第20話ダサいブランド
仕事帰り、カフェで勉強して、たまに伊乃の家に行って、お互いに問題を出し合って、お酒を飲んで、寝た。
伊乃は私のことを良い意味で侮ってくれていた。私を大きな猫か何かだと思っているフシがあって、私が急に甘え始めたら適当にあしらってくれるし、私が一人で癇癪を起こしてもあんまり意に介している様子はなかった。
それでも指摘すべきところは指摘し合うことが出来る。その距離感が余りに居心地が良くて、私はつい、「このまま、時間が止まってしまえば良いのに。」と思ってしまった。
今、私は幸せなんだと思う。
だけど私は私だから、私の人生にロクなオチが待っていないことを知っている。
通関士の試験には落ちるのだろうし、伊乃には早晩愛想を尽かされるのだろうし、今の職場の契約は更新されないのかもしれないし、また望みが無いことを知りながら婚活市場を彷徨うのだろうし、終いには、だっちゃんのようにトチ狂ってしまうのかもしれないし。
それでも、時間の流れを止めることなんて出来るはずはない。私に出来るのは、心のどこかで覚悟をしておくことだけだ。
10月になり、通関士の試験日はあっさりやってきて、気付いたときには、試験監督が試験終了の合図をしていた。
試験会場は地元私立大学のキャンパスだった。確かに入構したところまでは覚えているのだけれど、試験が終わるまでの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
同じ会場で試験を受けていた伊乃に支えられるようにして、よろよろとした足取りで伊乃の家に辿り着いたときには、もう夜になっていた。
ネットで各資格予備校の出している解答速報を見ながら自己採点をすると、ギリギリの点数だった。
つまりある予備校の解答速報ではギリギリ合格だったのだけれど、別の予備校の出した解答速報ではギリギリ落第というボーダーラインの上にいた。
そして伊乃の自己採点は、当落線なんて関係ないほど遥か上にあった。
「ほら、だから言ったじゃん。伊乃が受験したらその分枠が減るって。もし落ちたら私、伊乃のこと一生恨むからね! 」
伊乃に四の字固めを決めていると、「イタタタ! 」と言いながら嬉しそうにしていた。
「まあ、落ちたら来年も受けるけど。あーあ、今年受かって転職活動したかったな。」
自分に期待なんてしないようにしていたけれど、それでも行動したらしただけの見返りを思わず求めてしまう。こういう「もしかしたら。」というときは大抵、ダメなときだ。それくらいは分かる。
それでも自分以外、誰のせいにも出来ない。自分のことを傷付ける言葉がいくらでも湧いてきて、刃物のように突き刺していった。涙が出そうになって、「今日はもう、帰るね。」と伊乃に告げると、彼が神妙な様子で切り出してきた。
「実は莉佐ちゃんに言わなきゃいけないことがあって、でも試験に影響出たらマズいと思って今日まで言わずにいたことがあるんだけど。」
ああ、やっぱりこうなるんだと思った。こういう悪いことは大抵タイミングが重なるものだと相場は決まっている。どうしていつもこうなってしまうんだろう。
「莉佐ちゃん、結婚して欲しい。」
「……ハァ? 」
「半年間ずっと一緒に勉強して、莉佐ちゃんと一緒だったら何が起こってもきっと乗り越えられるって思ったんだよ。」
私は絶句してしまった。そうしてしばらくして、正気が戻ると、涙を抑えることが出来なくなってしまった。
「急にこんなことして、良いと思ってるの。一生恨む。やっぱり、受かっても恨むからね。」
「一生、ぼくの傍で恨んでいてください。」
脱オタクファッション男が、一人前になって私のことを泣かせるようなことをするようになった。伊乃はどこからか指輪まで出してきた。女に慣れている男なら、絶対選ばないダサいブランド。私、本当はカルティエが良かったな。
そのことが悔しくて、私は一晩中、彼の胸で泣いた。
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