第6話 読点という難物

句読点とは難物だ。特に、句点は難物に過ぎる。何故かと言えば、複数の機能を一つの記号に与えてしまっているからだろう。漢字も複数の読みがあるが、それはルビを振るなり別表現を用いるなりすれば解決できる。しかし、句点にそれを求めるのは冗長に過ぎ可読性を損なうことになるだろう。


あまりに難物であるので、今後加筆修正は続くと思われる。今回は、ひとまず読点にどれだけの役割があるかという視座に立って思いつくだけ列挙してみたいと思う。恐らく新たに分別すべき役割を思いついた場合、加筆される可能性がある。


1:息継ぎ記号


これは比較的わかりやすい。小学校の頃、「読点は半拍、句点は一拍息継ぎをして読むように」と習った諸氏も多いのではあるまいか。


「あ、あ、あの…」といった風に口籠った発話を表現するような使い方をする場合も多く見受けられる。要するに三点リーダの類似品であるということになるだろう。


やや脱線となるが、所謂三点リーダ(『…』のこと)を今回単体で使っている。一般的には二つ連続して「……」と使うとされているが、これは手書きの縦書き原稿から活字の版を起こす際に出版業界で必要とされた慣習であると私は認識している。


具体的には、「ミ」や「シ」といった文字との混同を避けるためのものであり、キーボードや各種タッチパネルにて文字入力する時代となった今では、「ミ」や「シ」あるいは「川」といった文字との区別は明白だろう。故に三点リーダを一つで使うことも、奇数個使うことも問題ないと考えている。逆にダッシュ記号(『―』のこと)は電子媒体で読む場合、フォントによっては促音記号(『ー』のこと)と混同し易いので二つ以上並べるべきだと思う。


無論、「では三点リーダ一つと三点リーダ二つはどのような局面で書き分けるか?」という問いは意識しているし、「やはり偶数個並べる方が違和感がない」という方も多いだろう。その場合はそれで構わないと思っている。それは例えば「何故三点リーダを奇数個並べることに違和感があるのか?」といった問いに自分なりの答えを出すことこそ、本稿の頭書に述べた至って欲しい「離れること」に繋がると思うからだ。


私個人としても、三点リーダを複数並べるのは違和感がないが、読点を連続して複数並べるのには違和感がある。何故両者の間に違いを感じるのかは、未だに答えが出ない。また、息継ぎ記号として全角スペースや半角スペースを用いることの是非を考えていくと、やはり答えが出ない。


さて、脱線はここまでにして本筋に戻ろう。


息継ぎ記号として考えた場合、読点は句点に比べて遥かに自由度がある。これは句点には「長い息継ぎ記号」と「文の区切り」の二つの役割があるが、これはほぼほぼ重複しているためである。句点の前後では明確な内容の断絶があると言い換えても良いかもしれない。


例えば、「あ。忘れてた」と「あ、忘れてた」では、前者の方がより感嘆詞としての「あ」と後続が明確に区切られてるように私には感じるわけである。また、別の例として、「あ。…忘れてた」や「…あ。忘れてた」といった表現を考えてみる。これらは違和感のない表現に感じるが、例えば句点を読点に置き換えて「あ、…忘れてた」と表現すれば、私としては何処かよくわからない違和感がある。恐らくは同じ機能の記号を並べることに違和感があるのだろうと思う。


私個人の感覚としては、三点リーダよりは明白に前後が連続しない間であり、なおかつ恐らく三点リーダよりは短い間を示しているような印象がある。そしてそれは断絶のある間を表記する際のダッシュ記号よりは長いように思われる。つまり、ダッシュ記号の方が即時の断絶のある間ということになるだろう。


2:接続詞の後へ付随する記号


これはたとえば「上手く行くと思われたが、そうはならなかった」といったような区切りに使うような場合だ。これは比較的わかりやすい。英語における接続詞とカンマの関係を見ればそう難しいことではあるまい。


また本筋から逸れる注意点ではあるが、一つの文に複数の接続詞を置くことは避けるべきだろうと思う。これは特に逆接を複数回やってしまう顕著に問題になってくる。例えば「『Aだが、B』だが、Cである」と読むべきなのか、「Aだが、『Bだが、Cである』」と読むべきなのか読者が混乱するだろうからである。


上記のような問題への対策の一つは、句点を用いて文を分割することだろう。例えば「『Aだが、B』だが、Cである」と読ませたければ「Aだが、Bである。しかし、それはCである」と書けばよいだろうし、「Aだが、『BだがCである』」と読ませたければ「Aである。しかしそれは、BだがCである」とでも書けばよいだろうと思う。


この点については説明しきれないところがあるように思うので、別途稿を書きたいと思う。


3:強調記号


また一方で、先の例文における読点はある種の強調記号として機能しているかもしれない。何故なら、「上手く行くと思われたが、そうはならなかった」とも「上手く行くと思われたがそうはならなかった」とも書くことができるからだ。


この二つの書き分けを比較してみるに、前者では「上手く行くと思われたが、」と傍点部が強調されるのに対し、後者では文全体が一纏まりになっている印象を受ける。つまりは軽度の断絶を与えることで文の後半部を強調する形となっているのだろう。


また、文の長さを変えることで、強調される点をある程度変えることもできる。例えば、先の例文は「上手く行くと思われた。が、そうはならなかった」と書き換えることもできるだろう。この場合、強調されてる点傍点で表記するなら「上手く行くと思われた。、そうはならなかった」といった形になるだろう。


どちらを強調しているかについては、恐らくだがより短い方が強調されて見えるのだと思う。後半部を強調している例としては、「似ているようだが違う」と「似ているようだが、違う」と言った書き換えが可能だろうと思う。この場合、協調部分は


また別の例として、「私はそう思う」と「私は、そう思う」との書き分けを考えてみたい。前者は「(単純な感想として)私はそう思う」という含意が見て取れるように思われるのに対し、後者は「(他の人には他の意見があるだろうが)私は、そう思う」という含意が見て取れるように思う。


4:可読性確保のための記号


これは例文を国語の教科書で見た方も多いと思う。「ここでは、きものをぬいでください」と「ここで、はきものをぬいでください」との対比は割と有名だろう。


読点を挿入することで、文節の区切りが何処までかを明確化していると言い換えることもできるだろうか? 句点程の明確な区切りではないが、一塊としてしまうと読解に難が出来るようなサイズのものを区切るための用途だと思えばいい。


因みに、これは空白記号(要するに『 』のこと)でも似たようなことができる。つまり、「ここでは” ”きものをぬいでください」と書くことも「ここでは” ”きものをぬいでください」と書き換えることもできる。レトロゲームではよく見られた表現だろう。尚、空白記号を引用符で括っているのは禁則処理の関係で行末に空白記号が入ると行末にそのままぶら下がってしまってしまい、空白の位置が判らなくなるのを防ぐための処置である。


何処までを文中のひと塊と見做すかは人によってまちまちであるため、ある種文体の癖や特徴として目立つところがあろうと思う。恐らく、私の文では文のひと塊を比較的長めに取ってあることだろう。


また、これを逆手にとって「頭が回ってないことを、表現するために、文のひと塊を小さめにしてみる」であるとか、逆に「思考が高速で巡っていることを表現するために文のひと塊を大きめにしてみるより端的には句点も取っ払ってしまう」といった表現に利用することもできるだろう。


以上、恐らく他にもあるとは思うが、思いついた限りの読点の用法を纏めてみた。また何か思いつけば加筆することになるだろう。

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「離」に至るための「破」について 四辻 重陽 @oracle_machine

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