第5話メスタバコ

 

 神田駅、高架橋下にある喫煙所のベンチで、私はタバコに火をつけた。高架線と高架線の間から陽光が射し込み、空気に舞う埃を照らしていた。

 この高架橋は明治時代末期の頃に造られたものらしい。赤い煉瓦と白い花崗岩で固められたレトロなデザインは、今でも十分通用する普遍性があると思う。

 頭の上を、御茶ノ水駅へと向かう中央線が走り抜けていった。

 かつて神田駅と御茶ノ水駅の間には、万世橋という駅が存在していた。時代が流れ駅舎が取り壊され、周囲の建物が何度立て直されても、この高架橋だけは数多の修復を経ながら、頑なに存在することを許され続けた。

 煙をふっと吐き出し、ブリキで出来たサビ塗れの灰皿にタバコを捨てた。

 ベンチと灰皿があるということは、この喫煙所は間違いなく誰かが設置したものなのだろう。けれどお昼どきになっても、この薄暗い喫煙所に来る者はほとんどいない。

 一人でいるのは嫌いじゃないけれど、こうしていると心に風が吹き込んでくるような気がする。誰にも顧みられることなく、ただそこで息をしているだけだなんて、私には耐えられない。

 存在することを許されるものと許されないものとの間には、一体何の違いがあるのだろう。

 

 警察官の元カレと別れてから、私は予定どおり仕事を辞めた。「寿退社する。」だなんてうそぶいたまま、同じ職場に居続けることはできなかった。退職を留保された残りの1か月間が本当に苦痛で、危うく気が狂ってしまうかと思った。

 抱え込んだ苦しみを顔に出さずに飄々としていられるほど器用な人間ではない。元カレと思い描いていた幸福、そしてそれが失われてしまったこと、仕事を辞めた後に待ち受けている艱難辛苦のことを思うと、思わず苦悶の表情を浮かべていた、らしい。

「どうしたんですかあ? 顔が怖いですよお、いつもニコニコしていてくれないと、職場の空気が悪くなっちゃいますよお。」

「ハア、そうですか。」

 鬱陶しい上司から粘着質に絡まれ思わず素気ない対応をしてしまい、上司が露骨にイヤな表情を見せた。ああ始まった。ここから「俺は君のためを思って話しかけたのに、そんな態度するのは社会人としてどうなのか。」などと自分を取り繕うための言い訳大会が始まるのだ。

 同棲が決まったときはこういう手合いを上手く転がす余裕があったのに、今となっては、不快な上司は不快の二乗でしかなかった。

 幸福であるというのは無敵だと思う。幸福であることが余裕を生み、余裕がまた幸福を招来する。そういえば何処かの服飾で成り上がった企業の社長が、「成功の秘訣ですか? そうですね、負けないこと、ですかね。」としたり顔で答えていた。腹立たしいことに、それは事実だと思う。

 幸福でいたければ、不幸になってはいけなかったのだ。私は、幸福のままでい続けることができなかった。そのことに、思わず地団駄を踏みたくなる。

「まあ部長。莉佐ちゃんはマリッジブルーなんですよ。私もあったなあ。彼女なんてマシな方ですよ。」

 横からやりとりを見ていたお局さんが割り込んで来て、フォローを入れてきた。これも今となっては嫌味としか受け取れない。時代錯誤のウインクをしてきたから、思わず情け無用の左ストレートをお見舞いしてしまうところだった。

「そうかそうか、うちの奥さんも昔はこうだったのかな? あ、離婚したんだった! 」

 ダハハハハ! と笑いながら去っていく上司の後ろ姿を呪った。

 とにかくこっちは放っておいて欲しいだけなのに、誰も放っておいてくれない。誰もが良かれと思って、無自覚に私を傷付けようとしてくる。悪意が無いぶんタチが悪い。真実なんてとても打ち明けることは出来ないし、やられたい放題だった。

 最後の出勤日、職場の有志から小さい花束を手渡された。

「新天地でも頑張ってね! 」

「君がいない分、仕事が大変になるなぁ。」

「寂しいけど、おめでとう! 」

 そういう暖かい言葉のシャワーを浴びて、私は少し泣いてしまった。周りの若い女子社員の中には貰い泣きする者までいた。けれど、誰もこれが屈辱に塗れた血涙であることを知る者はいないのだった。

 

 *

 

 嫁入りに向けて同棲の準備を始めていたはずの娘が、憔悴しきった顔でいつまで経っても出て行かない。そのことに、両親は全てを察した様子で触れてはこなかった。理解のある親の態度に、私は彼らを少し見直した。

 けれどある夜、ちょっとしたことで夫婦喧嘩を始めたらしい母親の、父親に罵声を浴びせる声が私の部屋まで聞こえてきた。

「莉佐が婚約破棄されたのもアンタの責任なんじゃないの! 」

 窓を開けっぱなしにしたまま諍い合っていたのだ。ご近所さまにシュプレヒコールのごとく娘の恥部を晒す母親に、さすがの私も堪忍袋の緒が切れて思わず飛び掛かってしまい、しばらく家の中は凄惨な事態となった。

