心臓のない女
ロッドユール
心臓のない彼女
「私は心臓がないの」
「・・・」
暗い部屋。すべてが真っ白なベッドの上に、裸のままの伊織と隼(しゅん)が座る。
「私の胸の中は、小さなモーターが回っているだけ」
伊織は自分の胸に手を当てる。
「・・・」
深夜の凍てつくような静寂。今、世界はいったん立ち止まっている。
「静かなの。心が静かなの。とても傷つくことを言われているのに、私は何も感じない。とても腹の立つ出来事に遭遇しているはずなのに、怒りが湧いてこない。怒らなきゃって思うんだけど、怒りが全然湧いてこない。怒りたくても怒れない。憎しみもない。悲しみもない」
「・・・」
初めて会う、この女になんでこんな話を聞いているのか隼は不思議に思いながらも、伊織の話を黙って聞いていた。
「私の胸の中心でただ小さなモーターが回っているだけ」
伊織のささやくような、それでいて妙に響きのある声が、無機質な空間に流れていく。
「誰かを愛していても、私の心は静かなまま。私の心は何も感じない。愛しているという意識があるだけ」
「・・・」
「世の中がこんなに理不尽なのに、私の心は静かなまま」
「・・・」
「何も感じないってことは、何もないってこと、何もないってことは私がないってこと」
「・・・」
「生きているけど、生きていない。私は生きていない・・」
「・・・」
行きずりの、そういう関係なのだと隼は思っていた。いつもの軽い、ちょっと気が合って、お互いなんとなくいいなと思って、そして、裸になって、肌を合わせて、そして、また、普段の日常に戻るまでの一つの刺激。実際そうだった。だが、伊織は白い月明かりの差し込む、カーテンの開け放たれた無機質な空間で、唐突に語り出した。
「私の心臓はまだ動いていた。ちょっとだけポンコツだったけど、まだがんばっていたの。ドクン、ドクンて。でも、ある日お医者様が、交換したらって言った。気軽に、古くなった車のタイヤを交換するみたいに、なんてことないみたいに言った。まるで、そうしないことがとても愚かで間違ったことみたいだった。そんなもんかって、私は軽い気持ちで手術を受けた」
伊織は口元に小さく笑みを浮かべた。
「普通の心臓よりも血液循環もよくなるし、体の調子は上がるって言われた。実際その通りだった。体の調子はよくなった。呼吸も楽になった。激しい運動も、徹夜もできるようになった。無理のきく体になった。体重だって軽くなったわ。ふふふっ。重い心臓が小さなモーターになるんだもの。当然よね。ふふふっ」
伊織は笑った。その笑いの質感はどこか薄く、軽かった。
「頭も、多分血流がよくなったからだと思うけど、生まれ変わったみたいに冴え渡った。回転も速くなったし、理解力もすごく上がった。記憶もよくなったし、口も達者になった。いろんなアイデアもバンバン出るようになった。勉強もできて、仕事もできて、いいことづくめ」
うれしいことを話しているはずのその伊織の目には、しかし、喜びはなかった。そこにはただ茫漠とした静寂が流れているだけだった。
「でも、私の心は静かなまま。勉強ができて、仕事ができて、周囲から褒められて、うらやましがられて、でも、私は何も感じなかった。素敵な音楽を聴いても、素晴らしい絵画を見ても、感動的な映画を見ても何も感じない。友だちとおしゃべりしても、とにかくはしゃぎまわっても、何も感じなかった。喜びも満足も、幸福も何も感じなかった。私の心は静かなまま。幸せという形だけがそこにあった」
「・・・」
「画期的発明だった。それは多くの心臓病に苦しむ人を救うことになった。実際、多くの人の命と人生を救った。すごくかんたんでお手軽に新しい心臓を手に入れることができるようになった」
「・・・」
「神経症で、自分の心臓の鼓動がうるさいから眠れないって、健康な自分の心臓をとってしまう人もいるの。そのくらい気軽に心臓の交換ができるようになった」
「・・・」
もし、愛が時間ではなく、瞬間であるなら、隼はこの伊織という女を愛してる自信があった。しかし、時間を経るという固定観念は、早々意識ごときで拭うことなどできなかった。しかも、いくら隼が伊織を愛しても、伊織は意識の上でしか、隼を愛することができない――。
「・・・」
隼は生まれて初めて人を愛おしいと思った。
「多分、私は死んでしまったんだと思う。死をどう定義するかなんて難しいことは分からないけど、でも、少なくとも私はそう感じる」
「・・・」
死をどう定義するかなんて隼にも分からなかった。が、しかし、隼の抱いた伊織の体は確かに生きていた。
「・・・」
死んでいるのは自分の方ではないのか。隼はふと思った。
「お前の目は死んでいる」
昔、チラシ配りのバイトをしていた時、同じチームになった一つ上の男が、隼に言った。自分ではまったくそうは思わなかったが、しかし、その時のその男の言葉はなぜか妙に隼の心に残った。
隼は伊織を抱きしめた。やはり、そこには温もりと確かな質感があった。
「私は死んでしまったの・・」
伊織が隼の胸の中で静かに呟く。隼の胸の中では、心臓が確かな鼓動を打っていた。
「どうせ死んでいるなら、じゃあ、実際死んでしまおうって思った。でも、その時も私は何も感じなかった」
伊織は隼の鼓動を全身で聞いていた。
「私の心は静かなままだった・・」
「・・・」
「私は死んですらいなかったの・・」
伊織は消え入るように最後に呟いた。
「・・・」
隼は伊織のこの冷たくなってしまった悲しみを、体の温もりごと抱きしめた。無機質なただの現象になってしまった伊織の存在を、しかし、抱きしめることで何とか人として存在させたいと思った。伊織という存在を、隼は堪らなく愛おしいと思った。
心臓のない女 ロッドユール @rod0yuuru
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