深更に断つ

紫鳥コウ

深更に断つ

 雨滴うてきが首筋を叩いた。目をつむっていたからなのか、何者かに肩を打たれたのではないかと思うくらい重たく感じられた。本堂の向こうに見える山々が、刻一刻と翳りはじめていた。墓を探しているうちに曇りだした空は、間もなく大量の雨を零しそうなほどに重苦しくなっていた。


 二年も前の記憶を頼りに、墓地のあちこちの小径こみちに入っては戻って、ぐるりと一周をしても見つからず、丁度居合わせたこの寺の人にいてみたところ、目的の墓は、大分前に入った小径の突き当たりの左にあった。墓石と卒塔婆が、厳めしい頑固者だった、おじいちゃんの姿に変わるのではないか。そんな霊的な感性が目覚めるほどに静かな、平日の午後である。


   ×   ×   ×


 家の敷地に入ると、左手には農具を収めたガレージがあり、右手には廃れきろうとしている小屋が立っている。裏手には、ビニールハウスがあるはずだが、母から聞いたところによると、そのなかのひとつは、去年の冬、大雪に圧し潰されてしまったらしい。


 玄関の前に、自転車が横たえてあった。見たところ、チェーンが外れているだけで、それさえ直せば、なんの支障もなく乗れそうだった。


「よく遊びにきてくれたねえ」

 ぼくの顔をまじまじと見ながら、おばあちゃんは言った。

「いま、何年生なんだったけ」

 カヨコさんは、金魚が描かれている透明のコップをみっつ置いて、コンロの上のヤカンを持ってきて、麦茶を注いでいった。おばあちゃんは、注がれてすぐに口をつけた。減った分を注ごうとするカヨコさんにたいして、右手を見せて制した。

「ちゃんと、四年生になりました……ところで、タダシさんは、いないんですか?」

「タダシくんは……おばあちゃん、いま、渋野さんのところに行ってるんだっけ?」

 おばあちゃんは、うなずいたきりだった。

「じゃあ、いまは家にいないんですね」

「そうなのよ……あ、そうだ。ユウキくん、玄関の前に自転車があるの知ってる?」

 軽やかな口調で、カヨコさんは尋ねてきた。

「チェーンがはずれているやつですか」

「うん、そう! あれさ、ユウキくんは直せる? タダシくんが、ぜんぜんやってくれないからさ。あれがないと……」

「なんであの子は、あんなに、わたしが嫌いなのかねえ」

 カヨコさんが言い終わらないうちに、おばあちゃんは、恨みの言葉を吐きだした。


 おじいちゃんが裏の畑で倒れているのを、おばあちゃんがすぐに見つけなかったことを、タダシさんは赦すことができていないのだと、母は言っていた。が、もちろんそれは故意ではなく、ぬかるんだ土のなか、長靴を履いていないことに気づき、一度玄関に戻ったあいだに、おじいちゃんが心臓発作で倒れてしまったのだ。タダシさんが再婚をして、一カ月後のことであった。


 母曰く、タダシさんは、いつも一緒にいるおばあちゃんが、なんら兆候を感じとっていなかったということを、なにかしらの策謀だと思っているのではないかとのことだった。が、自分の弟が、そこまで不孝な考えを持っているのだと、信じているわけではなかろう。父親の死を、ふたりして悲しんで慰め合っていた姿を、ぼくはしっかりと見ていたのだから。


   ×   ×   ×


 夕方になると、大風が吹き雨は横殴りになった。一息ついているうちに、自転車を直す機会を失してしまった。天気予報を見るに、日付が変わる前くらいには、雨は止むとのことだった。明日の朝に修理すると、カヨコさんに告げておいた。


 タダシさんは、ぼくたちと夕食を囲むことはなく、みんなが食べ終わったら食べるとだけ言い残して、部屋に引っ込んでしまった。久しぶりに会うタダシさんは、気味が悪いほどに表情が硬く、ぼくに一言挨拶をするだけだった。ぼくは、いままで抱いたことのない憎しみを、タダシさんに感じてしまった。


 廊下に面した十畳の部屋に敷いてもらった蒲団ふとんの上で、本を読んでいると、突然、障子が開いて、タダシさんが顔を見せた。風呂上がりだからなのか、先ほどより血色のよい顔をしていた。

「ユウキくん、あのブルーシートはなんだかわかる?」

 タダシさんは目を伏せて、畳の上に目線を泳がせながら、抑揚のない調子で尋ねてきた。

「自転車が雨に濡れないようにしているんですよ。チェーンがはずれていて、すぐにでも直せないから、軒下に置いたままなんですが……あれって、いつからあそこにあるんです?」

 問いに答えているうちに、しかるべき疑問が浮かんできた。

「あれ? あれは……家を出るときにはなかったからさ。それで、不思議だったの。そうか、自転車なんだ……」


   ×   ×   ×


 三人とも寝静まってしまうと、辺りはすっかり、ひっそりとしてしまった。向こうにある国道を車が通り抜ける音が、聞こえてくることはあった。家の裏の冷たく沈黙した畑から、雨上がりのむっとした空気が、網戸を通り抜けて、ぼくの身体を汗ばませた。


 なかなか眠れずにいると、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。身体を反対に向けると、知らないうちに、廊下に白々とした灯りがともっていた。


 タダシさんが、煙草を吸いにでたのだろう。そう思いはしたが、いつまでたっても、煙草のにおいはしてこなかった。かわりに、ブルーシートがそっと剥がれる音がして、チャリンとかすかにベルが鳴った。湿り気のある足音が、家の裏の方へと遠のいていった。


 家は昔から変わらずここにあるのに、そこに住む人々は、愛しあうことを忘れて、互いに憎しみあっている。

 ぼくは、この家を飛び出した従姉のことを想いながら、彼女とは二度と会えないのだろうと悲しむよりほかはなかった。この家では、愛が育まれることはない。

 まもなくして、自転車のチェーンを断つ音が、冷たく聞こえてきた。

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