第2話

「お久しぶりです 清蔵叔父さん」

 沙沼清蔵はしばらく黙ったまま僕を睨みつけていた。その目は敵意に満ちて、今にも獲物を捉えまいとする獣の威迫があった。

「あれから十年になるか よう帰ったの」

「二度と戻らないつもりでしたが 澪子のためと思えばそうはいきませんでした」

「お前みたいな逃げ恥の屑が祝言に出れるとまだ思うとんか」

「澪子には許しをもらってます」

「それがなんじゃあ!」

 清蔵は怒声と共にこちらに向かって距離を詰めた。あの頃と同じだ。僕は一歩も動けない。ただ迫り来る圧倒的な暴威を前にそれがわかっていても何も出来なかった。けれどこの時の清蔵は手をあげることなく僕の耳元に顔を寄せ静かに冷たく囁いた。

「兄貴はもうおらん 今度は殺す ええ機会じゃ 覚悟せえよ」

「僕だって もう十年前じゃありませんから」


 清蔵が立ち去った直後、緊張の解けた体が崩れるかのように僕はその場でへたり込んでしまった。陰で見ていたであろう母が背後から僕の肩に手を回わす。自分が記憶する限り母の手に抱かれたことのない僕は清蔵との対峙による極度の疲労からか今にも泣いてしまいそうだった。愛情などあるはずがない。理性はそう告げるのに、僕はまだこの人をどこかで母だと思い続けているのかもしれない。血は残酷だ。どれだけ洗っても落ちない小さな小さなシミ。これまで気づかないふりのできていた小さな痕がこの郷においてはまざまざと見せつけられる。僕は徐々に戻ってきた力で母の腕を振りほどいた。

「市哉さん、わたしはあなたを愛していますよ」

「どうかしてる」

「ふふ」



 着替えを済ませると僕は外に出ることにした。屋敷の中ではどうも落ち着かない。裏手の山へと連なる林道では野鳥の囀りが響いており、幼い頃の僕もまた逃げ込むようにそこへ足を運んでいた。

「おにいさん ですよね?」

 見覚えのない顔だった。狭い村社会では知らない顔のほうが珍しい。とはいえ僕もこの町に十年いなかったのだ。しかしこの見覚えのない女性は僕を"おにいさん"かと聞く。どういう意味だ。

「市哉さん」

「すみません どちらさまでしょうか」

「やっぱり 似ていたから 私、仁彦の妻で翠と云います」

 仁彦が結婚したのは知っていた。それも澪子が教えてくれたのだが僕は半分聞き流していた。翠さんはなんというか意外だった。あくまで印象でしかないが、自分本位でしか物事を考えず、他者に対して傲慢な弟が選んだ相手にしては、翠さんはキリッと目尻の上がった大きな瞳と溌剌とした声から随分と健康的で自信ありげな印象を受け、どちらかといえば他人を支配したがる仁彦には苦手な種類の人だと感じたからだ。

「申し訳ないです いろいろあってこの町にいなかったもので 弟とも疎遠で翠さんのことも存じ上げずにすみません」

 僕は咄嗟に嘘をついた。

「大丈夫ですよ こちらこそ突然お声掛けしてしまってすみませんでした 市哉さんのことは仁彦から聞いてました だけどなんだかイメージしていた印象と違いますね」

「翠さんはここで何を」

「私 よくここに来るんですよ この町で一番静かな場所」

 この町はどこも静かだ。辺鄙な田舎で人口も少ない。けれどここで翠さんが言った"一番静かな場所"の意味が僕には痛いほど理解できた。この林道の先にある山は代々不浄の場所として語り継がれており、町の人間は殆ど寄りつかない。だから僕はここによく訪れたのだ。

「私 この町の人たちが好きじゃないんですよね 口に出しては言えないですけど あ お義兄さんにはなぜだか言ってしまいましたけど」

「気にしないでください 僕もです」

「そうなんだ 気が合いますね 仁彦からはいろいろ聞いてますけど どうして帰られたんですか 澪子さんのことがあるから?」

「まあ そんなところです」

「じゃあ祝言が終わったらまた戻られるんですか」

「そうですね 仕事もありますから」

「そうですよね 残念だな せっかくお友達になれると思ったのに」

「こんなこと聞いていいのかわからないけれど 翠さんはなぜ仁彦と」

「あの人に言わせればゲームなんですよ 私みたいな人間がどうすれば支配できるか そういうゲーム まんまと引っかかってしまったんですけどね」

「そこまで理解されてるなら その 無理しなくていいと思いますよ」

「ふふ お義兄さんって優しいんですね でもお義兄さんならわかるんじゃないかな 悔しいじゃないですか このままじゃ」

 彼女の言うとおりだった。僕にはその悔しさが理解できた。僕は澪子のために戻った。けれどこの町へと向かう道すがらでそれだけではない自分がいることに気がついた。僕は悔しかったのだ。この町は僕自身を否定する象徴だった。どれだけ離れても、それを忘れようとしても拭いきれない汚点。僕はこうして結局出戻った。どうしても消せないのなら僕は自分の手でそれを壊そうと思った。器を割ってしまえば、それは破片として残るだろう。けれどそれでも幾らかはマシになるはずだと信じて。僕はこの町に復讐がしたかった。

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