第18話くまもんの男

 

 週末のある日、川崎駅の東口から少しの商店街にあるカフェで、出会いアプリで知り合った男と待ち合わせをした。

 街には、春風が吹いていた。空はすっきり晴れていて、こんな日はきっと何か良いことが起こるような気がする。けれど、四半世紀も生きていれば決してそんなことがないことくらい、さすがに分かってくる。

 駅前には、新社会人と思しきこなれないスーツ姿の若い男が、不動産のパネルを身体の前後に付けてサンドイッチマンをしていた。日差しと風に目を顰めながら、声を張り上げティッシュを配っていた。

 あんなにずっと大声を出し続けて、よく喉が潰れないものだと思う。私にはもう、あんなに思い切ったことをすることはできない。哀れに思ってティッシュを受け取った。彼の顔を近くで見ると目は真っ赤に充血していて、鼻水を垂れ流していた。きっと重度の花粉症なのだろう。これは長続きしないだろうな、と思った。

 カフェに到着すると、アクセスし易い場所にあるだけあって、まだ早い時間なのにお店の中は人でいっぱいになっていた。

 周りには私のようにアプリで知り合ったと思しき男女が無数にいた。春だから、みんなツガイになる相手を探して盛っているのだ。婚活歴が長いから、会話をしている男女のたどたどしい仕草や話し方、リアクションのオーバーさで大方それと見分けがつくようになってしまった。これがヒヨコ鑑定士みたいにお金になる能力だったら良いのに。

 これから相手の男がやって来て会話が始まれば、端からは自分もそういう盛った女の一人であるとみられてしまうのだろうか。それを思うと、段々気が滅入って来た。

 待ち合わせまで、まだ時間があった。それまでに1問くらいは問題を解いておきたいと思い、参考書を広げていると、間もなく男がカフェに入って来て、私の姿を見付けると、「あ、どうも。」と言って笑いかけてきた。

 私は、彼を一目見て、「またかよ。」と思い、危うく舌打ちをしてしまうところだった。男は、伊乃と名乗った。

 裏地にチェックのついた、英字の書かれた白いシャツに、謎のポケットのついたカーキのパンツ。いわゆる脱オタクファッションの典型みたいな服装をしている。よく見ると若干の寝ぐせまでついていて、とても女と会うつもりだったとは思えない。

 本当ならすぐにでも切り上げ家に帰りたかったのだけれど、女たちにドタキャンされまくった挙げ句、人生の方向性を間違えてしまっただっちゃんの顔が脳裏を過り、やはりそこは一応、来て貰った分くらいの義理は果たさなければいけないのだろうと思いなおした。

 伊乃が目ざとく私の参考書を見付けて、訊いてきた。

「あれ、莉佐さん、何かの勉強をされていたんですか? 実はぼくも今、中小企業診断士の勉強をしていて。別に転職とかしようってことじゃないんですけど、先立つものが欲しくて。」

 伊乃がカバンをさぐり、中から分厚い参考書を見せて、「ほら。」といって笑った。何が「ほら。」なんだ、こっちは見せて欲しいなんて頼んでない。

「別に、そんなに大した資格じゃないんですけど、通関士っていうの、知ってます? 私も最近知って勉強を始めてみたんだけど。でも私バカだから、全然進まなくて。伊乃くんは頭良さそうだよね。」

 伊乃は「ごめんなさい、ちょっと調べて良いですか? 」と置いてからスマホで調べ始めた。

「へえ、こんな資格があるんですね。世の中知らないことって沢山ありますね。将来のことを考えて勉強しているんですか? 」

「うん、まあね。一人でも生きていけるようにならないとって、思ったの。」

「すごいです、偉いですね。そんな子、初めて見ました。うちの職場の同僚の女の子、莉佐さんみたいに勉強してる人いないと思いますよ。」

「そう? みんな言わないだけだと思うよ。言う必要ないもん。それに伊乃くんも勉強ならしてるでしょ。」

「それはそうだけど、通関士になろうなんて、その発想はなかったな。そういう生き方があるんだ。」

 発想だなんて大層なものではない。ただ、だっちゃんに教えてもらっただけだ。そのだっちゃんも元カノに教えてもらっただけ。しかし伊乃はしきりに、「すごい。」「そういう道があるのか。」「意外だなあ。」などと言って感心していた。「意外だなあ。」は余計なお世話だと思ったけれど、敢えて指摘はしなかった。

