第4話
「兄さんにはまだ紹介してなかったよね
「初めまして 冬村将生と申します」
「どうも」
「ちょっと兄さん! 顔!」
「え ああ ごめん」
「いいんですよ 大切な妹さんですものね 僕もお兄さんだったら初対面の男を訝しんでいたと思います」
「いや、すみません そういうわけじゃ」
「ならどういうわけなの」
「澪子さん あまりお兄さんをいじめちゃいけませんよ」
妹は嬉しそうに笑っていた。冬村は隣町の資産家の息子で、澪子とは見合いを通して知り合ったらしい。澪子より一つ年下だが随分としっかりした印象を受ける。冬村が相手なら僕は申し分ないと思った。爽やかで明るく、沙沼の人間とは違う性質の持ち主。それはかえって出来すぎのようにも思えたが、澪子の笑顔を見る限りここが最良の答えだと感じた。
「幸せにしてやってください」
「兄さん、何よ急に」
「任せてください 僕が一生かけて澪子さんを守ります」
「冬村さんまで」
沙沼の家にいながら、このひと時だけはそんなしがらみを解かれた気分だった。家族の幸せを願う者だけがそこにあって、冬村将生は母や弟などよりもずっと肉親のようだと思えた。澪子がこの町にとどまっても彼がいれば安心だと。祝言を明日に控えて初めて会った妹の結婚相手をここまで信用できる自分にも驚いたが、同時に僕はこんな当然の感情に飢えていたのかもしれない。誰かを信じること、それは川邊さんが教えてくれた。そして実際にその教えが意味のあるもので尊いものなのだと二人に教わった気がしたのだ。僕がずっと願ってきたのは澪子の幸せで、それが良い方向に実ろうとしている今、もはや僕の懸念は杞憂であり、明日が過ぎても僕はなんの後ろめたさもなく生きていける心地があった。僕は逃げ出した過去と向き合いようやく始まりの時に立ったのだと、この時は心底思えたのだった。今にして思えば随分身勝手な発想だ。自分だけが許されようなどとは。
僕はその日の夜に夢を見た。まだ幼い頃の妹が父を止めようとしがみついていた。目尻には涙を浮かべ、一方的に暴力を受ける僕のことを「もうやめて」と必死になって止めようとしてくれていた。これはかつて現実にあった光景で妙に生々しく感ぜられた。父は決して妹や弟には僕にしたような仕打ちを為さなかった。それがなぜかは今もわからない。ただ僕はそんなことを夢の中で殴られながらどこかで俯瞰するように思い返し、そして自らの醜さと向き合う羽目になった。僕は自身の意思に反して口を開いていた。
「どうして僕だけなの」
続く言葉はさらに醜悪で、自分は犠牲者であり、何事もなくこの家で暮らす兄弟に対する恨み言だった。父を抑えようとしてくれた妹に僕は偽善者ぶるなと言ってのけたのだ。そこにはもうひとりの、今の自分がいて、何度も違うのだと幼い僕を否定する。けれどその声は澪子には届かない。妹はより哀しい目をして醜い兄を見つめた。今も変わらない優しいあの眼差しで。それなのに僕はそれを遂に告げてしまう。
「お前が僕の代わりに死んでくれよ」
さきほどまで父が立っていた場所に今の僕がいて、幼い僕に掴みかかっていた。目の前の子供は腫れ上がった顔で僕を睨みながら笑った。僕は何度も僕を殴った。誰も止めてくれる者はなかった。自分自身でさえ。
目が覚めるとまだ夜中で、全身が汗だくだった。このままでは寝付けないと思い、汗を洗い流そうと風呂へ向かった。浴室には灯りがついたままで僕が徐に戸を開くと、そこには翠さんが裸で立っていた。僕はバツが悪くなってすぐさま出ようとしたが彼女は僕の腕を掴んで引き寄せるとそのまま唇を重ねてきた。振り解こうとしたが何故か力が入らなくなった。翠さんは口を離すと僕の胸に身を委ねて「助けて」と言った。あまりに唐突なことで返す言葉がない。
「ごめんなさい 市哉さん もう少しだけ」
「でもあなたは」
「仁彦と私の間にはもう愛なんてありません たとえ見つかったってなんとも思わないわあの人は だからお願い市哉さん 今だけわがままをきいて」
僕は間抜けだ。気づくと彼女を抱きしめていた。夢にさえ見た愚かで醜い子供の頃から何も変わっていない。どうしようもなく卑しい人間なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます