第21話一緒に過ごした幽霊
ある夜、渋谷の小料理店でだっちゃんと食事をすることになった。彼と会うのは久しぶりだった。
通関士の合否発表当日、パソコンで伊乃に代わりに結果を見てもらうと、意外なことに合格してしまっていた。私の人生で二度も良いことが立て続くなんて、珍しいことだ。
思わずだっちゃんに「合格のお祝いしてよ! 」とLINEを送ると、即座に「いつなら空いてる? 」と返って来て、食事をする次第となった。
久々に会っただっちゃんはスーツを着ていて、「実は、少し前に再就職いたしまして。」と恥ずかしそうに笑った。
伊乃と婚約をしたことも、通関士の試験に合格したことも、だっちゃんは自分のことのように喜んでくれた。お互いの近況を報告し合うつもりだったけれど、私のことばかり話してしまったような気がする。いいや、敢えて私はだっちゃんに彼自身の話をさせなかったのかもしれなかった。
レジでお会計をしようとすると、だっちゃんが「オレに払わせて欲しい。」と懇願した。
「大丈夫なの? 無理しなくていいよ。」
「1、2万円の支出で当面の生活が変わったりなんてしないよ。それに、これはお祝いだから。こういうときにケチると一生後悔するじゃんね。」
だっちゃんがレジに現金を渡していた。彼はクレジットカード派だった。だけど破産して取り上げられてしまったらしい。ペラペラで洗練されていた財布は、ノーブランドのいかにも中高年の持ちそうな代物に替わっていて、ポイントカードでパンパンに膨らんでいた。
駅へと向かう帰りしな、「ねえ、一本吸って行こうよ。」とだっちゃんを誘った。
公園のベンチに座って、二人で紫煙を燻らせた。私はデュオ、彼はマルボロ。不思議と他のタバコを試してみようという気にはならなかった。
「ねえ、何だか昔に戻った気がする。」
「だね。ほんの数か月前もこうしていたのに、ずっと前みたいだよね。」
ある日、いつもの喫煙所を覗きに行ってみると、何の予兆もなくベンチも灰皿も撤去され、コンビニになっていた。変わらないものなんてない。変わらないようでいるものだって、本当は少しずつ、朽ちたり、汚れたりしていっている。
「あのね、ちょっと申し訳ないんだけど、一緒に行った秋田旅行の写真、全部消そうと思うの。男と女で旅行に行くのって、やっぱり普通の価値観からしたら変なんだろうし、何かの拍子で彼氏に見られて変な疑いをかけられたら絶対に嫌だし。」
我ながら酷いことを言っているなと思う。だけど私たちは幸せになるために婚活をしていたのだ。やっと掴んだ幸福の端緒を絶対に離すわけにはいかない。そんなこと、わざわざ言わずに勝手に消せば良いのかもしれない。けれど、黙って私たちの過ごした時間を消し去ることはできなかった。
「そうしな。リスクは少しでも減らしておくべきだとオレも思うよ。」
だっちゃんがそれは何でもないことみたいに言って、煙を吐いた。それが夜の闇に細かい粒子となって分かれていって、終いには見えなくなった。
自分との思い出を消されることに、少しは傷ついた表情をして欲しいと思った。そう思った自分に嫌悪感を覚えた。私にそれを言う権利はない。消すと言ったのは私で、多分彼は傷ついている。その上、もっと大事にされたいと願うことそのものが甘えなのだ。彼は、私の男ではない。
「ねえ、だっちゃん。メスタバコあげる。」
彼にデュオの箱を渡した。数本、中身が残っていた。
「これから子ども作りたいから、妊活も始めようと思う。ああいうのは授かりものだからさ、苦労するかもしれないけど、もうタバコには頼らないでいきたいの。」
「人生がどんどん進んでいくね。本当に羨ましいよ。」
努力をしたら報われるだとか、因果応報だとか、そんなことは全部まやかしだと思う。
だっちゃんは確かに不動産投資でバカな失敗をしてしまったけれど、でもそれは仕方のないことだったと思う。
もしだっちゃんのことを愛してあげられる女が現れたのなら、投資になんか手を出さず、平々凡々な社会人として暮らしていったかもしれない。
そして彼がお金に困って七転八倒しているとき偶然目の前に現れたのが、あの不動産投資だった。ある日、夕方のテレビで、だっちゃんのハマった「不動産投資の闇特集」が取り上げられていた。あんなものに手を出すのが数か月遅ければ、きっと彼もこのニュースを見ていたのだろう。彼は本当に運が悪かった。それだけのことだと思う。
私が元カレと別れてしまったことも、仕事を辞めざるを得なかったことも、生まれつき偏屈な人間性の持ち主であることも、全部自分ではどうしようもなかったことだ。
