第23話ばいばい。


 蒲田の片隅に、私と伊乃は部屋を借りた。

 町は再開発されたばかりで未だ同じ高さの建物が少なく、新築のマンションからは海まで見晴らすことができた。開け放った窓から流れ込んで来る風は、これから起こる希望を運んできてくれるようだった。

 伊乃と籍を入れた数か月後、妊娠をした。間もなく男の子だということが判った。

 呼ぶような友だちがいないから、ハワイで結婚式をあげた。矢のように何でもない日常が過ぎていった。その「何でもないこと。」が、愛おしくてたまらなかった。 

 ある日、川崎駅の構内で一人の男が歩いて行くのを見た。「だっちゃんだ。」と思った。

 彼のことを追おうとしたけれど、身重の私には追えなかった。いいや、追えなかったんじゃない。身重であることを言い訳にして、追わなかったのだ。

 あれはきっと他人の空似だったのだろうし、それにきっともう、わざわざ好き好んで彼の現状なんか知るべきじゃないのだろうと思う。私はもう、彼の何でもない。


 ある日、埼玉にある伊乃の実家に顔を出す用事があって、彼の運転する車で向かっていた。彼の運転も随分上手になったから、乗っていて不安な気持ちになることはもうない。

 途中、見知った景色を見付けた。

 だっちゃんの引っ越しを手伝ったとき、一度だけここに来たことがあったのだ。

「ねえ、そこを曲がったところにある公園に少し停めてくれる? 」

 車を降り、公園横から細い路地に入り、彼が住んでいたアパートに抜けた。彼の部屋は空室になっていて、ポストにはチラシがすし詰めになっていた。

 木製の扉は相変わらず薄汚れていて、私は生理的な嫌悪感を覚えた。こんな部屋で暮らしていたら、私だったら耐えられないと思う。耐えられないことが分かるから、なるべく近寄らない。

 だっちゃんは耐えられた。耐えられてしまったから、道を踏み外してしまった。彼はきっと、身を守るための嫌悪感を持たなかったのだと思う。

 あのとき彼に何かしてあげることができたのだろうか、と思わないこともない。けれど、きっと何をしたところで焼け石に水だったのだろうとも思う。

 寂寥感に突き動かされるまま、受け容れるべきではない事を受け容れ、受け容れるべきではない人を受け容れた。それが一層孤独になることだと薄々分かっていたはずなのに、寂しさに耐えることができなかった彼は、そういうものを拒むことが出来なかった。

 君には、あんな惨めな思いはさせたくない。絶対、賢くて素敵なヤリチンにしてみせるからな。お腹を優しく撫でると、トン、と蹴り返してくるのを感じた。

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ばいばい、だっちゃん。 だっちゃん @datchang

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