深更に断つ
紫鳥コウ
深更に断つ
二年も前の記憶を頼りに、墓地のあちこちの
× × ×
家の敷地に入ると、左手には農具を収めたガレージがあり、右手には廃れきろうとしているぼろ小屋が立っている。裏手には、ビニールハウスがあるはずだが、母から聞いたところによると、そのなかのひとつは、去年の冬、大雪に圧し潰されてしまったらしい。
玄関の前に、自転車が横たえてあった。見たところ、チェーンが外れているだけで、それさえ直せば、なんの支障もなく乗れそうだった。
「よく遊びにきてくれたねえ」
ぼくの顔をまじまじと見ながら、おばあちゃんは言った。
「いま、何年生なんだったけ」
カヨコさんは、金魚が描かれている透明のコップをみっつ置いて、コンロの上のヤカンを持ってきて、麦茶を注いでいった。おばあちゃんは、注がれてすぐに口をつけた。減った分を注ごうとするカヨコさんにたいして、右手を見せて制した。
「ちゃんと、四年生になりました……ところで、タダシさんは、いないんですか?」
「タダシくんは……おばあちゃん、いま、渋野さんのところに行ってるんだっけ?」
おばあちゃんは、うなずいたきりだった。
「じゃあ、いまは家にいないんですね」
「そうなのよ……あ、そうだ。ユウキくん、玄関の前に自転車があるの知ってる?」
軽やかな口調で、カヨコさんは尋ねてきた。
「チェーンがはずれているやつですか」
「うん、そう! あれさ、ユウキくんは直せる? タダシくんが、ぜんぜんやってくれないからさ。あれがないと……」
「なんであの子は、あんなに、わたしが嫌いなのかねえ」
カヨコさんが言い終わらないうちに、おばあちゃんは、恨みの言葉を吐きだした。
おじいちゃんが裏の畑で倒れているのを、おばあちゃんがすぐに見つけなかったことを、タダシさんは赦すことができていないのだと、母は言っていた。が、もちろんそれは故意ではなく、ぬかるんだ土のなか、長靴を履いていないことに気づき、一度玄関に戻ったあいだに、おじいちゃんが心臓発作で倒れてしまったのだ。タダシさんが再婚をして、一カ月後のことであった。
母曰く、タダシさんは、いつも一緒にいるおばあちゃんが、なんら兆候を感じとっていなかったということを、なにかしらの策謀だと思っているのではないかとのことだった。が、自分の弟が、そこまで不孝な考えを持っているのだと、信じているわけではなかろう。父親の死を、ふたりして悲しんで慰め合っていた姿を、ぼくはしっかりと見ていたのだから。
× × ×
夕方になると、大風が吹き雨は横殴りになった。一息ついているうちに、自転車を直す機会を失してしまった。天気予報を見るに、日付が変わる前くらいには、雨は止むとのことだった。明日の朝に修理すると、カヨコさんに告げておいた。
タダシさんは、ぼくたちと夕食を囲むことはなく、みんなが食べ終わったら食べるとだけ言い残して、部屋に引っ込んでしまった。久しぶりに会うタダシさんは、気味が悪いほどに表情が硬く、ぼくに一言挨拶をするだけだった。ぼくは、いままで抱いたことのない憎しみを、タダシさんに感じてしまった。
廊下に面した十畳の部屋に敷いてもらった
「ユウキくん、あのブルーシートはなんだかわかる?」
タダシさんは目を伏せて、畳の上に目線を泳がせながら、抑揚のない調子で尋ねてきた。
「自転車が雨に濡れないようにしているんですよ。チェーンがはずれていて、すぐにでも直せないから、軒下に置いたままなんですが……あれって、いつからあそこにあるんです?」
問いに答えているうちに、しかるべき疑問が浮かんできた。
「あれ? あれは……家を出るときにはなかったからさ。それで、不思議だったの。そうか、自転車なんだ……」
× × ×
三人とも寝静まってしまうと、辺りはすっかり、ひっそりとしてしまった。向こうにある国道を車が通り抜ける音が、聞こえてくることはあった。家の裏の冷たく沈黙した畑から、雨上がりのむっとした空気が、網戸を通り抜けて、ぼくの身体を汗ばませた。
なかなか眠れずにいると、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。身体を反対に向けると、知らないうちに、廊下に白々とした灯りがともっていた。
タダシさんが、煙草を吸いにでたのだろう。そう思いはしたが、いつまでたっても、煙草のにおいはしてこなかった。かわりに、ブルーシートがそっと剥がれる音がして、チャリンとかすかにベルが鳴った。湿り気のある足音が、家の裏の方へと遠のいていった。
家は昔から変わらずここにあるのに、そこに住む人々は、愛しあうことを忘れて、互いに憎しみあっている。
ぼくは、この家を飛び出した従姉のことを想いながら、彼女とは二度と会えないのだろうと悲しむよりほかはなかった。この家では、愛が育まれることはない。
まもなくして、自転車のチェーンを断つ音が、冷たく聞こえてきた。
深更に断つ 紫鳥コウ @Smilitary
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