川谷パルテノン

第1話

 この町に想い出は残さない。そう誓って全てを忘れて飛び出したはずの家に戻ろうとしていた。妹が祝言をあげる。そのしらせは絶縁したはずの僕のもとにも届いた。妹はあの忌まわしい一族の中で唯一の僕の理解者だった。旧い因習に縋る人たちを毛嫌いし次期当主の座を捨てた僕を駅まで見送ってくれた妹。僕はイエに対する憎悪をもってしても妹の門出にだけは祝福を添えたいとする身勝手な男だった。

 駅はいまだに寂れていた。降りる客は僕ひとり。変わらない香り。残さなかったはずの記憶が一度その地に足を下ろせば蘇った。拒絶が身を震わせる。僕は自らへと言い聞かせるように落ち着けと呟いた。

 あれから十年、僕は二八になった。通りすがる畦道の向こうで畑仕事をする見知った顔も僕のほうには気がつかない。もうこの町の人間ではないという安心感があった。けれど家に近づくたび足取りは重くなった。玄関にまで辿り着いた時、僕は何をすることもできずに立ち尽くしてしまう。そうしているうちに戸がカタカタと音を立てて開く。

「兄さん」

「その 俺は えっと」

「おかえりなさい」

 胸が詰まる。情けなさだけがある。

「ただいま」


 妹に案内されて十年ぶりに家の敷居を跨いだ。母と弟は祝言に備えた挨拶回りに出ており留守にしているとのことだった。少しだけホッとした自分がいた。

「線香だけでもあげたげて」

 僕がこの家を出ている間に父は他界した。僕はその葬儀にも出なかった。出る必要などないと思った。その時も妹だけは連絡をくれて、電話越しに泣いている妹に対して僕は同情も出来なかった。父の遺影はあの頃と変わらず僕を睨みつけた。仏壇の前で対峙すると臆病者、敗北者、失敗作、何度となく浴びせられた罵倒が今も聞こえるようで吐き気が込み上げた。

「大丈夫」

「ああ ごめん」


 妹と少し話をした。この時ばかりは恨みも憎しみも忘れることができた。叶うならば妹にもこの町を出てほしい、かつてはそう思ってきたが彼女はその身をこの町に落ち着かせることとなり、同時に自らのエゴを恥じた。僕は確かに父が言うような臆病者で、弟と妹に家の全てを押しつけて逃げた身勝手な人間で、そんな男が妹であっても一人の人間に期待していい願いなどではなかったのだ。

「お母さんも仁彦ももうすぐ戻るとおもうけど 兄さん大丈夫 無理しなくていいんだよ 私、顔が見れただけで嬉しい だからもう」

「大丈夫だよ 本当に 俺はお前を祝いたくて戻ったんだ」

 精一杯の虚勢だった。妹のため。それは間違いないが、僕はもうすでにこの家の空気に限界が来ていた。自分でもこれほどまでかと呆れるほどに。


「あら、帰ってらしたの 図々しいのね」

「ご無沙汰しています」

「澪子さんの祝言に出るつもりじゃないでしょうね あなたはこの家と縁のないニンゲン わたしは許しませんよ」

「お母さん、そんな言い方ないじゃない 兄さんは私のために戻ってきてくれたんだよ」

「あなたは黙ってなさい この人は逃げたんです それを祝いの席に呼ぶだなんて 野良犬を這わせたほうがまだマシです どうぞお引き取りください」

「お母さん!」

「母さん、いいじゃないか」

「仁彦さん、あなたまで」

「兄さん、久しぶりだね 相変わらず暗い顔して 都会の話を聞かせてよ 俺は歓迎するよ 皆の前に見せてやってくれよ そのしみったれた情けないツラをさ」

「仁彦!」

「そうね それもいいかしら」

「二人とも酷いよ」

「いいんだ澪子 感謝します」

 僕は頭を深く下げ唇を噛み締めた。言われて然りという思いと何も変わっちゃいないという絶望が渦巻いて、切れた唇からは血が滴った。


「この部屋使って 少し埃っぽいけどごめんね」

「ありがとう」

「明後日の祝言 出なくていいよ 私は兄さんが辛い思いしてまで居てほしいわけじゃないから」

「何言ってんだ澪子 俺なら大丈夫だよ あれくらいのことなら気にしてない 俺はね お前の綺麗な花嫁姿が見れるならなんだって気にならないさ」

「兄さん 私 私ね……ううん、ごめんなさいなんでもない じゃあおやすみなさい」

 僕はこの時、澪子の話を最後まで聞いてやるべきだった。それなのに自分は澪子に強がりながらも沸々と湧き出る憎しみをどう抑え込むかに必死で澪子の言葉を聞きとげることが出来なかった。


「出るからには身だしなみはきっちりしてもらいます どうです 誰よりもあなたが憎んだ人のものに袖を通す気分は」

「関係ありません 僕は祝言に出られるならそれで」

「顔色が悪くてよ 市哉 お母さんはねこうは言ってもお腹を痛めて産んだあなたのことまだ愛しているのよ」

 嘘をつけ。あんたはいつだって父を止めはしなかった。当主ゆえの心痛と苛立の吐口として僕が目の前で父から殴られようが蹴られようが、あんたは今みたいな冷たい目で蔑むだけだった。幼く力のない僕は何度も助けを乞うた。父を止めれるのはあんただけだと信じたから。何が愛だ。ふざけるな。あんたも親父とおなじ人間のクズじゃないか。そんな思いが喉元まで込み上げた。けれど父の袴を身につけたことで僕はあの日の無力な子供に戻ったみたいで母に対しても冷静を装うのがやっとだった。澪子のことがなければここで今すぐ殺してやりたいと本気で思っていた。

「悪いことは言いません 仁彦はああ言ってましたが私だって家の恥を晒したくはありませんからね 澪子だってそう思っているはず わかったならとっとと荷物をまとめて出ていってちょうだい」

「お断りします 僕は明日、祝言に出ます この家の人間としてではなく 澪子の兄として 澪子のためだけに僕は出ます」

「そう なら好きになさい あなたが祝言に出ると伝えたら清蔵さんも気に入らないようで昨日はもの凄い剣幕でしたよ 大変大変 あなた 清蔵さんに殴り殺されたりしないといいけれど」

 母の口からその名が出たとき、僕の身震いは一層増して吐気に変わった。沙沼清蔵。父の実弟。僕はこの男を忘れることがついぞ出来なかった。ある意味父以上に僕はこの男を憎んでいた。むしろ恐れていた。容赦ない暴力の前に死を意識した。まるで獅子の檻に放り込まれたかのように、僕は一方的な折檻をこの男から受けた。僕にはその暴力の理由が分からなかった。甥である僕になぜそこまでのことが出来るのか。聞いたことがある。僕は直接その理由をこの男に問うたのだ。気に入らないから、沙沼清蔵はそう言った。僕はその後もひたすらに殴られて飛びそうになる意識の中でたったそれだけのことならこいつは悪魔か何かだと思った。あの父でさえ殺しはまずいと止めなければ僕はもうこの世にいなかったかもしれない。


「おうコラァ! 市哉を出せ!」

 忘れもしない声。

「あら もう来た 市哉 気をつけてね」

 この人の差金か。僕はその時、この町に帰って初めて本心で母を睨んだ。震え、焦り、恐怖、それらの全てが一周して、なぜだか僕はひどく落ち着いた気分だった。

 

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