第6話 老龍の愉悦(クシャリカーナ視点)
魔王国の北東部、魔物たちの居住区を超えた山々の中に立てられた小屋。
童話に出てきそうな木で出来た小屋の中では暖炉に薪をくべる黒髪の老人が鍋を煮込んでいた。
暖炉、テーブル、椅子と必要なものしか置かれていない小屋はまさに隠居するにはもってこいの秘密基地のようだ。
「やはりシチューは黒に限る」
野菜を煮込み、愛弟子から貰った固形のルーを溶かし入れる。
澄み渡ったスープが真っ黒に染まる瞬間が好きだった。
まるで人の心のようだ。
悪感情に支配されるといかに清らかな者であろうとも心の明かりは消え、真っ暗闇になる。
木製のおたまに掬ったシチューを落としながら香りを楽しむダークドラゴンの元族長、クシャリカーナ。
第一線を退いたことで隠居する身となった老龍はこの2年間で敵対していた人族の真似事を始めた。
きっかけは一人の少年との出会いだった。
魔王国に流れた不穏な風に導かれるように辺境へ飛べば、魔力を持たない
その姿はまさに挙動不審。
なぜ、こんなにも怪しい者が魔王国に不法入国しているのだ。
辺境とはいえ、国境検問は何をしている。
これだから下等種族は……。
大空を自由に飛ぶ
特に人間は酷い。
勝てる見込みのない戦を仕掛けては敗走し、時に同種族で争い、無意味に血を流す。
魔王国よりも文明が発達しているとは思えない愚かさ。
とても正義を謳う勇者を輩出する種族の仕業とは思えない。
そんな嫌悪感を抱きながら上空で停滞するクシャリカーナの眼下にいる少年からはわずかに人間の臭いがした。
しかし、それだけではない。
鬼人族の臭いもする。
暇を持て余していたクシャリカーナは面白半分の気持ちで、人間でありながら魔王国に潜入して諜報活動を行うツダと接触し、師弟と呼べる関係を構築した。
それから早くも1年半。
愛弟子は魔王のお膝元である魔宮殿へと召し抱えられた。
あの者なら、きっと当代の魔王に気に入られるだろう。
なんせ、とんでもない大きさの器を持つ者なのだからな――
「クシャリカーナ様。ゴ報告ガ」
小屋の外から聞こえる歯の隙間から漏れ出るような声。
一人田舎から都会へ就職した孫を想う気持ちだったクシャリカーナの元へ、若いドラゴンが駆けつけた。
「何用だ?」
窓を開けて、優しい嗄れた声で問いかける。
若いドラゴンは怪訝顔だった。
シチューを煮込む老龍の姿はいつ見ても慣れない。
なぜ、劣等種である人間の真似事をするのか。何が偉大なるダークドラゴンの長を変えてしまったのか。
そんな疑問を振り払って告げる。
「ツダニツイテデス」
クシャリカーナはおたまをかき回す手を止め、無言で窓の外を眺めて報告の続きを促す。
「魔宮殿ニテ、ツダトマンティコア族ガ衝突シマシタ」
マンティコア族。
魔王国のド田舎でみすぼらしい生活を強いられている、クシャリカーナにとって取るに足らない種族だ
当然のようにマンティコア族に興味はないが、衝突の結果には興味があった。
「ツダから手を出すとは考えにくい。初日から魔王の配下に絡まれたか。して、どうなった?」
おたまを持ち直し、シチューをかき混ぜようとしたクシャリカーナ。
「マンティコア族ノタテガミヲ引キ千切ッタ、ト……」
ぴたりと手が止まる。
そして笑う。
喉を鳴らすように、やがて大地を震わせるように。
「グハハハハハハッ。やりおったナ!」
あまりの驚きと愉快さに人化の魔法の精度が落ちたクシャリカーナの全身には黒い鱗が浮き上がり、顔にはドラゴン味が強く出ている。
マンティコア族のタテガミとは、ダークドラゴン族にとっての髭と同様に強さと尊厳の象徴だ。
それを引き千切ったとなれば一大事だが、龍の髭とは違っていずれは生えてくる。
それにツダは鬼人族らしからぬ温厚な性格の持ち主だ。
きっと、千切ったタテガミは返したのだろう。
もっとも、返されたところで二度とくっつくことはないのだが。
「ソノ一件ハ魔王様ノ耳ニモ入ッタソウデス」
「であろうな。だが、たかがタテガミの一部を千切っただけであろう。そこまでの大事にすることもなかろうて」
「イエ、ソレガ……」
歯切れの悪い若いドラゴンを横目に、クシャリカーナは人化の魔法をやり直し、人間の体と顔へと戻る。
「皮膚ゴト持ッテイッタノデ、二度トタテガミガ生エテコナイラシク。魔宮殿ハ大騒ギニ」
その声は少しばかり震えていた。万が一にも自分の髭を抜かれたら、と嫌な想像をして身震いしたのだ。
それはクシャリカーナも同じだ。
知らず知らずのうちに頬をなぞってしまっている。
「育て方を間違ったか……? いや。これくらいでなければ魔王の側近など夢のまた夢か」
「クシャリカーナ様。何ヲオ考エデ?」
「ツダはいずれ魔王国を統べる男よ。奴はどこまでも上り詰めるぞ。今回の件はその足がかりに過ぎぬわ。魔王軍四天王、
クシャリカーナは高笑いし、歓喜という名の極上のスパイスを施されたシチューをお皿に盛る。
そして、人間と同じようにスプーンでひと掬いして口へと運んだ。
「美味なり。ツダにはまた人族の中へ紛れ込んで貰わねば。そろそろ、シチューのルーも切れる。奴のコーヒーも底を着く頃だろう」
「クシャリカーナ様、本当ニツダハ信用デキルノデスカ? 人ニ紛レテイル間ニ、多種族同盟軍ノ奴ラニ懐柔サレルコトハ?」
「ない。何故なら彼奴は……。いや、何も言うまい。ツダは本当の意味で我を裏切らんよ」
老龍クシャリカーナがここまで愉悦したのは何百年ぶりだろうか。
まさか、劣等種である人間が鬼人族に扮して魔王国に忍び込み、堂々と諜報活動をしているなどと誰が想像できるだろう。
それに、褒めるべきはツダの圧倒的な適当能力。
なぜ人間風情が濃密な魔素が渦巻く魔宮殿で生きていられるのか。
マンティコア族という化け物を相手に勝利できるのか。
誰も答えに辿り着けないだろう。
クシャリカーナは掲げたスプーンに映る自分の顔を見て、更に笑みを深める。
愛すべき弟子であればこの魔王国を、この世界を変革できると確信して――
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