第11話彼の引っ越し

「実は、引っ越しをしようと思ってるんだよね。明日なんだけど。」

 お昼どき、いつものように高架橋下の喫煙所でタバコを吸っていると、だっちゃんが藪から棒に切り出した。

 社会人になった後すぐに、だっちゃんは友だちとルームシェアを始めたらしい。学生時代から付き合っている親友だったという。

 けれど、どんなに友だちとして仲が良くても、旅行みたいに一時的に「寝泊まりすること。」と、一緒に「暮らすこと。」には、雲泥の差がある。

 二人とも社会人だから、平日の帰宅は深夜になり、特に会話もなく寝るだけ。休みの日、だっちゃんは婚活に出かけていて、大して家事をするわけでもなければ、一緒に遊んだりするわけでもない。衛生観念や家事の分担等、折り合うべき部分を話し合う時間も中々持てず、ただお互いの至らなさに不満が募っていく一方だった。

 一緒に遊ばなければ、友だち同士で寂しさを埋め合うことはできない。「ただそこにいてくれていたら安心を覚える。」という関係でいるためには、やはり恋人や家族で無ければいけないのだと気付いたとき、だっちゃんはルームシェアを辞める決断をしたらしい。

「引っ越しのお手伝い、行きたい。だっちゃんの部屋、見てみたい。」

「良いけど、何も楽しいことなんてないと思うよ。友だちはその日、会社だから会うことはないと思うし。」


 翌日になり、教えてもらっただっちゃんの家の住所に向かった。

 そこは神保町の古書店街の裏に位置する築浅の小綺麗なマンションだった。とても若手社員が住めるような家ではない。「ルームシェアして、二人で割れば大したことないんだよ。」とのことだったけれど、それでも決して安い家賃ではなかろうと思った。きっと抱え込んだ不満を呑み込んでいくには、二人とも背伸びし過ぎてしまったのだろう。

 オートロックのエントランスを抜けエレベータで上がっていくと、千代田区の景色を一望できた。

 部屋の中に通されると、化粧っけのある匂いがした。独身男二人、さぞ野球部の部室のような悪臭を放つ部屋に住んでいるのだと思っていたから、意外だった。部屋の中には、女物の服がそこら中に散らばっていた。「女装癖のある人と住んでいたんだよ。」とだっちゃんは言っていたけれど、それは多分、ウソだろう。

 ただいずれにしても、だっちゃんが他の女友だちと秋田旅行に出かけたことと、二人が不仲になってしまったことはきっと全くの無関係ではないのではないかという気がした。

「お手伝いしてくれるんだったら、部屋の掃除してくれる? 殺人現場だと思ってさ、オレがいた痕跡を残さないようにしてくれよん。」

 だっちゃんは自分の荷物をどんどん自分のカバンの中に詰め込んでいった。そして最終的には、大きい旅行鞄一つと、ビジネスバッグ一つに何もかも収まってしまった。

「男だからね。荷物は少ないんだよ。」

 とは言うものの、余りにも少なすぎると思った。だっちゃんは一所に留まれない人種なのかもしれない。

 けれど、その僅かな荷物を回収しただけのその部屋は、空間にぽっかりと穴が開いてしまったように見えた。開け放った窓から風が入り込み、虚空に孤独と不安が入り込んできそうだった。

「よし、こんなもんでしょう。そろそろ行こう。」

 ひと通り家の掃除を終えただっちゃんが私に告げた。「仲が悪くなっても親友でしょ。こんな部屋に一人で置いてくの可哀想だよ。こんな去り方して良いの? 」と言いたかったけれど、私は彼らの関係性を知らないから、余計な口出しをすることはできなかった。

 大通りにタクシーを呼び止め、荷物をトランクに押し込んだ。

 都心での移動は大抵において地下鉄だから、たまにこうしてタクシーに乗って窓から外を眺めると非日常感がある。タクシーの窓を開けると春風が気持ち良かった。空を見上げると、突き抜けるような青空だった。