 伊乃はいわゆる旧帝大出身で、近郊にあるメガバンクの支店で働いていた。冴えない見た目の男ではあるけれど、私にはいわゆる学歴エリートというものに映った。そういう人にしきりに囃し立てられるのは少しこそばゆくて、慣れない感覚があった。

「莉佐さん、良かったら、今度一緒に勉強しませんか? 」

 ひとしきり初対面の相手同士のクリシェを交わした帰りしな、そんなことを言われて、私は思わず、「ハァ? 」と応えた。一緒に勉強しようだなんて、そんなことを婚活しているときに言われるだなんて思ってもいなかったからだ。

「いや、もし良かったらでいいんだけど……。」

 気圧された様子で言い淀む彼を見て、少し可愛いと思ってしまった。

「いや、全然良いんだけど。でも私、本当に頭が悪いから、時間無駄にしても知らないよ? 」

 いずれにせよ、現在の参考書の進捗状況から考えると、週のうち何日かは自習に割く時間が必要だった。勉強会が婚活の意味もかねることができるのだったら一石二鳥だと思うし、別にそうじゃなかったとしても、邪魔されたりしないのだったら誰かが一緒に居ても構わないと思った。

 数日後の仕事終わり、都内のカフェで再び伊乃と待ち合わせた。

 私服のダサイ男だと思っていたけれど、スーツ姿は中々サマになっていた。やはりこういうのは、指摘してくれる上司とかがいるのだろうか。ただ靴下を見ると、何故か色柄物だった。

「あ、これ? くまもん。人から貰ったんだよね。」

 私の視線に気付いた伊乃が何でもないことのように言った。人から貰ったとしても、スーツでそれを履いてくるセンスは如何ともし難いと思った。

 伊乃はカバンから「これ、買って来たんだ。」といって通関士の参考書を取り出した。

「こないだ別れたあと、興味出ちゃって。ぼくも一緒に勉強しようかなと思って。」

「ちょっと、やめてよ。私、頭悪いって言ってるでしょ。伊乃くんが受かったら枠が一つ減るじゃない。」

「教え合えば良いと思って。ダメかな。」

「まあ、別にいいけど、中小企業診断士はどうするの? 」

「実は学生時代、元々公務員試験の勉強していたんだよね。だから試験の範囲も結構被ってるし、多分受かるよ。」

「片手間で両方とれるって言いたいわけね。ムカつく。」

 アハハハハ、と笑う彼の姿を見て、だっちゃんの姿が思い浮かんだ。彼は今、何処で何をしているんだろう。

 当初、伊乃は勉強を口実にデートに誘って来ただけで、実際には勉強なんて本当にすることはないんだろうな、と思っていた。

 けれど伊乃は本当に通関士の勉強を始めていて、私の解らない問題も滔滔と教えてくれようとしてくれていた。

 教えてくれようとしていたというのは、伊乃の解説それ自体が難解で、何度説明されても私があんまり理解することができなかったからだ。

 天才は凡人に比べて努力の量が圧倒的に多いんだなんて、そういう言説は腐るほど見聞きするけれど、彼の様子を見ていると、そんなのはやっぱりウソなのだなと思った。理解力も暗記力も、平凡な私では足元にも及ばなかった。そのことを悔しいと思わないこともないけれど、余りにも乖離が大きいので気にならなかった。

 ただ、有能な人に無能の人の気持ちは解らないのだろう。どんなに問題を懇切丁寧に説明しても一向に理解する気配を見せない私に、彼が困惑した表情で「こんなことが……? 」と口走ってしまい、それが遂に私の逆鱗に触れてしまった。

「あのさあ、伊乃くんも今日くまもんの靴下履いてるけど、私からしたらそれこそ「こんなことが……? 」なんだからね。言わないでおいてあげたけど、私服めっちゃダサいしね。」

 八つ当たり気味に指摘すると、彼は心底心外だという顔をしていた。おかげで少しだけ気が晴れた。

「くまもん、ダメだった? ぼくそういうセンス全然なくてさ、どういう服を着たら良いか分からないんだよね。今度莉佐ちゃんが選んでくれたりとか、しないかな。」

 困り顔で遠慮がちに言う彼の様子を見て、私は思わず笑ってしまった。

「じゃあ今度アウトレットに連れてってよ。とりあえず、伊乃くんはスーツで来てね。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る