その後だっちゃんと出会ったことも、彼と旅行したことも、彼の勧めで資格の勉強を始めたことも、自分で選びとったようでいて、実はただ流れに身を任せるままに生きてきた。
だから私の人生が好転し始めたのだとしたら、それもきっと私が頑張ったからなんかではきっとなくて、全て偶然の賜物なのだと思う。
「だっちゃんのお陰だよ。だっちゃんに出会わなかったら、こんなとこまで来れなかったと思うから。もう4年も経つんだね。早いよね。あっという間だ。」
「柄にもないこというね。そういうこと言うようになったんだ。」
「本心だよ。」
「良かった。オレはね、ずっと莉佐ちゃんの存在に救われてたんだよ。何か辛いことがあっても、きっとこうして愚痴を肴にお酒飲んだりタバコ吸ったりできるんだろうなって思えたから。莉佐ちゃんが通関士の勉強を始めて婚活を控えてたとき、オレが疫病神になってしまうんじゃないかってちょっと不安だったんだよ。ほら、オレってツイてないだろ。莉佐ちゃんが幸せになってくれて、本当に良かった。」
もう行こうか。とだっちゃんが言って、駅に向かって歩き始めた。
「そういえば、花奈さんはどうしてる? 」
「花奈さんはこないだ亡くなったよ。自殺したんだ。」
寝耳に水で、私は呆気にとられてしまった。
「え? どうして。どういうこと? 」
「どうしてかな。死んだ人のことはよくわかんないよ。でも、「一緒に死んで欲しい。」って言われたんだ。オレは。「一緒には死ねない。」って答えた。そしたら、一人でいなくなってしまった。」
「一緒に死なないでいてくれて良かったよ。」
「オレはずっと誰かの特別になりたいと思っていたんだよ。でも、結婚することも諦めたし、これからの人生は淡々と、ただの無能な人間として邪険にされて生きていくしかないと思ってたんだ。だから花奈さんに、「一緒に死んで欲しい。」って言われたとき、嬉しかった。やっと誰かの特別になれたと思ったから。」
「そんなの特別って言わないよ。」
「そのとおりだよ。オレはね、花奈さんのことが好きだったんだよ。できれば、「一緒に生きて欲しい。」って思った。でも彼女はそんなことより、ままならないこの世から逃げ出す方が大事なことだったみたい。」
「だっちゃん、私はね、あの人のことが嫌い。死にたい人は黙って死んだらいいと思う。周りを巻き込もうとする人間は間違ってる。もし死んだら、だっちゃんのこと一生恨むよ。」
だっちゃんは笑って言った。
「きっと生きてる人間が死んだ人間を一生恨み続けることなんて出来やしないよ。生きていくのって、ただそれだけで本当に大変なことじゃんね。莉佐ちゃんは結婚して子どもを作るんだから、自分の特別な人のことをちゃんと想っていた方が良いよ。」
「だっちゃんはきっと幸せになれるよ。君は悪人じゃないんだからね。」
苦し紛れに背中から話しかけたけれど、だっちゃんは何も答えなかった。
「だっちゃん、これからどうするの? 」
「これから? 」
「いいや、ごめん、ウソ。やっぱり、言わなくて良い。」
「莉佐ちゃんは努力が実る星の下に生まれてきたんだよ。きっとこれから全部全部うまくいくからね。マインドユアオウンビジネスでいこうよ。」
そこから、私たちは何も話さなかった。でも私には彼の思っていることが伝わってくるようだった。私たちは何も話さなくたって通じ合えるくらい、解り合えたんだと思った。だけどこんな通じ合い方をするくらいなら、こんなに深く解り合わない方が良かったのかもしれない。
「ばいばい、だっちゃん。」
駅に着いて、改札から彼に手を振った。
あのとき、彼はきっとこっちを見て、笑いかけてくれていたのだと思う。けれど彼の顔は街灯の陰になっていて、よく見えなかった。
「じゃあね、莉佐ちゃん。油断しないでやっていこう! 」
グッ、とガッツポーズをして、彼は踵を返していった。
今でもあの情景が私の心に焼き付いて離れない。彼の姿を見たのは、それが最期になった。
家に帰って見直してみると、彼の写った写真は秋田に旅行したときの1枚しかなかった。お酒の小瓶を片手に赤ら顔で不器用に微笑んでいた。変な顔をしている。
「幽霊と旅行してんじゃないんだからさぁ、撮らせてよ! 」
そうだ、これは私が無理やりスマホを向けて撮ったものなのだと思い出した。
それをパソコンの写真フォルダから削除したとき、ああ、もしかしたら本当にこれで彼は幽霊になってしまったのかもしれないと思った。
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