みも苦しみも感じないように、一瞬で終わらせる」

「こんな役どころを……悪いね」

「仕方ない。俺が無力なのが悪いんだ」


 アサヒはベッドの横に置いてある椅子に腰かける。そして長い長い息を吐きながら、髪を乱暴に掴んで悔しさをにじませた。


 もうミナに時間はない。約束を果たすのであれば、こうやって項垂れている暇もない。しかしそうすぐに気持ちを切り替えられるわけではない。数分前まで命に代えても恩を返そうと思っていた人間を、今この場で殺せと言われても体が言うことを聞くはずがない。


 どれだけの時間目を閉じ、奥歯を噛み砕いていたかわからない。五分程度だったかもしれないし、一時間以上だったかもしれない。時間感覚に気を割いていられるほど、アサヒの心に余裕はなかった。


 しかし本当に余裕がないのはミナの方だ。彼女の時間は刻一刻と無くなりつつある。こんなことをしている間に、恩を返す最後のチャンスすら失うかもしれない。


 ────アサヒが覚悟を決めて立ち上がるのと同時に、何かを悟ったようにいつも大人しかったレナが大泣きを始める。


「レナ……はは……何だろう……あたしも泣きそうだよ」


 ミナは口から血を溢れさせながら、グッと歯を食いしばる。

 アサヒはレナを抱きかかえ、ミナの前に突き出した。


「何だよ……顔を見たら未練が出てくるだろ……?」

「レナは必ず俺が守る。でもそれは親代わりになれるってわけじゃない。この子の親はこの先もずっとミナだけだ。だから……最後に顔ぐらいちゃんと見せておいた方がいい」

「……へぇ、言うようになったね……あんた……」


 ミナはその手をゆっくりと持ち上げ、レナの頬を指先で撫でた。レナはその指を掴もうと短い手を懸命に暴れさせる。だが結局それは叶わず、ミナの手はだらりとベッドの上に落ちた。


「あたしの髪飾り……この子につけてやってくれないか……?」

「髪飾り?」

「青い髪飾り……あたしがつけてるやつ。もう手が動かないんだよ」

「いいのか?」

「いいよ。死人が着飾ってても仕方ないだろ」


 アサヒは慣れない手つきで髪飾りを外し、レナの髪につけた。不器用な彼がつけたせいで位置は高すぎるし、変に傾いてしまっている。それに産まれたばかりの子供がつけるには立派過ぎて、正直似合っているとはいいがたい。

 だがそれはまさしくそこにあるべきものであるかのように、ピッタリと型にハマる感覚があった。


「ああ……やっぱあたしの子だね。よく似合うよ」

「……そうだな」


 ミナの目はもうほとんど閉じかかっていた。口から出る血もいよいよ勢いが止まらなくなり、ベッドの半分以上を真っ赤に染め上げている。


 言葉にせずとも、もう時間がないことは明らかだった。


 約束を守るため、アサヒは何も言わずにレナをミナから引き剥がす。今からここで起こる光景を見せるには、彼女はまだあまりにも幼すぎる。


 激しく暴れるレナを部屋から出した後、ミナの体に手をかざす。壁の向こう側からは絶叫のような泣き声が聞こえてくる。


「……あんたと会えて……良かったよ。レナのことをよろしくね」

「ああ、約束は守る。絶対に」


 ────アサヒとミナの会話は、それが最後になった。

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