 事態が一段落してから、私は渋々仕事を探し始めた。何が無くとも働かなければ生きてはいけない。けれど、やはりというべきか、転職活動は難航した。

 ただの事務職しか経験したことなんてないし、履歴書に書ける資格なんて普通自動車免許くらいしかない。

 英検3級を書いても良いなら書きたいけれど、ネットで調べると「英検を履歴書に書いて良いのは2級から。」とあるのを見付けた。学生時代にもっと頑張れば良かった、と後悔してももう遅い。すぐにでも働き始めなければいけなかった。

 そうして何社も履歴書を送ってはお祈りされた挙句の果てに、ようやっと貿易関係の会社で契約社員として事務の仕事にありつくことができた。

 ネットには「一度契約社員になると、二度と正社員には戻れない。」などという脅迫めいた文言が平気で踊っていた。そのこと自体、否応なく胸を抉った。

 しかしそれでも、とりあえず無職ではなくなったという事実に安堵した。随分幸福のボーダーが下がったものだと我ながら呆れた。

 新しい職場で任される仕事は相変わらず誰にでもできる退屈な雑用だし、イヤらしい中年オヤジに色目を使われたらプライドを傷つけないよう上手く躱さなければいけないし、お局さんのことは丁重に取り立てて仲良くしなければいけない。けれど、仕事というのはそういうものだと思うし、改めて噴き上がるような感情はない。

 元カレと別れた事実は未だに心を苛んでいて、悲しさを忘れてしまったわけじゃない。だけど自分のことを知らない人間関係の中で暮らしているというだけで、それなりに考えなければいけないことは沢山できてくる。

 そうして淡々と仕事をし、余計な悲しみに浸ることから逃げつつ時間薬が効いてくるのを待つ。人生において有事の際、自分自身にできることなんて、こんなものだろう。

 

 一つ、変わったのはお昼休憩の使い方だった。

 それは偶然だったのだけれど、最寄り駅を挟んでちょうど反対側にあるオフィス街に、だっちゃんの職場があったのだ。

 都心には、一人で心穏やかに過ごせる場所が全然ない。といって職場で時間を潰していると上司に絡まれる。そうして所在なく持て余したお昼休憩の一時間、だっちゃんを頻繁に呼び出し外食して回っているうちに、気が付くと毎日一緒にお昼ご飯を食べるようになっていた。

 外食回りは楽しいけれどお金がかかるし、お昼どきのお店は何処もかしこも行列が出来ていて長居をするのも居心地が悪い。

 そして近場のお店や公園を転々としているうちに、私たちは高架橋下にあるこの薄暗い喫煙所のベンチを見付け、定住するようになった。


「本当、午後からやる気起こんないんだけど、もしかしてアレ、ちょっと吸ってみたら午後から頑張れるとかない? 」

 ある日、いつものようにコンビニで買ったお弁当を食べた後にダラダラ話をしていると、小さく古ぼけた自販機が目に入った。私は元々タバコなんか吸わなかったけれど、つい魔がさしてしまったのだ。

「試してみる価値はありそう。とりあえずデュオにしておけば? 」

 高校時代、悪ぶってちょっとだけタバコを嗜んでいたというだっちゃんが自販機で指さしたのは、緑色のラメが入った細長い化粧品みたいな小箱だった。

「オイオイオイ、侮らないでよ。こんなのどうせ爪楊枝みたいなメスタバコでしょ。私は初手からマルボロでいく女なの。」

 女傑を気取って強がってはみたものの、実際に吸ってみると余りの煙たさに吸えたものではなかった。どうやらお酒の強さとタバコへの耐性は比例しないらしい。

「ペッペッペ! まずーい! 何なの、このジジイタバコ! 」

「ほーら言わんこっちゃない。メスタバコ買ってあげるからこっちにしときなさい。それはオレが吸うから。」

 だっちゃんがデュオを買って、苦笑しながら私のマルボロと交換してくれた。

「メスタバコとかジジイタバコとか、とりあえず頭に何か付けておかないと気が済まない病気なの? 」

 

 そして私は、今日も高架橋下の喫煙所で煙をくゆらせながら彼が来るのを待っている。

「ごめんごめん、ちょっと仕事が長引いちゃって。待った? 」

「遅いよ! アラサー女子の1分1秒を何だと思ってるの! 」

 だっちゃんがいなければ、誰かと一緒にいなければ、この場所はこんなにも薄ら寒いのだ。決まった時間、決まった場所へ行けば、決まった相手が私を待ってくれていることの安心感を思った。きっとこの安心感を人生全体に行き渡らせることが、「家庭を持つ。」ということなんじゃないだろうか。

 だっちゃんは孤独な男だから、きっと同じ気持ちでいると思う。不安を抱かせないところも彼の良いところだ。

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