第5話
祝言の朝。沙沼家の人間は母、仁彦、翠、清蔵、清蔵の妻である由恵。冬村家からは新郎のご両親とその妹が列席した。他には親族の関係者として沙沼家の弁護士を務める芦屋信常だけでそれほど参列者は多くないもののいつもの沙沼邸よりは騒々しかった。着替えを終えた僕は縁側で翠さんとすれ違った。彼女は目を合わせなかった。昨晩の浴室にいた翠さんはどこか強がってみえたが、仁彦に対する罪悪感からか、今日の彼女は萎縮して見えた。僕は自分の中で昨日のことを忘れることにした。今日という日が過ぎれば僕はまた沙沼から遠ざかり、ともすれば二度と関わることもないかもしれず、そのような覚悟であった。幸いにも冬村将生は澪子の相手として僕から見ても申し分ない。彼ならどんな場面でもこの忌まわしい血筋から澪子を守ってくれるはずだと、それは一見でしかないものの確信できた。ならば僕はもう必要のない人間だ。僕のような存在は澪子のこれからにいつか陰を差す。僕は妹のことを大切に感じ何よりも愛していたが、同時にあの日のどうしようもなく弱かった自分を許すことが出来ない。だから僕は今日だけ、この祝言の間は兄として妹の幸せを願い、そして身を引くつもりでいた。勝手なことを思っているのは重々承知のうえでどう転んでもおこがましさになるならば僕は消えたほうがいいのだと。
「はじめまして 市哉くん 将生の父の義春と申します それから妻の涼子と娘の
「はじめまして、川邊市哉です」
「川邊、市哉くんもご結婚を」
「いえ、そういうわけではないんですが」
冬村のご両親は将生に似て朗らかな印象を受けた。妹の路花はまだ未成年で緊張があるのかやや強張った顔つきをしていたがそれでも品の良さを感じさせる。澪子は良い出会いに恵まれたのだと思えた。僕の決意は固まった。それに比べて先ほどから殺意とも取れる目つきで僕を見遣る清蔵には呆れ果てた。曲がりなりにも沙沼の人間としてこの場を弁えることも出来ないのだから。僕は冬村への挨拶を済ませると自ら清蔵の元へと歩み寄った。
「お久しぶりです由恵叔母さん」
「ぉ お久しぶり です」
「先にコイツに挨拶か 偉くなったな市哉」
「叔父さん、いい加減にしてください 今日が何の日か分かっていらしてるんですよね」
「なんだと!」
清蔵の怒声が響いて一瞬静まり返る場。肌寒さとは別の意味合いでの冷たさが空気に混ざった。
「ぁ あなた ちょっと」
「お前は黙ってろ! 市哉! 一端の口を聞くじゃねえか 今、ぶち殺してやろうか!」
「清蔵!」
すかさず制止したのは母だった。清蔵は牙を抜かれたようにおとなしくなる。
「皆様、失礼いたしました 本日は将生さんと澪子の婚礼にお集まりいただきありがとうございます 間も無く始まりますのでそろそろ社の方へ向かいましょう お車はこちらで手配しておりますゆえ」
父に代わり沙沼本家の血を背負った母。その威迫は当主代行といえど父に引けを取らない。ならなぜあの時、父や清蔵の理不尽な暴力を止めてくれなかったのか。僕はどこか遣る瀬無い思いになったがそれを振り払った。
迎えの車が到着し、車中では弟夫婦と一緒になる。僕は忘れようとしたものの翠さんの口数の少なさが気がかりだった。車内では仁彦が一人で喋っていた。話題は何故か翠さんとの性事情について。僕は助手席に座りながら、運転手の苦笑が見えた。翠さんは決していい気などしないはずだが押し黙っていた。時折、仁彦は僕に対してどう思うかと問うた。僕はそんな話はやめろと弟を諌めたが口数は減らなかった。よく似ていた。生前の父に。父は祖父母がまだ生きていた頃からよく母を罵倒していた。罵倒というよりは辱めに近い。母は今の翠さんのように押し黙っていたがそれでも毅然とした態度で受け流していた。何故そのように振る舞うのかといえばただただ優位にあろうとする愚かな権威づけのパフォーマンスだが、今の母もまた何かしらの方法で清蔵を手懐けていることからも沙沼の人間らしい思想である。仁彦もまたそれに倣ってどうしようもない人間になっていたが、僕は昨晩のことがあってか妙な勘繰りをしてしまう。仁彦は昨夜浴室で起きたことを知ったか、或いは肌で感じ取り、それを敢えて僕には追求せず挑発しているのではないかと。むしろ弟はそういう性格の人間だからだ。翠さんが沈黙を貫くのもまた後ろめたさからなのかと考えてしまう。であれば僕が偉ぶって弟を注意したところでひどく間抜けな話であり、仁彦の真意はそこにあるのではないかと。どちらにせよ僕はいかに間抜けであれど仁彦が核心をつかない以上それを演じる必要がある。それが翠さんのためでもあると考えたからか、もしくは自らの卑しさかはさておいて。
神社に到着した僕たちはそれが始まるのを待った。しばらくして二人が披露目になる。綺麗だった。春になれば芽吹く桜の鮮やかな色。そんな季節には些か早い時期だったが一足早くそれが来た気分だった。僕が家を飛び出した時にはまだ中学生のあどけない子供だった妹はすっかり大人の女性となっていた。自然と目頭が熱くなる。祝言が始まった。
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