第3話

 父から暴行を受けている時、僕は言葉を失っていた。責め立てられ、殴られ蹴られの中で自分を押し殺し、父の気が済むまでまるで無機物のように痛みなど感じないよう言い聞かせていた。それが終わると一気に押し寄せる疼痛に僕は何度も殺されそうになった。風呂の湯が沁みて気絶しそうになる。傷は軽い手当などで癒えることなどなく、何度か入院することもあった。父が町の有力者であるから医者も事情はそれとなく理解しながら追求することもなく、まさに地獄のような毎日だった。そんな日々が一八の冬まで続いた。

 高校からは隣町に通った。僕はそれで町の空気が変われば幾分か心が安らぐことを覚えた。同級生は皆優しかった。家に帰ればもっとも無力な自分が人並に笑えた。けれどそれも作られた世界だ。全身にある痣を気にして年中長袖を纏い、着替えが必要な授業は全て見学した僕を誰も咎めなかった。同級生も先生も家のことには何も触れず、僕に対してはただただ好意的であったがその優しさの裏を垣間見た僕はあらためて父の強大な影響力を知らされることになる。どこに行けば僕はこの呪縛から逃れられるのか。山道の竹林の中でひとりで考え続けた。

 その日は雪が降っていた。僕は家を抜け出してまた山へと向かう。これまでは途中で足をとめていた場所からさらに奥へと進んだ。忌み物とされた山の神を祀る祠があるという場所を探した。道中、得体の知れない動物のような声が山中に響き渡り始めた。僕は怖気づきながらも引き返すわけにはいかないと内側から押し寄せる意気によって歩を進めた。祠は一向に見つからず、体力は次第に衰えて、僕は立ち止まった場所で意識が朦朧とし始めていた。まるで夢を見るかのような心地になりながら、先程の獣のような声が次第に近づいてくるのを感じた。逃げねば、そう思いながらも体は言うことを聞かない。気づくと雪の積もる道に銀毛の狼が立っていた。この山で猿や鹿を見かけることはあっても狼を見たのはその時が初めてだった。狼は低く唸った。僕は諦めた。今さら動いたところで逃げれなどしない。諦めてみるとその銀色の毛が光って見え、雪の中で美しく輝いていた。狼が僕を見据えてじっとしたまま暫くするとその身を翻し山の奥へと歩き始めた。僕はそれを反射的に追いかけようとした途端なぜか先ほどまで果てていた気力が蘇り、そのあとを追った。狼の赴くままに進むとそこに祠があった。祠に目を奪われた隙に狼はもう姿を消していたのだが、ともかく僕は祠に近づいた。誰も踏み入らないので当然ながらその祠は手入れなどされておらず、落ち葉や枯れ枝に埋もれて今にも朽ちかけていた。ゴミを払い除けて祠の全体を露わにすると社の奥の方に札が祀られているのを見つけた。"山"或いは"神"というような字が記されている。他にも書かれていた字はかすれて読めそうにない。字を追った途端のこと、心臓が大きく脈打って、その鼓動は次第に速まった。死。それを意識させる。つづいて袖が不意に破けると腕の痣からそれを食い破って何かが這い出ていた。それはムカデに似ていたが見たこともない蟲。僕は痛みよりも驚きや恐怖が勝って悲鳴をあげた。蟲は痣という痣からどんどんと這い出て僕の全身を飲み込もうとする。耳が食い破られて音を失い、口が食い破られ声が消え、目が食い破られて光がなくなった。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い───


 目が覚めてみると山の麓に横たわっていた。頬が雪で冷たい。食い破られたはずの目口は元通りになったどころか衣服もそのままだ。いったいあれはなんだったのか。それは今も分からない。僕はその日、屋敷には戻らずこの町を出た。

 

 町を出てみると様々なことがどうにかなった。生活力などない自分はすぐに野垂れ死ぬだろうと思っていたが巡り合わせとでも言おうか僕みたいな人間を面倒見てくれる人が現れた。その人は川邊さんといって、六十を過ぎたパン屋の主人だった。荷物一つ持たないボロボロの学生服を着て突然現れた僕を事情も聞かず迎えてくれた。その優しさをはじめは疑っていた。高校時代のトラウマのせいだ。けれど共に暮らすうちにその疑念も晴れた。なぜだかは分からないが川邊さんはそんな人ではないと思えた。理由を挙げるなら目だろう。その眼差しは澪子に似ていた。掛け値なしに信頼に足り得る優しい目。僕は自身を恥じた。

 川邊さんは僕が現れる前の年に奥さんを亡くしてひとりでパン屋を経営していた。僕はそれを手伝う形で身を置かせてもらった。沙沼家にいた頃のような浮世離れした暮らしではなかったがずっと温かかった。子供のなかった川邊さんは僕を我が息子のように可愛がってくれた。僕もまた川邊さんこそが実の父であると慕った。

 二十歳を迎えた年。その日は成人式だった。朝からパン屋の仕込みに従事していた僕に川邊さんが声をかけた。古いものだけれどといってスーツを一着僕に見せた。

「サイズが合うかはわからんが」

 僕は川邊さんのスーツに袖を通した。不思議とぴったりだった。

「似合いますか お父さん」

 川邊さんは泣いていた。その日の夜、僕は澪子宛に手紙を書いた。川邊さんの名を借りて偽名で送ったその手紙には僕の正体と連絡先を記した。町を棄てると決意してからの二年も川邊さんの向こうに澪子を見ていた。手紙が他の人間に読まれる可能性もあったがそれでも僕は澪子に今の僕を伝えたいと思った。


 それからまた三年が過ぎた。手紙を送って以来、澪子からの返事はなかった。家の人間に見つかったかそれは捨てられでもしたのだろうと半ば諦めていた。川邊さんは高齢ゆえ体調を崩し、寝込みがちになっていた。僕はひとりで川邊さんのパン屋を切り盛りするようになっていった。病床で川邊さんは僕に店を継がせたいと告げた。僕はその願いに最後まで答えを出せなかった。お前と会えてよかった、天国であいつに自慢の息子だと紹介してやる、店も安泰だ、ありがとう。僕は弱気にならないでくださいと励まし続けたが、その年の暮れに川邊さんは亡くなった。


 親族でもない僕が川邊さんの葬儀を執り行うのには何かと苦労もあったがそれは使命だと感じていた。莫迦な息子が今さら親孝行だなどと思ってなんとかやり遂げることが出来て、全てが終わった後の店はやけに広く感じられた。僕はこれまでの川邊さんとの生活を噛み締めるように、厨房の中で照明も点けず座り込んでいた。そんな時だった。机の上に置いていた電話は暗い部屋の中でよく光った。

「澪子」

「兄さん だよね」

「俺だよ」

「ごめんね 返事しなくて」

「澪  」

「どうしたの? 大丈夫? 兄さん?」

「ごめん 元気か?」

「うん 兄さんこそ」

「ああ 心配しなくていい 元気でやってる」

「もう  戻ってこないの?」

 戻れない。僕はもう沙沼の人間ではない。心の底から家族を教えてくれた人のために生きねばならないのだとその時は本気で感じていた。

「ごめんな これから仕事だから じゃあまた」

「絶対だよ」

「ああ じゃあな」


 電話を切った後の寂しさはひとりで山に向かったあの日を思い出させた。僕はあの町を忘れることが出来ない。

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