第12話転機

 

 夏の暑さは堪えるけれど、喫煙所のある高架橋の下は日陰になっていて、少しひんやりしていて心地いい。

 いつものようにタバコを吹かし、吐き出した煙を携帯用扇風機でだっちゃんの方に流すと迷惑そうな顔で抗議してきた。

「うわ、煙! ちょっと、どういうつもりでそういうイタズラするわけ? 服に臭いついちゃうじゃん。ていうか、莉佐ちゃんさっきニンニク食ったでしょ。くっさ。」

「失礼なこと言わないで! 私の煙は臭くありません。ねえ、毎日私のことを見ていて、何も気付かないわけ? 」

「ええ、髪の毛、かなり赤くしたよね。それ会社で何か言われない? あとは……ああ、ええと……化粧品換えた? 」

「正解! 素晴らしい。良く気付けたね。」

「ああ、良かった。あんまり怖い問題出すの止めてよ、気が抜けないじゃん。今のも適当に言ったら当たっただけだし。」

「薬局の安物ばっかり使っていたんだけど、年齢的にもさすがにまずいかなと思って、遂にデパコスに手を出してしまったのよ。イプサっていうの、美容部員に勧められたセットで15万円くらいしたんだけど、ヤバいかな。」

「うーん、別に良いんじゃない? 化粧品なんてどうせ使う物だし、絶対無駄にはならないじゃん。婚活の役にも立つし、綺麗になるとテンション上がるもんね。」

「さすが、女を喜ばす言葉に長けてるね。」

 まーねー。といってだっちゃんは笑った。

「人生は長いから、そりゃちょっとくらいお金遣ったって、少しでも苦しくないように生きていけるのが一番だよ。」

 男たちとデートを重ねる度に、徐々に目が肥え続けていく私自身を自覚している。

 良い人だけど、話が昨夜の男より詰まらなかったとか、話は面白いけれど、顔が一昨夜の男より悪いだとか。数年前の私なら総合的に合格点を付けていたはずの男たちを部分的に相対評価して、どうしても「より良い相手。」を諦めきれない。

 私自身は年々若さと性的価値を失っているのに、目線だけが上がっていくだなんて矛盾した思考だ。

 くだらない男たちと会い続けていると、日々自信を下水にでも流出していくようだ。そんな私に15万円のイプサを投資してやる価値があるのかどうかは分からないけれど、そうだと思わなければやっていけなかった。しかもそれはマイナスをゼロに戻す営みであって、ゼロをプラスにしていくことではなかった。

 こうして私も段々と自分の価値を見誤った人間になっていくのかと思うと、背筋が凍る。考えたくはないけれど、私もだっちゃんと似たようなものなのだと思う。

 多少セックスアピールで勝ったって、一生一緒に居る相手という観点で誰かと比較されると相対的に劣後する。学生時代は若さと容姿でそれなりに愛されてきたけれど、アラサーになっても言動の刺々しさやある種の傲慢さが抜けきらない。それは歳を重ねるにしたがって求められる洗練を経てこなかったという証左だ。

 Twitterでは今日も、いつもの面子が怪気炎を撒き散らしていた。話題はいつだってお金と結婚、そして若さ、美しさ、健康。

 多様性の時代だなんてまやかしだ。むしろ多くの人の価値観が広く喧伝されるようになって、世界中どこへ行ったって幸福の基準が画一的でそう変わりはしないということが周知されただけだ。

 限りあるパイの奪い合いが始まっているのに、選り好みしていくうちにどんどん価値観が先鋭化していって、終いには手のつけられない狂人になる。もう既に自分はそうなっているのかもしれない。そうではないという確信が持てない。

 だから私はもう、幸せになれないのかもしれない、と思う。

「最近、もしかしたら一生独身でいる覚悟をしなきゃいけないのかもって思うことがあるんだ。そしたらずっと仕事しなきゃいけないでしょ? だっちゃんみたいに大企業の正社員じゃないし、ずっと単純作業して、若い子にバカにされるのかもって思うと本当に怖い。」

「莉佐ちゃんなら立派なお局さんになれると思うし、あんまり心配しなくて良い気もするんだけど。」

「テリトリーの話じゃなくて、私のプライドの話よ。結婚できないんだったら、それでも私には仕事があるんだって思いたいってこと。職歴も綺麗じゃないから転職は難しいし、今さら公務員を目指すっていうのも遅いでしょう。何か、人生間違えちゃったのかな。」

 こんな笑い話にもならない楽しくないこと、話したって仕方ない。けれど、話さずにはいられなかった。だっちゃんは少し考えて、スマホで何かを検索し始めた。

「最近知ったんだけどさ、通関士っていう法律系の国家資格があるのね。税関の仕事をするのに絶対必要だから、食いっぱぐれることがないらしいんだよ。莉佐ちゃんが今やっているのは雑用かもしれないけど、とりあえず貿易関係の会社にいるんだからきっと役に立つと思うし、挑戦してみたらどうだろう。」

 確かに難易度的にも手が届きそうで、堅そうな資格だと思った。

「マイナーな資格だから競合が少ないし、転職するときも今の会社で働いていることがキャリアになるだろうし、良案じゃない? 莉佐ちゃんにやる気さえあれば、の話なんだけど。努力だって要るだろうし。」

「進研ゼミのマンガくらい説得力あるじゃん。確かに良さそう、ちょっと家に帰ったら詳しく調べてみるよ。でも通関士なんて初めて知った。こういう情報、だっちゃんは何処から仕入れて来るわけ? 」

 だっちゃんは照れ臭そうに笑った。

「実は最近、昔の元カノと再会して、今目指して勉強してるって聞いたんだよね。」

 その無神経さに腹が立った。そういうことは事実でも黙っていて欲しかった。元カノが目指しているものを女友だちにも目指させるだなんて、変態的なサイコパスの発想だ。他人の使いかけの化粧品をぶっかけられるような不快感があった。

「それはキモい……。」

 頭上の高架橋を特急電車が走り抜けていく音がして、私の声はかき消された。

「え、何? 」

「何でもない! 」

 しかし話の筋は通っている。貿易系の会社で働いているから、貿易系の資格をとって、転職する。

 考えてもみなかった、無駄話をしていなければ知り得なかったはずの選択肢だ。その僥倖に、ツキが回って来たのではないかと思い、少なからず心が躍った。

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