「莉佐ちゃんは花粉症ないの? よく外気にあたって平気でいられるね。」

 だっちゃんが仰々しく口をマスクで覆った。

 不思議な快感があった。どうしてこんなに自由を感じてしまうのだろう。たった一人で休日を迎え、「何でもして良いですよ。」と言われていてもこんなに焦燥感と閉塞感を感じてしまうのに。今日なんて、ただだっちゃんの後を付いて回っているだけなのに。きっと、逃避行とはこういう感じなのだろう。

 横を見ると、だっちゃんが外を眺めていた。アゴのラインにニキビがあるのを見付け、私はそれを潰してみたいと思った。

 しばらくするとタクシーは大通りを曲がったところにある小さな公園の横で停車した。公園の脇には、「5月7日20時頃、ここで女性が襲われる事件がありました。情報提供は下記に。」と書かれた立て看板が設置されていて、乾いた空気が漂っているように感じた。公園の空にはコンクリート製の橋桁がかかっていて、高速道路を自動車が走る轟音が絶えず響いていた。

「小さいカバン、お願いして良い? 」

 タクシーを降り、だっちゃんに言われてビジネスバッグを受け取った。彼の後をついて、公園の横から細い路地に入っていった。幾度も枝分かれしていて、迷路のような場所だと思った。石垣に挟まれた路地を抜けると、だっちゃんが少し恥ずかしそうに「ここなんだけど。」と言った。

 それは、築数十年は経っているであろう旧い木造アパートだった。かつては白かったと思しき壁には深緑色のコケが生えていて、すすけているような不潔さを醸していた。高速道路から落ちた大きな影がアパートを覆っており、地面は雨後のように湿気ていた。1階の窓にはめ込まれたサッシには物干しハンガーがかかっていて、住人のものと思しき女物の下着が干してある。部屋に電気はついていなかった。

 窓から白く細い腕がヌッと出てきたかと思うと、洗濯物を数枚掴み取り、ピシャリと窓を閉めた。

 あれは「違う世界の住人。」に違いないと思った。その薄気味悪さに、思わずだっちゃんの腕を掴んだ。彼は私の手を払い除けなかった。

 だっちゃんの部屋は1階で、白い腕の部屋の対面だった。扉は木製で、頼りなかった。

 部屋に入ると畳張りの4畳半に土壁、押し入れとユニットバスがついているだけの黴臭くて殺風景な部屋だった。窓から入る明かりも薄暗く、蛍光灯がパチパチと音を立てて明滅していた。そこに男一人とカバンが二つ。なんて寂しい光景なのだろうと思った。今日び刑務所の囚人でももう少しマシな空間で暮らしているだろう。彼の表情から、その内心を読み取ることは出来なかった。

 だっちゃんがカバンを開けて中身をひっくり返すと、彼の衣類や寝具が散乱して、彼の匂いが漂った。そのことに少し安心を覚えている自分に気が付いた。

「今日は手伝ってくれてありがとう、駅まで送るよ。」

「是非そうしてください。私、こんなところ一人じゃ歩けないもの。」

 部屋を出ると、大きなネズミが雨どいの中へ走り込んで行くところだった。反射的に身体が硬直した。

「ねえ、どうしてこんなとこにしたの。」

 他の住人を意識して、思わず声が小さくなった。

「まあボロいけど、安いし駅近だし、どうせ寝るだけだから。それに、盗られて困るものなんて別にないんだよね。……ねえ、莉佐ちゃん、あれ、何? 」

 だっちゃんが指さす方向を見て目を凝らしていると、「ンバァ! 」と言ってだっちゃんが背中から驚かせてきた。私は言葉にならない叫び声をあげ、だっちゃんは腹を抱えて笑っていた。

「ひとの新居をお化け屋敷扱いしてるからこんなことで驚くんだろ? 」

「そういうことしたら殺すって言ったよね! 殺す、絶対許さない! 」

 だっちゃんに何度も肘鉄を食らわせたけれど、彼はずっと笑っていた。帰り道、駅前でラーメンをおごってくれた。

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