娘といふ女

うめ屋

*


 さか家のご令嬢が駆け落ちをしたそうだ。

 それが近ごろ、街でもっぱらの噂になってしまった。一歩外に出ればあまたの好奇と憐憫の目、内にこもれば旦那様のお怒りと使用人たちの重たい沈鬱。あちらもこちらも針のむしろで、そんなふしだらな娘を産んだわたくしに投げかけられるまなざしは殊更厳しい。

 子が道を誤るのは母の咎、母親がしつけと教育をきちんと施さなかったゆえのことだ。

 これがおおよそ世間の見方で、わたくし自身、娘を御しきれなかった罪の重さを思うと胸の潰れる心地がする。旦那様に百度詫びれども、血のにじむまで床に額をすりつけども取り消しようのない汚点である。

 もっとあの子の交遊に目を光らせればよかったのか。

 進捗の気風ある女学校などに通わせるべきでなかったか。

 いくら悔やめども時は戻らず、娘のゆくえを探る手がかりもふっつりと途絶えている。

 いっそ、あの子がひと知れずどこかで息絶えてくれればよいのに。

 そのようにおぞましい、恐ろしい、母親としてあってはならない考えにまで憑りつかれてしまう。ぞっと背筋を凍らせながら、されども一方でわたくしはこうも思う。

 母と娘は、親と子である以前にひとりの女と女である、と。


*


 思えば、産まれたばかりのあの子を抱いたときから、わたくしは娘にかすかな違和を覚えていた気がする。

 わたくしに似た色の肌、わたくしに似た瞳や鼻梁の見目かたち。周りのひとびとは娘の美貌を称賛したけれども、その顔を見たわたくしはぞわりと肌を粟立たせた。

 無性に、その子のふくよかな頬を張り倒し、あまつさえ首を絞めてやりたいとすら思ったのだ。

 それはほんとうに一瞬の衝動で、つぎの瞬間にはその激情を封じていた。わたくしの中の理性が、とっさに考えることを拒んだのだろう。この感情は目覚めさせてはならぬものだと感じたから。

 わたくしは、娘を抱きあげて欣喜する旦那様にぎこちなく微笑みかけた。

 舅も姑も、ほかの親族やお祝いに駆けつけてくださったお客様がたも、みな娘のことを珠のような子だと褒めそやして笑みを浮かべる。わたくしはいちいち礼と謙遜をくりかえしながら、この子を育てゆくことの重さが両肩にのしかかるのを感じていた。

 娘は、ものごころついたころから、わたくしとは違っていた。

 新世代の女とでもいえばよいのか、はきはきとものを言い、聡明で落ち着いている。冷えた湖面のような瞳でじっと大人たちを見つめていることもあり、そうした場面を目にするたび、わたくしはあの子に見張られているようで緊張した。

 わたくしは、家柄だけが取り柄の平凡な女であるから。

 おろおろと旦那様にすがることでしか生きられぬ、前時代の妻だから。

 強く賢く生い立ってゆく娘を見れば見るほど、わたくしはいたたまれない肩身の狭さを覚えるようになっていたのだ。娘と、わたくしとを引き比べて。

 娘のほうも、わたくしの微妙な嫌悪を敏く感じ取っていたのだろう。あまりわたくしに懐かなかったし、長じるほどにわたくしと距離をとるようになっていった。

 旦那様は娘のことをいたく愛した。ご自分の書斎の本を好きに読ませ、わたくしにも教えてくださらないお仕事のお話をたくさんなさった。

 娘がそれについてゆけるだけの頭をそなえていたゆえに、そのご鍾愛はいっそう増していったのだろう。わたくしにはわからぬ用語で議論するふたりを見ていると、わたくしの身体は独り引き波にさらわれてゆく心地がした。

 そう、わたくしは娘に嫉妬したのだ。

 おなじ顔をして産まれてきた、わたくしの小さな半身。

 されどもわたくしと異なる道を歩んでゆく、歩めるだけの力を持った強き女。その存在に。


*


 屋敷の表が騒がしくなった。

 旦那様がお仕事からお戻りになったのだ。わたくしはやりかけの刺繍を置き、ほの暗い沈鬱を引きずるようにしてお出迎えにあがった。

 旦那様は沓脱くつぬぎで靴を脱いでいらっしゃるところだった。荒れた秋風の気配をまとい、鞄と上着を投げつけるように使用人へ渡している。わたくしは広く磨き抜かれたあめ色のかまちに膝をついた。


「おかえりなさいませ」


 旦那様はわたくしを一顧だにせず去っていった。娘が消えてからいつもこうだ。使用人たちが浮かべてくる、憐れみと嘲笑に満ちたまなざし。わたくしは目を伏せておのれの部屋に戻った。

 曇天であった今日は、夕暮れもないままにひたひたと宵闇が忍び寄っている。

 わたくしは洋燈らんぷに火を入れ、いまここでこの洋燈をなぎ倒したらどうなるだろう、と考えた。

 火は卓子てーぶるのおもてから脚を伝って絨毯や帳帷かーてんに燃えうつり、屋敷のすべてを呑み込んでゆく。旦那様もわたくしも使用人やあの子の部屋も、なにもかも灰燼に帰して死んでゆくのだ。

 それが唯一、あの子への憎悪に報いる方法のように思われた。

 わたくしを置いて勝手に男と出ていった、憎い半身ともいうべきあの子に。

 洋燈の明かりがゆらめき、調度の影を大きくする。

 わたくしは益体もない幻想から醒め、どっと長椅子のうえにへたり込んだ。やりかけの刺繍が脇に打ち捨てられている。なんの役に立つでもない、目的も終わりも見えないそのさまはわたくしとよく似ていた。

 あの子はいまごろ、男の腕に抱かれて愛を交わしているのだろうか。

 それとも追っ手を避けながら、身を縮めるようにして肩を寄せ合っているのだろうか。

 願わくは後者であれと望んでしまう、わたくしはやはり母親失格の女だった。ゆえにこそ、わたくしは永遠に旦那様からの愛を得られないのだ。

 外でこうこうと風が出てきた。わたくしは椅子に身を投げ出したまま、かすかに揺れる窓枠の嘆きを聞いている。

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娘といふ女 うめ屋 @takeharu811

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